次に進む覚悟(5)
「それでわざわざ話って、どうしたの?」
周囲に人の姿が見えないことを確認するベルにアスマが問いかけた。まだメイドとしての仕事の最中であるはずのベルが現れ、アスマに話があると言ってきたのだから、面食らっても当然と言えるだろう。
目を丸くしたアスマの問いにベルは返答しながら、ずっと手に持っていた手帳をアスマの前で掲げる。
「お前に話したいことはこの手帳に関する話なんだ」
「手帳?そんなのベル、持ってたっけ?」
普段のベルの姿を思い出すように考え込む表情を見せながら、アスマはベルが持つ手帳を覗き込んできた。傍から見る分には変わったところを探すのが難しいことだろう。見せただけではベルの話したいことのほとんどが伝わらないはずだ。
手帳を確認しながら口にしたアスマの問いにベルはかぶりを振って、手帳を再び抱きかかえるように持った。普段のベルがこうして手帳を持ち歩いていることはないはずだ。
今の姿を見れば、普段のベルを知らない人でも、普段は手帳を持ち歩いていないと分かるほどかもしれない。
その姿に「だよね」と呟くアスマの前で、ベルはようやく本題に踏み入れるように、ゆっくりと口を開いていく。
息を吸い込み、声として発しようとした瞬間に、アスマの顔が目に飛び込み、ベルは若干の躊躇いを覚えてしまったが、それでも、ここに来たからにはと考え、言葉まで止めることはなかった。
「これは私の持ち物ではなく、オーランドの持っていた手帳なんだ」
「オー……ランドの……?」
ゆっくりとアスマの目が見開いて、その奥にある感情が揺さ振られているように見えた。繰り返されたアスマの呟きにベルは首肯し、アスマが離れる前に言葉を続けていく。
「これはオーランドが遺した手帳で、中にはオーランドがこの国で見た様々なことが書かれている」
「様々なことって……?」
「多くはオーランドの仕事に関することだ。仕事と言っても、大工の仕事ではない。オーランドが隠していた方の仕事だ」
驚くほど近くにいるように、アスマが緊張で唾を飲み込む音が聞こえた。手帳の持ち主を伝えた時から、アスマの目に見えていた動揺は更に濃くなって、アスマの瞳を僅かに震えさせている。
それでも、ベルはゆっくりと言葉を続けていく。
「日常的にパンテラで逢っていたお前の話題なども多く書いてあるそうだが、中には特殊なこともあって、例えば、私がお前を人質にした時のことなども書いてあった」
ベルとアスマが初めて逢った時のことを思い出しながら、ベルはそう告げるが、アスマの様子は違った。
ベルと初めて逢った時のことよりも、オーランドがそこにいた事実を改めて思い出してしまったらしい。
ゆっくりとアスマの目から雫が溢れて、頬を伝いながら、床にぽたりと落ちた。その姿を目にし、思わずベルは言葉を止めて、目を見開いていた。
「あれ……?何か……おかしいな……」
そう言いながら、アスマは自身の目を拭っているが、どれだけ拭っても、瞳はどうしても頬を濡らしたいと叫ぶように、涙を溢れさせている。
「お前……まだ……」
吹っ切っていなかったのかと言いかけ、ベルは途中で口を閉ざした。危うく口にしかけた言葉は明らかに今のアスマの気持ちを否定するもので、ベルが言ってはいけない言葉だった。
これはきっと違う。誰かを喪った悲しみがそう簡単に癒えるはずがないのだ。これは多分、アスマの反応の方が正しく、ベルの乾き切った振る舞いこそがおかしいに違いない。
そう思えるだけの根拠がある。ベルの心は既に数えることを諦めるほどの命に当てられ、固まり切っていた。
そうしないと心というものを維持できないから、そうするしかないと言い訳を並べ、ベルの心は自己防衛のための硬さを手に入れていた。
それがあるから、アスマの気持ちに寄り添っているつもりでも、ほんの少しだけ距離があった。その距離を測り損ねたと今更ながらに思っても、既にアスマの気持ちは決壊してしまっていた。
「すまない。一度、落ちつこうか。ゆっくり話そう」
ベルが手帳を抱き寄せて、アスマの気持ちが落ちつく瞬間を待ち始めた。
その間もアスマは両手で涙を拭おうとしているが、瞳は壊れたように雫を溢れさせて、アスマを困らせている。
一分、二分と沈黙が続いていたと思う。アスマの小さな嗚咽の声が響いて、それが少しずつ静かになっていく様子をベルはただ待っていた。
やがて、アスマが鼻を啜って、気持ちの収まった表情でベルの腕の中にある手帳を見てくる。
「そのオーランドの手帳をどうしてベルが持っているの?」
ゆっくりと気持ちを飲み込み切ったアスマがそう質問してきた。
ようやく落ちついたとはいえ、さっきまで悲しみが決壊していたアスマだ。何を言えばどう反応するのか、どういう風に思うのか、そういう不安が胸の中に渦巻いて、ベルは少し躊躇いながら口を開く。
「オーランドから受け取ったんだ」
「直接?本人から受け取ったの?」
ベルが首肯すると、アスマはいつオーランドから受け取る時があったのだと頭を悩ませているように見えた。
それはそうだろう。オーランドの手帳には、オーランドの隠していた仕事に関する情報が大量に書かれてある。
それをオーランドの正体を知る前に受け取っていたら、ベルはオーランドの正体を理解し、黙っていたことになる。
だが、そうではない。その時のことを思い出しながら、ベルはアスマを見た。
「受け取った場にはお前もいたんだが、あの時のお前はそれどころではなかったから、気づかなかったんだろう」
「受け取った場……?」
「ああ、この手帳はオーランドが亡くなる直前、遺言と一緒に受け取ったんだ」
遺言。そのあまりに直接的な言葉が引き金となったのかもしれない。
再びアスマが込み上がってきた気持ちを押さえ込むように、慌てて口元を手で押さえ、もう片方の手で額を掴むように撫でた。
荒い呼吸が隙間から聞こえ、アスマの目元は見る見るうちに潤っていく。
もしかしたら、今のアスマの瞳にはあの時のオーランドの姿が映っているのかもしれない。
もう少し気を遣って話を進めるべきだった。アスマの様子の変化にベルが公開したのも束の間、アスマが口元や額から手を離し、何かを振り払うように大きく息を吐き出した。
「そう……なんだね……ごめん。ちゃんと見えてなかったかもしれない」
「いや、別にいい。無理に思い出そうとしなくてもいい。ただ話したいことはその遺言のことなんだ」
今度は意識的にアスマの気持ちに触れるように、ベルははっきりとそう告げた。
この次はまた違う場所に踏み込むターンだ。そのためには今の精神状態ではいけない。そう忠告するように言ったベルの一言を聞いて、アスマが息を呑む。
「うん……分かった。聞くよ」
明らかにさっきまでの様子と違う目をして、アスマがまっすぐにベルを見てきた。ゆっくりと、気持ちが溢れてしまうほどにゆっくりとだったが、確かにアスマの中で覚悟が定まったようだ。
それを理解したベルがようやく本題を口にしようとして、口を開き切ったまま、不意に動きを止めた。
言おう。言うべきだ。言って次に進もう。そう気持ちは急かすのだが、ベルの口はうまく動いてくれない。
どうして、覚悟は決めてきたはずなのに、後一歩がこれほどまでに恐ろしく感じるのだろうか。ベルが疑問に思っても、疑問に思っただけでは解決しない。それが内側から湧いてくる恐怖心だ。
言えない。ベルが諦めかけた瞬間、覚悟の定まった目をしたアスマが手を伸ばし、ベルの手をしっかりと掴んできた。
「ベル。大丈夫。話して」
短く、しっかりと言われた言葉を聞いて、ベルの表情からゆっくりと硬さが消えていく。
それまで動こうとしなかったことが嘘だったかのように、ベルの口は声を発するために動いて、アスマの気持ちに応えるように言えなかったことを言っていく。
「オーランドの最期の言葉は」
そう言ったベルの頭の中で、あの日のオーランドの声が再生される。
「ガゼルは王都にいる」
その一言を聞いた瞬間、アスマがゆっくりと目を見開いて、ベルの顔をじっと見てきた。
「え?え?それは本当に?」
「ああ、この手帳の中にオーランドがガゼルと思しき人物を発見し、魔術を用いて王都に潜伏していることが書かれてあった。恐らく、間違いないと思う」
驚きに満ち満ちた表情で、じっと手帳を見つめるアスマの前で、ベルはついに打ち明けられたことに僅かな達成感を覚えていた。
これからどうなるかは分からない。どのように動くのか、どのような結末が待っているのかも分からない。
だが、意外とその一歩は大したことではない。八十年以上も生きてきて、それを今になって察する。
そのあまりの遅さにベルは笑いすら零れそうだった。
「どこにいるかは分からないの?」
「それは何とも……手帳をちゃんと読めていないから、一度、見てみるか?」
ベルがアスマに問いかけると、アスマは首肯し、二人はオーランドの手帳を開き始めた。
その時、二人から見えない位置で、今の二人の会話を聞いてしまった人物が一人いることに、二人は気づくことがなかった。
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