前に進む人々(3)

 トントンと扉をノックする音が部屋の中に転がり入って、パロールが扉を開けた。


「はい?どなたですか?」


 声をかけながらパロールが扉を開いた先では、がっくりと項垂れるように壁に凭れかかって、パロールに片腕を上げてくる人物が一人立っている。


「やあ、パロール。元気?」


 力なく頭を上げながら、そのように質問してきた人物はアスマだった。


「殿下!?どうされたのですか!?」


 パロールが質問を投げかけると、アスマは軽く微笑んで、壁に凭れかかったまま、小さくかぶりを振る。


「ううん、何でもないよ。何でもないから気にしないで」


 本人はそう言っているが、あのアスマが見るからに草臥れた様子になっていて、何もないなどということがあるはずもない。

 着ている服自体は綺麗に整えられたものだが、それもアスマの様子と見比べたら、不自然なほどに整っているように見えた。まるで着替えたばかりのようだ。


 パロールがアスマの様子に戸惑い、頭を悩ませていると、様子のおかしさに気づいたラングがやってきた。


「どうしたんだい?」


 そのようにパロールに聞きながら、扉に近づいてきたところで、ラングもアスマの存在に気づいたようだ。目を丸くして、見るからに草臥れた様子のアスマに慌てて駆け寄ってくる。


「殿下!?どうされたのですか!?ボロボロではありませんか!?」


 身なりではなく、アスマの様子にラングはそう思ったようだった。その問い自体は聞こえているはずだが、アスマはラングの問いに答えることなく、顔を上げた途端、嬉しそうに微笑んでいる。


「あげたローブを着てくれてるんだね。ありがとう」

「いえ、殿下。今はそういう話をしている場合では……」


 ラングが心配した様子で声をかけていると、アスマが凭れかかっていた壁から離れて、自分の足で立とうとした。ふらふらと左右に何度か揺れるが、やがて、ゆっくりと積み木でも積み上げるように、足元が落ちつき始める。


「さあ、始めよう」


 そして、ようやく身体が止まったと思ったら、開口一番、アスマがそのように言った。


「はい?何を始めるのですか?」

「何って、ここに来たんだから、魔術学の勉強だよ」


 あっけらかんと言ってのけるアスマに、パロールとラングは顔を見合わせて驚いた。


「いや、しかし、殿下。そのような状態で、勉強などと言われましても……」


 戸惑うラングはアスマの提案を断ろうとしたが、アスマは断固として主張を変えるつもりがないようだった。


「ラング、お願い。少しでも早く、元の生活に戻りたいんだよ」


 必死に懇願するアスマの姿に、ラングは戸惑いを隠せていない。それは頼まれていないパロールも同じことだ。


 アスマがここまで必死に頼んでくることは珍しい。それも苦手な魔術学の勉強だ。

 何かただ事ではないと、パロールが思ったように、ラングもそう感じたらしかった。


「どうして、早く元の生活に戻りたいのですか?」


 不思議そうにアスマに問いかけると、顔を上げたアスマが真剣な表情で自身の気持ちを吐露し始める。


 それは先刻のゲノーモス帝国の一件から感じたことらしく、アスマはベルに少しでも早く立ち直った姿を見せて、安心させたいと考えているようだった。


 アスマの思いの根本にあるものを感じ取り、パロールとラングが顔を見合わせて、何とも言えない表情をする。


「なるほど……そのようにお考えになったのですか……」


 そう噛み締めるように呟いてから、ラングはアスマの様子を観察するように眺めていた。


「でしたら……」


 ラングがそう口にした途端、アスマの表情が分かりやすく明るくなって、ラングに対する期待を表現する。頼みを聞いてくれると思ったのだろう。


 しかし、ラングが続けて言った言葉はアスマの期待する言葉ではなかった。


「勉強ではなく、休憩をしましょう。それが一番です」

「えっ?い、いや、俺は魔術学の勉強をしに……!」

「いいですか、殿下?」


 不意にラングが一本の指を差し出し、アスマの言葉を止めるように、アスマの口の前に立てた。


「常に何かに全力で立ち向かうことが急ぐことではありません。少しでも早く元に戻りたいと思うなら、立ち止まり、万全な状態を作り続けることも大切です。時には回り道に思えることが最短の道である場合もあるのです。分かりますか?」

「い、いや、そうは言われても……」

「それにここで殿下が無茶をして、もしも倒れたりしたら、ベルさんはどう思われるでしょうか?」


 ラングの言葉に抵抗しようとしたアスマも、流石にその言葉には言い返せない様子だった。少し悩むように俯いてから、小さくこくりと頷いている。


「分かった……まずは休むよ」

「そうです。そうしましょう」


 笑顔でそう言いながら、ラングはアスマを部屋の中に招き入れる。アスマはまだ納得いっていない部分もあるのか、やや不満も見えるが、従うつもりではあるようだ。


「ちょうどお茶もありますので、せっかくですから、それでも飲みながら、殿下に少しお話を伺ってもよろしいでしょうか?」

「話?何の?」

「ウルカヌス王国でどのような魔術を見られたのか、殿下からお聞きしたいのです」


 ラングのお願いにアスマは少しも考える素振りなく、それくらいならいいと即座に首肯していた。その様子を見たパロールが小さく微笑み、部屋の中に置かれたカップを手に取る。


 アスマは気づいていないようだが、これはラングなりの優しさだ。休むという体は取ってあるが、アスマから魔術の話題を聞き出すことで、少しずつでも知識の増える時間を作ろうとしている。


 なるほど。これが回り道こそが最短の道である、ということなのか。ふとその様子にパロールはそのように感じ、さっきのラングの言葉をアスマよりも先に理解した。



   ☆   ★   ☆   ★



 何度目かの実験は失敗に終わった。珍しいこともあるものだと思いながら、エルは天井を大きく見上げる。


 アスマから貰った土産物の目隠しを改良し、目の前が見えるようにしようとした。


 しかし、それだとアスマからのメッセージである目隠しの意味がなくなるので、何とかしたいと考える中で、エルは想定した物質だけ見ないようにできないかと思った。


 それはこれまでに考えたことのない発想だった。もしかしたら、アスマからの土産物がなければ、一生辿りついていないかもしれない。

 それを実行に移そうと思い、いくつかの術式を組み合わせていくことにしたが、実験は物の見事に失敗続きだった。


 エルが視界から消そうとした物質は血液だが、血液だけが強調されて見えるようになってしまったり、血液どころか生物が全て視界から消えたり、反対に生物だけが見えて風景が消えてしまったり、うまく血液だけが消えて見える状況が中々に作れない。


 そもそも、エルはこういう魔術に普段は触れていない。視覚系の魔術の仕組みをあまり理解できていない部分も多い。


 簡単な魔術の再現や仕組みを理解した上での構築なら、恐らく、簡単にできるとエルは自負しているが、こういう一から組み立てることはある程度の仕組みを把握できていないとエルでも難しい。


 誰か視覚系の魔術が得意な人物から、基礎的な部分だけでも教えてもらうか。そう考え、エルが該当する魔術師の顔を思い浮かべようとした。


 そこで真っ先に出てきた顔がだった。


 その途端、エルは眉を顰めて、何もない天井に大きく息を吐き出す。あり得ない顔を思い浮かべてしまったと自分自身に落胆する。


 思えば、エルの血液恐怖症が今も残っている一つの原因がガゼルだ。


 幼少期のエルは血液恐怖症を克服するために、トレーニングを試みた時期がある。その時、エルは一人で克服まで至らず、何か手段がないかとガゼルに頼った。頼ってしまったと言える。


 そこでガゼルは血液恐怖症の克服方法ではなく、血液恐怖症を受け入れることを教えてきた。


「それはお前の中の優しさが生み出したものだ。他の誰にもない優しさがそこに残っている証拠だ。それがあることで、お前は誰よりも優しく、他の誰にも見つけられない魔術の新たな世界を見つけられるかもしれない。そういうものを追ってみるための手形として持っておくのも悪くはないと俺は思うがな」


 そのガゼルの言葉に感銘を受け、エルは自身の病を克服することなく、今も残し続けてしまった。


「どの口が言ってるんだ……」


 ガゼルの言葉を思い出したエルが誰もいない空間に思わず、そう呟いた。


 誰よりも優しさのないことをやってのけた人が優しさを説くなど、あまりに馬鹿馬鹿しい。

 どういう気持ちであの時、ああいう風に言ってきたのだろうかと考え、エルはゆっくりと目を瞑った。


 今もずっと抱えた病と付き合い続けて、それで良かったのかと聞かれたら、エルは黙るしかない。それに対する返答の言葉はあるが、エルはそれを口には出せない。


「ふぅ……」


 大きく息を吐き出し、エルは再び目を開く。

 散らかった部屋から目を背けるように、エルは目の前の術式に目を落とし、そこに意識の全てを注ぎ始めた。

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