次に進む覚悟(4)
ゲノーモス帝国の凶刃に倒れ、マゼランは生死の境を彷徨った。辛うじて、一命は取り留めたが、そこから、しばらく意識が戻らない状態が続いていたと聞く。
それほどの怪我から、ようやく生還し、今は治療の最中だというマゼランが目の前にいることにアスマは驚愕し、しばらく唖然とした。
「え?え?マゼラン?動いて大丈夫なの?」
残念なことにアスマは様々な重なりから、マゼランの見舞いには行けていない。マゼランの情報は耳に入ってくる噂程度のものが限界で、意識が回復したとはいえ、未だ万全とは言えない状況で、元のように動けるようになるためには、かなりのリハビリが必要だと聞いていた。
その印象からはマゼランが今もベッドに縛りつけられるように寝ているイメージでいたので、車輪のついた椅子に座ったまま移動しているとはいえ、そこにいる姿が頭の中で結びつかなかった。
アスマの心配にマゼランは小さく笑い声を上げた。
「私はただ座っているだけなので大丈夫ですよ。この状況から動かせるとしたら、頭くらいですから」
僅かにマゼランが頭を左右に振って、視線をあちらこちらに動かした。移動することはできないが、自由に物を見ることはできる。そういう状態らしい。
「ヴィンセントさんが今は私の足になってくれています」
そのように説明しながら、マゼランが自身の座る椅子を押すヴィンセントを手で示した。
それもアスマは驚きのポイントの一つだった。ヴィンセントは最年長ということもあって、騎士団の様々な仕事を任されているはずだが、基本的には雑務の類を毛嫌い、こういう仕事はしないイメージがある。
そのヴィンセントが大人しくマゼランの足として、移動の手伝いをしていることがアスマの中でイメージとしてなかった。
「まあ、今は仕事もなく暇ですから。たまには後輩の足になるのも悪くないかと」
アスマの向ける視線に気づいたのか、ヴィンセントは何でもないようにそう答えているが、その表情は若干ぎこちなく、やや感情を隠しているように見えた。
マゼランが襲撃された際、ヴィンセントも共に行動していたと聞く。ヴィンセントと別行動を取っている隙を狙われたとしても、一緒に行動していた相手に怪我を負わせ、ヴィンセントが責任を感じないとは思わない。
普段は軽薄で飄々としている男だが、それだけでは長年、エアリエル王国の騎士という立場にいられるはずがない。内心に自身の定めたラインはあって、そのラインは守る男だ。
今の行動もその罪悪感から来る一種の罪滅ぼしなのだろう。マゼランもそれには気づいているだろうが、それを否定しても仕方がない。
ここは受け入れることにして、足としての役目を任せたのだと思う。それくらいはアスマにも何となく分かった。
「マゼランは何をしているところだったの?」
「ただの散歩ですよ。ずっと病室にいても息が詰まるだけなので」
マゼランは努めて明るく言っていたが、その言葉から受ける印象は今のマゼランの話から聞くアスマの中のイメージと一致していた。
きっと今はこうして王城内を移動しているが、普段はベッドの上から動くことなく、そこから自分で歩くためにマゼランは日々戦っているのだろう。
そう想像したら、アスマの胸がきゅっと締めつけるように痛くなる。
それはマゼランに対する同情ではなく、マゼランの姿勢に対する後ろめたさが原因だ。
マゼランと比べて、自分は歩く足があるはずなのに、うまく歩けていない。そのことが非常に情けなく思う。
「身体の調子はどうなの?」
アスマが心配したように聞くと、マゼランは笑顔で身体を少し動かそうとして、すぐに断念した。
「このように万全と、自信満々に言いたいところですが、まだ自由には動かせませんね。負ったダメージが大き過ぎたみたいです」
苦笑するマゼランの姿に、不安と悲しみを懐いてしまい、アスマの表情がやや険しいものに変わる。その変化を見たマゼランが慌てて自身の言葉を否定するようにかぶりを振っている。
「ですが、大丈夫ですよ。これからの努力次第ですから」
「それって無理してない?」
アスマが心配した様子で聞くと、今度はさっきの慌てた様子でもなく、マゼランが確かにかぶりを振った。
「無理はしていません。確かに身体の自由は失いましたが、私はもう少しで今の不自由さも失っていたかもしれないのです。それと比べたら、この不自由さには愛おしさすら感じます」
マゼランは生死の境を彷徨った。それは即ち、場合によっては死んでいたかもしれない事実を表している。
もしかしたら、マゼランはここに動かせない身体を連れてくることもなく、墓の下で眠ったことにも気づかない眠りについていたかもしれない。
それと比べたら、今は不自由さを感じられる分、マゼランは未来を見られているということだ。
そこにはまだ可能性があって、マゼランが元の生活を得られる未来も存在している。
そういう繋がったからこそ、存在する可能性をアスマは他にもいくつか知っている。その尊さは身に染みて理解できている。
確かにそれを考えたら良かったのかもしれない。そう思えたアスマの前で、マゼランは更に言葉を続ける。
「それに今は少しずつでも回復しているのです。こうして、ヴィンセントさんの助けがあれば、外を移動できるくらいには回復しました。ほんの少しでも、ちゃんと先に進んでいる。そういう忘れていた実感を得られるのは、不幸中の幸いだったのかもしれません」
大きな一歩を繰り返し、いつしか、それより小さな一歩には目も向けなくなった。自身の進歩を自身で見られなくなった。
本当は少しずつ進んでいても、その一歩が見えないと、自分は永遠に同じところで立ち止まっている気になってくる。
その誤った認識を是正できた。マゼランはそこに喜びを感じているようだった。
そして、それは今のアスマが正に失ってしまった、あるべき一つの視点だった。
「いつか、また騎士として、殿下も御守りできるように、私は今、できる限りの全力を尽くしていきたいと思います。また騎士として私が戻った際には、私の力をお使いください」
マゼランが僅かに頭を下げて、アスマは力強く首肯した。
「もちろん。頑張ってね、マゼラン。皆、待ってるから」
アスマの力強い一言にマゼランは礼を言い、ヴィンセントに押されて進み出した。
その姿を見送りながら、アスマはマゼランの言っていたことを改めて思い出し、自分の手に目を向けた。
今は何もできていないかもしれない。新聞の記事で何も分からないかもしれない。
でも、そういうできなかったことも、分からなかったことも、アスマの進めた一歩である。イリスの言葉までアスマは今になって、ようやく実感してきた。
「ちゃんと進んでるんだ……」
そう実感するように呟いてから、アスマは自信を取り戻した足取りで、再び廊下を歩き出そうとする。
そこで呼び止めるように声がかけられる。
「アスマ」
その声にアスマがやや驚きながら振り返ると、そこには手に手帳のような物を持ちながら、少し微笑むような表情でアスマを見つめるベルの姿があった。
☆ ★ ☆ ★
アスマを始めとする数人の協力を得て、無事に試運転を終えたエルは作り上げた魔術の完成度に満足げだった。当初はここまでの物が作れるとは思っていなかったが、やはり自分は天才だと心の中で自画自賛しながら、自室に戻ろうと廊下を歩いていく。
その途中でふと見た先にアスマの姿を発見した。それだけなら、エルは特に何も思わなかったが、そのアスマと話している相手を目にし、エルの足は自然と止まった。
そこにいるのはベルだった。アスマとベルが話していることくらい、良く見る光景ではあるのだが、今はメイドの仕事の最中のはずだ。
そこでアスマと会話しているとしたら、仕事の最中にアスマが話しかけたことになるが、ベルの手には仕事で使いそうな掃除道具は握られていない。
それどころか、そこには見慣れない手帳が大切そうに握られている。
あの手帳は何だろうかとエルがふと気になって、つい足をアスマとベルに向けていた。二人の会話を盗み聞きするつもりはないが、ベルの持っている手帳は気になる。
せめて、近くで見て手帳の正体を探りたい。
ベルが密かに書いている日記か、ポエム帳か、どちらにしても面白そうだ。
そう考えるエルの耳にベルの声が聞こえてくる。
「お前に話したいことがあったんだ」
「俺に?」
その一言を聞いた瞬間、エルは思わず口を閉ざし、息を呑んだ。
(えっ……?ベル婆、殿下に愛の告白でもするの……!?)
エルの興味が手帳からベルの発言に移動していた。
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