師匠と弟子(1)

 現れたガゼルを前にし、エルの中で静かに湧き立つ感情があった。どこまでも膨れ上がって、やがてはエルの手から零れ落ちそうな感情に蓋をして、エルは冷静さを保つために息を吐く。


 今は感情的になる場面ではない。エルがここに来た目的は感情を振り回すためではない。

 エルの中に残った疑問やどうしても処理できない事実を消すために、エルはここに一人でやってきたのだ。


「こんなところにいたんだ」

「ああ、そうだ」


 ガゼルはあの日から変わらない声色で、エルの言葉にそう返答する。いつもと変わらない、どこか冷たく、距離すら感じさせる声だ。


「ここで何をしていたの?」


 エルが湧き出そうになる感情を喉の奥で押し殺し、何とか真面な言葉の形に変えて、そのように質問を投げかけた。


 その問いにガゼルは返答することなく、返答する意思を見せることもなく、ただ口を閉じた。

 言えない、もしくは言わない。とても罪人とは思えない対応に、エルは押し殺したばかりの感情を吐き出しそうになる。


 それを何とか寸前で押さえ、エルは深く呼吸を繰り返しながら、ガゼルに逢ったら言おうと思っていたことを順番に思い浮かべる。


「あの日、消える前、貴方はベル婆と逢ったんだよね?」

「ベル婆?」

「貴方が不死身の身体に変えた小人の女性だよ」

「ああ、彼女か」


 納得したようにガゼルは呟き、首肯する。知っていたことだが、どうやら誤魔化すつもりはないらしい。


「ベル婆と逢って、貴方は何を思ったの?自分の行為が引き起こした結果を前にして、貴方は何を考えたの?」


 エルの問いにガゼルはゆっくりと視線を落とし、自分自身の手に目を向けていた。見つめられた手は跡が残りそうなほどに強く握り締められている。


「何も。自分で引き起こした魔術の結果だ。観察する意思はあっても、そこに深く思うことはない」

「それは……本気で言ってるの……?」


 強く疑うような目で見つめるエルの前で、ガゼルはゆっくりと首肯した。


 信じられないとエルは言葉に出そうになるのを押さえ、既にドアを何度もノックする感情から必死に目を逸らす。

 あれほどのことをして、ベルの人生を大きく狂わせて、それでただ魔術の結果を観察するだけなど、どの口が言っているとエルは思った。


 そんなことを平然と言える人間をエルは人とは呼べない。

 当然、師匠とも呼べない。


「……どんな気持ちで……どんな気持ちで今までいたの?俺を……俺達を育て上げて、それでどう思っていたの?そんなことをして、平然といられて、それで俺達と普通に向き合ってきたの?」

「当然のことだ」


 何てことはない。ただ息をするようにガゼルは返答し、エルはついに堪え切れなくなった感情の一部を爆発させるように、近くの台に手を叩きつけた。


「当然のこと!?ベル婆の身体を弄ぶような実験をして、それで俺達を何も思わずに育てたことを当然とあんたは言うのか!?」

「何を思う必要がある?」

「あるだろう!?結果を知らなくても、あんたの行いが人の道理から外れていることくらいは分かるはずだ!魔術師だから関係ない?魔術の実験だから問題ない?黙れよ!?そんなことを平然という奴に教わってきた俺の気持ちが分かるのかよ!?」


 エルが抱え込んでいた怒りの一部をぶつけると、ガゼルは顔色一つ変えることなく、ゆっくりと首を傾げた。


「分からないな」


 その返答にエルは残りの感情も吹き出し、我を忘れてガゼルに掴みかかろうとする。


 だが、その前にフーがガゼルを庇うように、エルの前に立ち塞がった。


「何だよ?邪魔するなよ、フー!?」

「邪魔するに決まってるだろう!お前が何を思っても、この人は私の師匠だよ!それを守るのが弟子の役目だ!」

「何が師匠だ……何が弟子だ!その人は平然と人の命を実験に使えるような人だ!きっと俺達だって、実験生物の一種にしか思っていない!そういう中で俺達は生きてきたんだ!そんな奴を庇う理由がどこにあるんだ!?」

「エル!?お前は本気でそんなことを思っているのかい!?」


 フーがエルを押し返すように胸倉を掴んで、そのまま倒れ込みそうになった。激昂しながらも、それをエルが思わず支えた瞬間、僅かにガゼルの方から物音が聞こえる。


 その音にエルの意識は吸い取られ、それまで吹き出ていた感情が勢いを忘れたように、元の形に戻りつつあった。


「た、助けてもらったことには礼を言うがね、エル。私の考えは変わらないよ」


 強くはっきりとそう告げるフーの言葉を聞きながら、エルはガゼルから離れるように一歩後ろに下がって、ガゼルを庇うように立つフーを見やる。


「ああ、分かった、フー。そもそも、俺は争うためにここに来たんじゃない。確認するために来たんだ」


 冷静さを順番に取り戻しつつある頭がそのことを思い出し、懐からさっきフーに見せた目隠しを取り出した。


「何だ、それは?」


 怪訝げに目隠しを見てくるガゼルの前で、フーがさっきのエルの話を思い出したのか、やや怯えた顔をする。


「何だい?まさか、強力な魔術で私達を消し去ろうって言うんじゃないだろうね?」


 警戒した様子でそう言ってくるフーに、エルは小さくかぶりを振りながら、目隠しを目元に移動させていた。


「フー、忘れた?俺はね。争いごとが嫌いなんだよ」


 さっきの自分の行動を非難するようにそう告げてから、エルは目隠しで目元を覆い、ガゼルの方に目を向けた。


「貴方はベル婆に竜の血を与え、彼女を不死身にした。そのことをどう思っている?」

「また同じ質問か?」

「いいから、答えろ」


 エルの差し出した強制的な問いかけに、ガゼルは小さく溜め息をついてから、さっきも聞いた返答を口にする。


「何も思っていない。ただ魔術の起こした実験を観察する気持ちになったくらいだ」


 そう呟いたガゼルの姿を目にし、エルはゆっくりと拳を握り締めた。


「一瞬でも、ベル婆のことを思い出し、道理から外れた行いに後悔したことはないの?」

「一度もない。後悔などするはずがない」


 エルは強く歯を食い縛り、何かの感情を噛み殺してから、次の質問を投げかける。


「俺やフーを育てている間も、その道理から外れた行いに後悔の念が湧いたことはないの?何も思わずに平然といられたの?」

「当然のことだ」

「それはどうして?」

「言っただろう?後悔する必要などないことだ。それはお前らの存在があっても変わらない」


 エルは大きく深呼吸を繰り返してから、最後の質問をしてみることにした。


「貴方にとって、俺達は何なの?」


 そこで初めてガゼルはすぐに答えることなく、しばらく口を閉じてから、エルをまっすぐに見つめながら、答えを口にした。


「ただ拾っただけの子供だ。そこにそれ以上の言葉はない」


 最後の返答を耳にし、エルは強く拳を握り締め、強く歯を食い縛り、強くガゼルを睨みつけながら、目元を覆っていた目隠しを取った。

 その目には薄らと涙が溜まり、エルは目にした事実から湧いてくる感情を吐き出すように、ガゼルに叫んだ。


「何で……何であんたはのに何も言わないんだよ!?」

「何を言っている?俺は一度も後悔したことなど……」

「もう嘘はいい!この目隠しは全部見えてるんだよ!」


 そう叫びながら、エルはさっきまで目元に当てていた目隠しをガゼルの前に突き出し、その内側の術式を見せた。


「これは術式越しに覗いた人の表情や仕草、声の様子などから、その人の懐いている感情を正確に教えてくれる魔術なんだ!だから、あんたが何を言っても、あんたのは全部見えちゃってるんだよ」

「動揺など……」


 消え入るような声でガゼルが呟いて、エルの中に残った悔しさは加速度的に増していた。


「何で……何で逃げたんだ?ベル婆の前から……俺の前から……何で……何で!?」


 叫ぶエルに対して、ガゼルはついに口を閉ざし、顔色一つ変えることなく、ただ黙りこくっていた。


 ただ今はガゼルの感情を見たばかりだ。今のガゼルが何を思っているのか手に取るように分かる。

 きっとガゼルは迷っているのだ。言える言葉が見つからなくて、だから、黙っているのだ。


「何で、何も言ってくれないんだ?」


 それでも、エルはそう分かっていながら、そのように口にした。


「何か答えてくれよ……何で、あんたは何も言おうとしないんだよ!?」

「エル。もうそこまでに……」


 エルがどこまでも追いつめるように追及する姿に哀れさを感じたのか、フーがエルの言葉を止めるように、エルとガゼルの間に割って入ろうとした。


 そこで不意に独特な生き物の鳴き声が店内全体に響き渡った。


 聞き覚えのある声は牛蛙の鳴き声だ。それが鳴いた瞬間をエルはここに来て、これまでに二度、知っている。

 自身がこの店に足を踏み入れた時とフーが帰ってきた時。


 つまり、これは入口の扉が開く時のドアベル代わりの鳴き声だ。


 そのことを知っていたエルやフーの視線がゆっくりと移動し、今に開かれようとしている魔術道具屋の入口に向いた。

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