謁見交渉(3)
箒を両手で握り締めて、ベルは廊下の片隅に立っていた。心に引っかかることはあるが、思い悩んでも物事は発展しない。ベルにはメイドとして与えられた仕事があり、それをこなす必要がある。ネガやポジと役割分担を決め、ベルはいつものように掃除に励んでいる最中だった。
そこでベルは下げた視界の外側から、不意に名前を呼ばれた。顔を上げるでもなく、ベルは聞こえてきた声から、自分の名前を呼んだのが誰なのか察し、声の聞こえた方に目を向ける。
「ベルさん、少しよろしいですか?」
真剣な表情と声色で、そのように聞いてきたのは、シドラスだった。ベルが仕事中であることは見れば分かるはずなので、それでも声をかけてくるということは、それほどまでに大事な話が控えているということだろう。
「ちょっと待ってくれ」
ベルはシドラスに断りを入れてから、少し離れたところにいたネガとポジに声をかけに向かった。シドラスからの話は何か分かっていないが、そこにシドラスがいることと、声をかけられたことを伝えれば、二人も察してくれたようで、捧げものを捧げるかのような動きでベルを送り出してくれた。
ネガとポジに許可を貰えたことを伝え、ベルはシドラスと共に王城の中を少し歩く。人に聞かれたくない話なのか、シドラスは誰もいない場所を探しているようだ。自分の立場にベネオラが立っていたら、きっと浮足立っていたのだろうと、ベルはシドラスの様子から妄想する。
「この辺りでいいでしょうか」
そう言いながら、シドラスが足を止め、ベルの方を向いた。仕事中のベルを呼び出し、慎重に場所を探すほどの話とは一体、何だろうかと、ベルは若干の緊張感に包まれる。
「実は先ほど、宰相閣下とお話ししてきまして、ベルさんの希望している竜との対面ですが、いろいろと手回ししてくださるそうです」
シドラスの持ち込んだ話は、正にベルがさっきまで気にしていたものだった。メイドとしての職務があるから、と気持ちを無理矢理に切り替え、気にしないように努めていたが、その裏では進展があったらしい。
「それなら、竜のところに行けるのか?」
「問題は、そこなのですが……」
期待の籠った声を漏らしたベルに対して、シドラスはここからが本題と言わんばかりに、表情を少し曇らせていた。恐らく、ここからの会話を聞かれたくないから、わざわざこの場所を選んだのだろう。
「現代の竜の住まうサラディエに向かうため、ウルカヌス王国に交渉はしてくださるそうです。相手側も望んでいることがあるそうなので、交渉自体には乗ってくれるでしょう。ただ実際に竜と逢えるかと聞かれると、その部分については現状、まだ何とも言えません」
「向こうの判断で断られる可能性があると?」
「そういうことになりますね。ただでさえ、ウルカヌス王国は身内のごたごたを抱えた直後ですから、爆発するかもしれない危険物に進んで触ろうとは思わないでしょうから」
ウルカヌス王国の王女であるソフィアを中心にしたごたごたは、ベルも詳しく知っているものだった。その時に知った向こうの王子、ハムレットのことも考えると、竜への接触は慎重に判断せざるを得ないだろう。
「一応、こちらの事情も把握されているはずなので、竜との接触を求めても、それが直接国際問題に発展する可能性は低いと思いますが、接触を無理に求めて関係性が悪化しても問題なので、その時は素直に受け入れるしかないと思います」
「まあ、そうだな。せっかくできた国同士の関係を、私一人の我が儘で潰すわけにもいかないし、そうなったら、素直に諦めるしかないか」
国家間の問題に発展してまで自分の気持ちを押し通すことは、そこに可能性があるからと言って、アスマの血液を求めるくらいに、ベル自身が嫌っている行為だ。そこまでは望めないと理解し、先に受け入れる気持ちを作れるだけありがたいと思う。
「どうなるかは分かりませんが、もしも竜との接触が認められれば、ベルさんも王城を離れて、ウルカヌス王国に向かうことになります。が、竜との接触という行為が大々的に知られれば、帝国の時のようなことが起きかねないので、その時は他の理由を用意してください」
「他の理由か……ウルカヌス王国に行くことは言ってもいいのか?」
「そこについては問題ないと思いますよ。一応、今後の話し合い次第で変わるかもしれませんが、現状はその部分を隠さない方が説明はしやすいでしょうし」
当初は秘密にされていたウルカヌス王国との接触も、諸々の関係性の変化もあって、今では王城中の人間が知っている周知の事実だ。その中にアスマとベルがいたことも当然知られているので、その部分を話せるのなら、理由は何とでも作れそうだとベルは考える。
「それからもう一つ。実は、こっちの方が深刻な問題になるかもしれないのですが」
唐突に声のトーンを下げ、暗い表情を浮かべるシドラスの様子に、ベルはそれまで感じなかった不安を覚えた。
「何だ? 何かあったのか?」
「仮に竜との接触が認められたとして、ベルさんがそれに同行することは決まっているのですが、残念なことに殿下は同行できないことがほとんど確定しています」
「あー、まあ、流石にな」
王子であり、魔王であるアスマが竜と対面し、何かが起きれば無理を押し通す以上の国際問題になりかねない。万が一を想定すれば、そうなることも当然のようにベルは思えた。
「いや、それくらいは分かるし、私は別にアスマも一緒に行くとは言い出さないぞ?」
「ベルさんはそうでしょうが、殿下がどうかは分かりません」
早口で捲し立てるようにシドラスが言ったことを聞いて、ベルはその前までシドラスが抱えているらしい不安の正体を悟った。同時にベルの中にもシドラスの抱えているものと同じらしい不安が芽生えてくる。
「あのアスマのことだ。どれだけ説明しても納得はしないかもしれないし、場合によっては強硬手段に出てくるかもしれない」
本来、ウルカヌス王国に行く予定のなかったベルが、ウルカヌス王国に行くことになった理由は、アスマの無茶と言える行動だった。それに巻き込まれ、あれよあれよという間に事態は流れ、気づいた時にはソフィアを中心とする問題に巻き込まれていた。
あの時のことを考えれば、アスマがそんじょそこらの説明で、納得して留守番するとは思えない。ウルカヌス王国に向かう馬車の底に張りついてでもついてきそうだ。
「交渉内容的に国家魔術師も数名送られる可能性があるので、そうなってくると流石に説明しないで出発するのは難しいでしょう」
「竜と逢ってくると言ったら、自分も逢うと言いかねないし、長期旅行だと言ったら、自分も行くと言いかねない。私が何を言っても、荷物を抱えたアスマが隣にいるイメージしか湧かない」
「そもそも、殿下は様々な立場上、この王都を出ること自体、あまり好ましくないですからね。その部分から説明して、無理矢理飲ませることができるかどうか……」
魔王であるアスマがいるから守られているものと、魔王であるアスマがいないから守られているものがあって、アスマの移動はその両方を傷つける可能性がある。その根本的な問題から順番に説明すれば、流石のアスマも無理を言い出さないとは思うが、それも確実とは言い切れない側面も知ってしまっている。
近しいからこそ、アスマなら分かってくれるという気持ちと、それでも無茶をするという可能性が同時に浮かび、ベルとシドラスは険しい顔を引っ込められずにいる。
「ただ、もしもその時は、私とイリスだけでは説得し切れない可能性があるので、ベルさんも協力してください。殿下はベルさんの言うことは私達の言葉以上に聞く印象がありますから」
「そ、うか……? まあ、そうだといいんだが……」
ベルはアスマがいつも浮かべる能天気な笑みを思い出し、あの無邪気な笑みのまま、駄々を捏ね始めないことを、心の底から祈るのだった。
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