次に進む覚悟(6)

 あれほどまでに恐れていたはずなのに、一度でも話してしまえば、驚くほどにベルの心は穏やかなものに変わっていた。


 開こうと決意しても、手にしたところから先に進めなかったオーランドの手帳でさえ、アスマが隣に立っているだけで、ベルは躊躇いなく開くことができた。


 シドラスに代わりに読んでもらう必要もなく、ベルはアスマと共にオーランドの手帳の中身に目を落としていく。


 そこにはシドラスが以前、読み上げた以上の記憶が記録として詰まっていて、それらは自然と懐かしさをベルとアスマに与えてきた。


 オーランドだけが見た記憶も中にはあるが、オーランドの目的がアスマの監視にあったためか、そこに書かれていることの多くにアスマが絡んでいる。


 それらを眺めている間はアスマだけでなく、ベルまでもが黙りこくって、ひたすらに書かれた文字を目で追っていた。その時に感じた気持ちは表現が難しく、少しでも声を発したら、それだけで崩れそうなほどに繊細だった。


 その気持ちを大切に繋いで、ベルとアスマの目は手帳の中をどんどんと突き進み、ようやく目的の記述を発見した。


 内容自体は以前、シドラスが読んでくれたことで知っているが、シドラスが全てを読み上げたわけではない。あの状況でベルに与えるべき情報と、与えてはいけない情報の区別くらい、シドラスは容易についたことだろう。


 きっとベルにも伝えていない情報がそこには転がっている。そう思った通りにベルの知らない記述も中には存在した。


 ガゼルと思しき人物を発見し、オーランドは調査を行った。結果的に対象がガゼルであるとオーランドは断定し、ガゼルが王都の中に潜伏していると考えたようだった。

 その部分はオーランド本人から言葉として聞いた上に、シドラスに中身を見てもらった時点でベルも聞いていたことだ。


 ただ、この一連の調査がどのように、どのような場所で行われたか、ベルは聞いていなかったが、そこも手帳には具体的に書いてあった。


 それはあまりに細かく、シドラスがこれを読み飛ばした理由がベルに聞かせたくないことにあるのか、面倒と考えたのか分からないほどだった。


 そこには調査が一律にして、特定の場所で行われたことが明言され、その場所まで記載されていた。ガゼルと思しき人物を尾行するためのポイントとして、始まりのポイントと終わりのポイントが細かく住所の形で記載され、その隣には尾行を始めた時間が記載されている。

 この情報があれば、オーランドでなくとも、ガゼルと思しき人物を発見し、後をつけることが可能だろう。


 そう考えられるほどの情報に、ベルとアスマはしばらく手帳を眺めてから、ゆっくりと顔を見合わせた。

 どちらからともなく、ゆっくりと呼吸の中で息を吐き出すように、重苦しく言葉を口から吐いていく。


「これは……」

「本当なら……」

「ガゼルを見つけられるかもね……」


 二人の声が事実をなぞるように口から飛び出し、しばらくゆっくりと噛み締めるように、再びオーランドの手帳を眺めていた。


 ガゼルを見つけたとして、それで何がどうなるのかと言われたら、それは分からない。ただガゼルの存在と共に取りこぼしたものも多く、そういうものを受け止めるのに、ガゼルの発見は必要なことと言えた。


 ベルが次と向き合うために、ここは足を踏み出すべきだろう。そう考えながらも、ふとベルは一つオーランドの手帳に書かれていない情報が存在することに気づいた。


「これ……ガゼルがどういう姿をしているのか書かれていなくないか?」

「え?そう?」


 ベルと同じようにアスマが再び手帳をじっくりと眺めてから、ゆっくりと飲み込むように首肯する。


「確かに。書かれてないね」


 ガゼルは魔術を用いたのか、何らかの変装をしているらしい。ガゼルの姿ではなくなっていることから、それがガゼルと確定できるのか怪しく思えてくるところだが、オーランドは歩き方を記憶していたことから、それがガゼルであると看破し、断定していた。


 その変装がどのようなものか具体的に書かれていないということは、ベル達がガゼルを見つけるためにはガゼルの歩き方を思い出さなければいけない。


 しかし、ガゼルとの接点が圧倒的に薄いベルと、そういう細かい部分に気づけるのか怪しいアスマの二人だ。歩き方からガゼルを特定するのは不可能に近い。


 場所が無事に分かった一方で、ガゼル本人を見つけ出すことは難しい。判明した事実にベルとアスマはゆっくりと息を吐き出し、その場にぐったりとへたり込んだ。


 もう少しで触れそうだったとげとげとした部分が勝手に離れ、安堵と残念な気持ちが渦巻く不思議な気持ちに襲われる。

 良かったと少し前のベルなら本気で思ってしまっていたかもしれないが、今のベルはそれでも残念な気持ちの方が強いところがあった。


 多分、ベルはガゼルを見つけ出し、その先にある次の場所に向かった自分の姿がどこかでイメージできていたのだろう。

 それが遠のいたから、ベルはガッカリしてしまった。


 場所は分かってもガゼルを見つけ出すことは困難と判明した。それなら、次はどうしようかと、ベルとアスマが考えようと思った時のことだった。


 不意に近くから足音が聞こえ、ベルとアスマの視線がそちらに向いた瞬間、聞こえてくる足音に交ざって聞き慣れた声がした。


「あれ?殿下とベル婆?」


 それはライトの声だった。


 見れば、こちらに近づいてきながら、ライトが不思議そうな顔を向けている。ここにベルとアスマが揃っていることを不思議に思ったのだろう。


「何だ?こんなところでサボりか?」


 ベルがやや冷たい目を向けると、ライトは否定することなく笑みを浮かべてから、ベルを指差してきた。


「いやいや、それはベル婆も同じでしょう?今はまだメイドの仕事の時間のはずだけど?」


 その指摘は間違っていないが、ベルはサボっているわけではなく、ちゃんと同僚からの許可を得て抜け出している。


 その違いを主張しようとしたベルの前で、ライトはさっきも見せた不思議そうな表情で、自身の来た道を振り返っていた。


「それなら、二人と何かあったのか……?」

「あれ?どうかしたの?」


 考え込むライトの様子にアスマが疑問を持ったのか、ライトにそのように質問すると、ライトの方も同じように不思議そうな顔でアスマを見てきた。


「どうかしたって、殿下は何も心当たりがないんですか?」

「え?心当たり?」


 アスマが確認するようにベルを見てくるが、ベルもライトが何を言っているのか良く分からない。どこかで頭を打ちつけたのだろうかと心配すらしている。


 その様子を見たライトが自身の言った心当たりがないと察したのか、不思議そうな顔を後ろに向けながら、その道の先を指差した。


「いえ、さっき、ここに来る途中、と逢ったんですけど、挨拶しても反応が変で、何かあったのかと思ったら、その先に二人がいたから、二人が何か関係しているのかと思って。勘違いでしたかね?」


 首を傾げるライトを目にし、同じく不思議そうに首を傾げるアスマの隣で、ベルはゆっくりとライトの言った言葉を咀嚼し、飲み込み、理解したことで、顔を青く変化させていた。


「待て……エルとすれ違ったのか?」

「ええ、はい。そうですよ」

「どうかしたの?ベル?」


 アスマがそう聞いてくるので、ベルは慌ててオーランドの手帳を持ち上げて、それをアスマに見せつけながら、そこに存在する可能性を口にした。


「もしかしたら、話を聞かれたかもしれない!?」


 ベルからの指摘を受けて、アスマの中でもゆっくりと状況が繋がったのか、ベルと同じように顔を青く変化させてから、アスマは慌ててライトの方を見た。


「エルって、どんな様子だった!?」

「え?様子ですか?そうですね……何か険しい表情で考え込んでいる様子でしたけど?」


 その一言を聞いたベルとアスマの中で可能性が確信に変わり、二人は思わず顔を見合わせる。


 エルがガゼルの居場所を知ってしまった。それがどのような事態を引き起こすのか、二人はまだ正確に想像できていなかったが、危うい危険性だけは把握していた。



   ☆   ★   ☆   ★



 足を速く動かしても、別のことを頭の中に思い浮かべても、消えない言葉が頭の中で何度も鳴り響いて、思考を邪魔し続けていた。


「ガゼルは王都にいる」


 端的なその一言がエルの心の中で騒ぎ続けて、エルは落ちつかないどよめきを抱えていた。


 ベルがオーランドから聞いたという話だ。実際にそうであるかは分からない。聞く必要はない。

 そう思い込もうとしても、エルの頭の中には違う事実が浮かんで、その可能性を強く光らせてくる。


 仮にガゼルが王都にいるとして、それで自分が何かをする必要があるのかとエルは思った。ガゼルは確かに師匠と言える人物だったが、ガゼルの行いをエルは許せない。ベルに行った行為をエルは一生責め立てるだろう。


 エルがガゼルに逢いに行ったとして、ベルへの行為を追及し、その罪を咎めることに意味はない。ガゼルに罰を下す人物がエルである必要はない。

 自分がガゼルを探す理由はない。嫌いと思う相手なら、これ以上の接触は避けるべきだ。


 もう二度とガゼルに逢うことはない。


 そう結論を出そうとし、エルは気持ちを落ちつかせようと思ったが、エルの中にはそう思うだけでは解決し切れない気持ちも存在した。


 ガゼルがベルに行ったことを知った時から、エルの中にずっと一つの疑問が残って、どれだけ端に追いやっても、頭の縁から消えてくれなかった。


 ガゼルはベルにあれだけのことをして、それで何を思って今まで過ごしてきたのだろうか。何を思って自分やフーを育ててきたのだろうか。

 ガゼルの気持ちがエルには考えても分からず、ずっともやもやとした疑問として、残り続けていた。


 それを解消できるとしたら、そのチャンスは正に今なのかもしれない。この他の誰もがガゼルの位置を完璧には把握していない状況こそが、エルに残された唯一の機会と言えるのかもしれない。

 その考えが頭の中に生まれ、エルはゆっくりと抱え込むように頭に触れた。


 自分は何を考えているのだろうか。本当に馬鹿だとエルは思いながら、それらの考えとは違う記憶の中から気になっていた情報の一つを引っ張ってくる。


 つい先日、ガゼルの部屋に魔術のヒントとなるものがないかと訪れた際に目撃し、エルの中で僅かな疑問と、僅かな疑惑を残し続けていたものがあった。


 それをできるだけ見たくないからと、今の今まで無視をして、できるだけ術式を施した目隠しの方に意識を向けていたが、その目隠しも今は効果がない。


 エルはじっくりと見つめた記憶の中の光景を見比べ、ゆっくりと深呼吸をしてから、覚悟の定まった顔をする。


「ちゃんと決着をつけようか……」


 小さく、低く呟いてから、エルは僅かな準備のために、魔術師棟にある自室に向かって歩き出した。

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