東の使者(5)

 目に入れることも嫌になってから、どれくらい経ったのだろうか。今のエルには計り知れないほどの時間が経ったはずだ。少なくとも、エルはそう感じている。


 それだけの時間を経過して、エルは再び、その扉の前に戻ってきた。もう見ることのないと思っていた扉でも、前に立てば存在していることを実感する。


 その向こう側に広がる光景を思い出と共に思い出し、エルの気持ちは言いようのない感情で揺れ動く。


 はあ、と大きく息を吐いて、無駄に五月蝿い心臓を落ちつかせるようにエルは目を瞑った。吐き気がするほどの気持ち悪さはいつか吐くことで解消されるだろう。今は関係のないことだと思っても差し支えはない。


 そう決めつけることにして、エルは再び目を開き、目の前の扉を見つめた。ゆっくりとドアノブに手を伸ばし、そのドアを開いていく。


 そこには数ヶ月前と何一つ変わらないが広がっていた。


「残してあるのか……」


 分かっていたことを実感し、エルは何かの気持ちを捨てる代わりに言葉を吐いた。湧いてくる感情の形は分からないが、それを表に出してはいけないことくらいは分かる。


 エルは言いたいことや思いたいことを必死に噛み殺して、ガゼルの部屋に足を踏み入れる。


 部屋の中を見回しながら、エルはポケットに触れた。そこにはアスマから貰ったマスクが入っており、そのマスクには未完成の術式が描かれている。

 ガゼルの部屋を訪れた理由はその術式の参考になるものを探すためだ。ここ以外の場所も思い浮かんだが、いろいろと考えている内に、エルはこの部屋を訪れることを決めてしまった。


 自分でも、その結論に達した理由は分からない。

 だが、どこかで向き合わないといけないことは分かり切っていた。


 放置された魔術学の資料を目にし、エルはその内の一冊を手に取る。エルはガゼルに教えを乞うていたが、エルとガゼルの使う魔術は違うものが多かった。

 そこには血液恐怖症というエルの弱点も絡んでくるが、それ以上にエルの素質の高さもあったのかもしれない。


 エルの魔術は早々にガゼルの届かないところに行ってしまい、ガゼルが多く追及してきた魔術に触れる機会は意外となかった。

 触れても良かったはずだが、どうしてか触れなかった。今から考えれば、それは結構、不思議なことだ。


 ガゼルに対する嫌悪感を懐いていなかったはずのエルがガゼルを避けていたとは思えない。それでも触れなかったとすれば、それは触れる機会が作られなかったからかもしれない。


 そう考えそうになって、エルは思考を途中で閉ざす。このまま行けば、自分は余計なことを考えてしまうと思い、エルは盲目的にガゼルの残したものを漁っていく。


 見慣れない資料もあった。見慣れない術式も発見した。エルが考えたことのない組み合わせの二式魔術もそこにはあった。


 それでも、エルが目的とした知識はそこに見当たらなかった。


 もしかしたら、もう少し探った先にあるのかもしれないが、一人で探り続けることは少し厳しかった。見たくもないものを見続けることは精神を必要以上に摩耗する。

 エルは漁った場所をしばらく見つめて、少し考え込んでから、今日は諦めることにして立ち去ろうと思った。


 ガゼルの部屋を後にして、エルは溜まり切った何かを捨てるように、大きく息を吐き出す。

 その時のことだった。


「あれ?ここにいた」


 不意に声が聞こえ、エルが顔を動かした先で、不思議そうにこちらを見つめるアスマとイリスが立っていた。



   ☆   ★   ☆   ★



 訪問したエルの部屋にエルの姿がなく、どうしようかとアスマと話している最中のことだった。偶然にも通りがかった部屋の前で、立ち尽くすエルの姿を発見した。


「あれ?ここにいた」


 アスマがそのように声をかけると、エルが驚いた顔でこちらを見つめてくる。その視線を不思議に思いながら、イリスがエルの後ろに目を向けると、そこにある部屋が誰なのかを思い出し、少し驚いた。


 そう思っていたら、アスマも同じことに気づいたのか、エルの背後に目を向けて、エルに聞くように呟く。


「そこってガゼルの部屋?」


 その問いにエルは少し戸惑ったようだったが、すぐに何かを諦めたように小さく笑みを浮かべ、首肯していた。


「ええ、そうですよ。殿下はどうしたの?」

「ああ、ちょうどエルを探してたんだよ」

「俺を?一体、どうして?」


 不思議そうな顔で呟くエルに向かって、アスマがここに至る経緯の説明を始めた。ガイウスの持ち込んだ東の魔術師の話から始まり、その調査を進めていることを順番に伝えていく。


 それを聞くためにエルを訪ねようと思ったところまで、アスマの話は進んでいくが、その話を聞いている最中も、聞き終えても、エルの表情は特に変化を見せることなく、話し終えると同時に考え込む様子もなく口にした。


「ガセだね、それは」

「えっ……?」


 その断定的な言い方にアスマは絶句していた。イリスも絶句した。


「あり得ないね。医療用の魔術で治らない病が治るとか、そのようなことができるなら、その人はどこかの国が抱え込んでいることだろうし、魔術の効果を高める鉱石も存在するなら、どこかの国が魔導兵器に仕込んで、今頃、大国のどこかを襲っているだろうから。十中八九、ガセだね」


 懇切丁寧にそう思った理由を一から全て並べ立て、アスマに言い聞かせるように言ったエルの言葉を聞いて、アスマは愕然としていた。ここまで否定されては反論のしようもなく、アスマは今にも崩れ落ちそうな勢いだ。


 そう思っていたら、エルが言葉の勢いを弱め、間を空けるように息を吸い込んでから、違ったことを言い出した。


「と普通なら考えるし、それが正解だと思っているけど、がいくつかあることも事実だから、実は本当にいるかもしれないとは思うよ」

「えっ?つまり、どっち?」

「結論、分かりません」


 エルがそう言ったことにイリスもアスマも唖然とし、思わず顔を見合わせていた。


 それから、アスマは抗議するようにエルを見つめて、言いようのない怒りを大きな動きで表現しようとしている。


「もう!」


 しかし、それくらいしか言えてない時点で、この勝負はアスマの負けのようだ。エルはただ笑っているだけで、怒りに応えている様子はない。


「それで、その可能性の調べ方だけど、テレンスさんに言ったのなら、後はもう……」


 そう言いつつ、エルの視線がゆっくりと動いて、最も近くにある扉を向いたところで停止した。

 その扉はさっきまでエルが立っていた扉で、その向こうにはガゼルの部屋が広がっている。


「殿下……どうする?あの向こうに何があるのか、俺もはっきりと分かっていないけど、調べる……?」


 まるで何かに怯えるように、やや震える声でエルがそう言った。

 その声を不思議に思う様子もなく、エルに言われるまま、ガゼルの部屋の扉を見たアスマが少し考える素振りを見せる。


「ガゼルの部屋かぁ。勝手に入っていいのかなぁ?」


 そのように暢気に呟いたアスマの一言を聞いて、イリスとエルは固まった。

 次の瞬間、風船が破裂したようにエルが笑い出し、アスマは目を白黒させている。


「え?え?何?どうしたの?」

「いや、殿下は殿下だと思いましたので」


 何を言われているかは分からないが、馬鹿にされたことは分かったようで、アスマはやや不機嫌そうな顔でエルを睨みつけていた。


 その視線を取り合うことなく、エルがガゼルの部屋の前に立って、その扉を開いていく。

 開き切った扉の向こうは恐らく、数ヶ月前から変わらないガゼルの部屋が広がっていた。


「どうぞ、殿下。好きに調べても大丈夫。怒る人はもういないよ」


 やや寂しげに呟くエルの様子がイリスは少し気になったが、アスマは特に気にすることなく、エルに礼を言って、部屋の中に入っていった。イリスもそれに続いて部屋の中に足を踏み入れ、そこに置いてあるものを順番に見ていく。


 正直なところ、魔術に関する知識のないイリスからすれば、何が何かは分からない。


 そして、それはアスマもあまり変わらないようだ。


「ねえ、エル。一緒に探してくれない?多分、俺達だと見逃しちゃうよ」

「敗北宣言?」

「最初から勝負になってないよ」


 弱音を吐くアスマに苦笑し、エルがガゼルの部屋に入ってきた。少し迷うように周囲を見回してから、イリスやアスマと離れた位置を見始める。


「ガゼルの資料多いね。こんなにいろいろと調べてたんだ」

「まあ、魔術に傾倒してたからね。人体実験を行うくらいに」


 その呟きに流石のアスマも手を止めて、エルを見ていた。エルはその視線に気づいたのか、申し訳なさそうに手を伸ばし、小さくかぶりを振っている。


「忘れてください」


 丁寧に頼むエルの前で、アスマはやや曇った表情を浮かべ、再び探っていた場所に目を向ける。


「ガゼルはどうして、そんなことをしたのかな?ガゼルの気持ちって、俺達が考えても分からないのかな?」


 ふと疑問に思ったように呟くアスマの一言を聞いて、エルが僅かに顔を上げていた。


「分からないよ。そんな気持ち」

「俺はちょっと分かってあげたいと思うけどな。でも、気持ちって見えないから、分かった気になっても、正解じゃないこともあるし、難しいよね」


 その一言にエルの表情が止まった。アスマをじっと見つめたまま、動かなくなったエルをイリスが不思議そうに見ていると、不意にエルの手が動き出す。

 どうしたのだろうかとイリスが見ていると、その手はゆっくりとエルのポケットに触れた。

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