東の使者(1)
いつの頃からか、正常な時を刻む時計よりも、確かに仕事の終了時刻を知らせてくれるものがあった。その到来を一つの合図にして、仕事の手を止めることに決めてしまったベルの前に、件の合図が到着する。
「ベルー。仕事終わったー?」
そのように聞きながら、ベルの前に姿を現した人物は、言うまでもなくアスマだった。
絶不調とも、どん底とも表現できる、暗い悲しみに包まれていたアスマもようやく立ち直り、外を出歩くくらいに回復したのが昨日のことだ。
それから一日が経過しても、変わらずアスマがいつものアスマに戻りつつあることに安堵しながら、ベルは手に持っていた掃除道具をアスマに見せる。
「これを片づけたら終わりだ」
「オッケー。じゃあ、待ってるね」
いつにも増して、素直に思えるアスマの態度はやや気になるところではあったが、素直であることが悪いことではない。悲しみを乗り越え、一つ成長したと思えば、その変化も喜ばしいことだ。
ベルは特にそれ以上は考えることなく、掃除道具を片づけて、アスマと再び合流した。
「じゃあ、行こうか」
開口一番、アスマがそのように言って、どこに向かうかも告げることなく歩き出そうとする。
他の人なら、その様子に慌てて制止し、どこに行くのかと聞く場面かもしれないが、流石にベルはもうそのレベルを超えている。
アスマがこの時間帯にベルを訪ねてきて、それから向かうところとなれば、その先はもう一つしかない。聞く方が野暮というものだ。
ベルはアスマの隣を一緒に歩き出し、王都の街中に繰り出すために、通用門の方に向かっていた。
その途中、今の今まで思わなかったが、ふと昨日との違いを思い出し、ベルはアスマの隣を再び見やった。
「今日はイリスと一緒じゃないのか?一人でいたのか?」
昨日はようやく部屋の外に出られるようになったとはいえ、まだ万全とは言えない状態だった。それもあって、イリスがアスマに付き添っていたのだが、今日は今もベルを迎えに来た時も、アスマはずっと一人のようだった。
それまでイリスが一緒にいて、ベルと逢いに行くタイミングで別れたのだろうか。それとも、一人でずっと過ごしていたのだろうか。
そのように考えるベルの前で、アスマは首肯した。
「今日は一人で行動したんだよ」
「大丈夫か?迷惑をかけていないのか?」
「ベル、何かお母さんみたいだね」
必要以上にアスマを気にかける発言をしてしまい、アスマに恥ずかしい指摘をされ、ベルはやや眉を顰めた。ここまで言うものではなかったと思っても、今更、口に出した言葉は仕舞えない。
しまったと思いながらも、ベルはアスマに話をするように促した。
「そんなことはいいから、どうだったんだ?一人で何をしてたんだ?」
「ああ、今日はね……」
そう何かを言いかけたアスマが掲げるように指を立てた直後、その体勢のまま、アスマは向かう先に目を向けて、不思議そうに首を傾げた。
「どうした?」
「珍しく、ブラゴがいるね」
アスマの視線を追いかけるように、ベルもその先に目を向けてみると、確かにアスマの言うとおり、向かう先にある通用門近くにブラゴが立っていた。
客人なのか、ブラゴは誰かの相手をしているようで、その人物の近くには馬車が止まっている。
行商人か何かなのかとベルが思いながら、アスマと並んで、その現場に近づいていくと、その途中でブラゴと話している人物の視線がこちらに向いた。
そこでハッと何かに気づいた顔をしたかと思えば、ベル達に向かって軽く会釈してくる。
その時になって、ベルとアスマはそこに立っている人物が誰であるのか気づき、二人して示し合わせたように声を出した。
『あっ、ガイウスだ』
通用門近くに立つ人物はウルカヌス王国の騎士の一人、ガイウスだった。ウルカヌス王国の王子であるハムレットについている騎士で、ウルカヌス王国で起きた騒動の際、解決のために協力してくれた人物の一人だ。
そのガイウスがそこにいることに驚く二人の前で、ガイウスの動きからベル達の存在に気づいたらしいブラゴが何かを話していた。
それを聞いたガイウスが僅かに頭を下げたかと思えば、不意にこちらを見てくる。
そのまま、ガイウスはブラゴの元を離れて、ベル達の近くまで駆け寄ってきた。アスマの前に立って、ガイウスは即座に礼をしている。
「お久しぶりです、アスマ殿下」
「久しぶり……と言っても、意外とすぐだけどね」
ウルカヌス王国から帰ってきてから、そこまで長い日数が経ったわけではない。思わぬ早めの再会にアスマは戸惑いを表情から隠せていなかった。
それはベルも同じことで、アスマと同じように戸惑いを見せていると、ガイウスも同じことを考えたのか、ばつが悪そうに笑っている。
「私も正直なところ、これほどすぐにお逢いすることになるとは思ってもみませんでした」
「どうして、ここに?」
ベルが質問を投げかけると、ガイウスはブラゴを気にするように僅かに振り返った。時間を気にしているのかもしれないが、その視線に気づいたブラゴは軽く手を差し出し、ガイウスを促している。
「ウルカヌス王国からの特使として参りました」
「特使?」
「はい。エアリエル王国との同盟締結のための諸般の手続きのために送られてきた、という体です」
「体って……」
そこは隠すところではないのかとベルは呆れた顔をするが、その目的が体裁であるのなら、他に目的があるということになる。
その目的は何なのかと思っていたら、ガイウスがやや俯き、ベルとアスマに口を近づけてきた。
「実際はゲノーモス帝国との一件から、エアリエル王国の内情を心配した王女殿下のご命令です」
「ソフィアの?」
アスマが名前を口にすると、ガイウスは首肯した。
どうやら、ソフィアが気を遣って、急いでガイウスを寄越した形らしい。
それならガイウスという人選も納得のいくところだが、残念なことに帝国との一件は既に一つの解決を得ている。ソフィアの気遣いも空振りのようだ。
「それなら、もう終わってるぞ」
ベルが遅れてきたガイウスに冷ややかな目を向けると、ガイウスは苦笑を浮かべながら首肯する。
「正直なところ、ここに来た私も、王女殿下も、そうだろうと思っていました。流石に間に合うほどに長引かないだろうと。もしも、それだけ長引いていたら、恐らく、私一人の増援で何とかなるとも思いませんしね」
ガイウスの想定外の言葉にベルはきょとんとした顔をした。分かっているなら、どうして来たのかと当然の疑問を懐いてしまう。
そう思うだろうとガイウス自身も思っていたのか、ガイウスは即座に続きを説明し始めた。
「そもそも、私は今、ハムレット殿下の筆頭騎士の身にあります」
「筆頭騎士?」
「要するに、護衛を任せられた騎士をまとめ上げる役目と言いましょうか。自分で言うのも何ですが、ハムレット殿下の右腕のような立場にあると自負しています」
「その立場で、この国に来たのか?」
それも無駄足と知りながら、とベルは思ったが、そこまでは流石に言わなかった。言わない方がいいことくらいの見極めはできる。
「私自身、その立場から、王女殿下のご命令でも、最初は断ろうとしていました。ですが、他ならぬハムレット殿下からお願いされ、私はここに来ることにしたのです」
「ハムレットが?」
アスマが驚いたように口にすると、ガイウスが途端に真剣な顔をして、ベルとアスマの顔を交互に見てきた。
「実は、お二人に直接お伝えしたい情報があるのです」
「情報?」
ベルとアスマが揃って首を傾げる前で、ガイウスは不意に振り返った。
「と言いたいところなのですが、流石にここからは長くなるので、続きは落ちついてからにしましょう。取り敢えず、私は必要な仕事を済ませてきます」
ブラゴを気にした様子のガイウスの言葉にベルとアスマは揃って首肯した。
「では、また後ほど」
そう言って立ち去るガイウスの後ろ姿を見送りながら、アスマがぽつりと呟く。
「情報って何だろうね?」
「さあ?何の情報だろうな?」
何も思い当たる節がない。そう思ったベルとアスマはしばらく首を傾げてから、気を取り直して、行こうと思っていた目的地、パンテラに向かうために王城を後にした。
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