前に進む人々(1)

 復活したアスマがイリスを連れて出歩いた翌日。アスマは早朝から、中庭に立っていた。

 アスマの前にはシドラスが立ち、手には木剣が握られている。いつもの朝の稽古の体勢だ。


「お願いします」


 アスマがゆっくりと頭を下げ、木剣を構える前で、シドラスは木剣を構えることなく、アスマの様子にやや不安げな目を向けていた。


「殿下?本当に体調はもう大丈夫なのですか?」

「心配しないで。もう完璧だから。いつもと同じ感じでお願い」


 アスマは真剣な眼差しで木剣を構え、シドラスに頼んでくるが、シドラスの心から不安な気持ちは消えていない。


 元よりシドラスはアスマが立ち直れると思っている。オーランドの死でアスマがどれだけ立ち止まっても、そこから動くことがないとは思っていなかった。

 いつかは回復し、再び歩み出すだけの気力も、足も、アスマは持っている。


 だから、そのことに不安を懐くことはなく、アスマが出歩くようになったと聞いた時も、当然のことだと思っている節があった。


 しかし、今朝になってアスマから剣の稽古を再開すると言われ、シドラスはそれまでに感じていたアスマに対する安心感のようなものが、少し揺らぐ感覚を覚えていた。


 確かにアスマはいつか立ち直ると思っていた。剣の稽古を再開する日が来てもおかしくはないだろう。


 ただそれは長い目で見た時の話で、一日二日でどうこうなるとは当然、思っていない。

 ゆっくりと再び同じ速度で歩き出せる日まで待てばいい。無理して心を壊す結果になってしまっては元も子もない。


 そう思っていたシドラスからすれば、今のアスマはどこか急いた印象に思えた。何かに追われ、何かに焦っているとすら思える早さだ。


「本当にもう大丈夫なのですね?」


 再度、シドラスがアスマに確認を取るように質問すると、アスマは表情一つ変えることなく、真剣に頷いた。

 オーランドの死から、もう立ち直れたのか。そのように考えながら、シドラスは木剣を振り始める。


 アスマがこれまでに生まれ、育ってきた場所は王城だ。多くの人が住まう環境の中で、これまでにもアスマの身近な人が亡くなることは何度かあった。


 その時にアスマは死というもの自体には触れているとは思うが、今回のオーランドの一件はそれまでの死とは明確に違う。


 到底死ぬとは思っていない中での死は不意打ちを食らうようなもので、身構えていない身体に重い一撃を落とすだけでなく、アスマにとって聞きたくないはずの事実もそこには乗っていた。


 それだけで十分に心に伸しかかる重さだが、アスマは更にオーランドの死を目の前で体験した。それはこれまでのアスマの人生でなかったことのはずだ。


 目の前で親しい人が亡くなる。その経験がアスマの心を追い込み、塞ぎ込んだ数日間に繋がったとシドラスは思っている。


 そこから急いで立ち直ろうとしても、心と身体がバラバラになって、またどこかで辛くなるだけだ。


 やはり、ここは止めるべきか。そう悩むシドラスの気持ちが木剣に乗っていたのか、不意にアスマが手を止めて、シドラスに中断するように言ってきた。


「シドラス?何か考えごとしてない?」

「いえ、そんなことは……」


 アスマのことを深く悩んでいるとは口に出せず、咄嗟に誤魔化そうとしたが、こういう場面のアスマは鋭い。

 真剣に見つめる眼差しを前にしたら、この程度の嘘は見抜かれると思い、シドラスは自供するように首肯した。


「はい、すみません」

「何を考えてたの?悩みごと?」

「殿下のことです」


 そう言われ、まさか自分のこととは思っていなかったのか、アスマは分かりやすく驚きの表情を見せた。


「俺?俺が何かした?」

「私としましては殿下が立ち直ってくださり非常に嬉しいのですが、ただ本当に無理なさっていないのかとどうしても考えてしまうんです。ただでさえ、殿下は数日、悲しみの縁にいらっしゃいました。その状態から、この短期間で本当に大丈夫なのかと不安に思ってしまいました」


 シドラスが正直に気持ちを打ち明けると、アスマは木剣を手の中で遊ばせながら、うんうんと小さく頷いていた。


「うん、ありがとうね。心配してくれて」


 優しい微笑みを浮かべ、アスマはそう告げてから、ゆっくりとかぶりを振る。


「でもね、大丈夫。俺は少しでも早く元気な姿を見せたいんだ」

「元気な姿を見せたい?どなたに?」

「ベルに」


 そう呟いたかと思えば、不意にアスマがぎゅっと力強く、木剣を握り締めた。


「オーランドが目の前で死んで、誰かが死ぬってことがどんなに辛いことか、俺は改めて実感したんだ。そうしたら、何となく分かった気になってたけど、ベルがこれまでに経験してきたことって、俺が考えているよりも何倍も辛かったんじゃないかって、ふと思っちゃったんだよ」


 小人の寿命を飛び越え、永遠に生きることを課せられたベルが、これまでにどれほどの死と対面してきたのかシドラスは知らない。


 恐らく、自分の身体の秘密も考えたら、多くはその人が死ぬ前に別れることになるだろう。それ自体が死に近しい永遠の別れと言える。

 それに加え、不慮の事故で死ぬ人もいる。ベルの前で、ベルの到達できない領域に旅立った人がいても不思議ではない。


 そこで感じる辛さの一部に触れて、アスマはようやくベルの心に触れられたと思ったようだった。


「そんなに辛い経験をしていても、ベルは明るく、ここにいる。そう思ったら、俺がずっと暗く塞ぎ込んでたらダメだって思ったんだ。ううん、違う。ダメじゃなくて、塞ぎ込んだ姿をベルに見せたくないって思ったんだ。一日でも早く元気になって、元気な姿を少しでも多くベルに見せたいって思ったんだ。だって、俺も……」


 その続きの言葉をぎゅっと奥歯で噛み締め、アスマは木剣を握っていた。その覚悟に触れて、シドラスは大きく息を吐き出す。


「分かりました。殿下がそうお考えになったのなら、それを全力で応援しましょう」

「なら……」


 そう言いながら、笑顔で顔を上げたアスマの視線がシドラスに向き、そこでピタリと止まった。石膏で固められたかのように笑顔のまま、シドラスの顔を見つめているだけで、続きの言葉が出てこない。


「殿下?よろしいですか?」


 シドラスがそのように聞くと、アスマがやや震える声で呟いた。


「お手柔らかにお願いします……」


 その一言にシドラスは笑みを浮かべ、ゆっくりと首を傾げた。



   ☆   ★   ☆   ★



 仕事の最中に特徴的な香りが漂ってきた。この香りは嗅いだ覚えがあると思い、ベルは顔を上げた。


 確か、これはアスマがイリスにあげた香水の香りだ。そう思いながら、香りのする方に目を向け、イリスの名前を口にしようとする。


「イリ……」


 そこでライトと目が合った。


「やあ、ベル婆。どうしたの?変な顔して」


 そこにどうしてライトが立っているのかと疑問に思うことなく、ベルは香りの発生源がライトであることを確認し、アスマの采配に頭を抱えそうになる。

 図らずも、ベルの中で疑問だったことの一つが解決されてしまった。


「……いや、何でもない」


 ベルは香りに触れるべきか少し悩むが、すぐに必要ないとかぶりを振って、仕事に戻ろうとした。

 触れ方を間違えたらイリスに対する風評被害になりかねない。触らぬ神に祟りなしだ。


「さっき何か言いかけてなかった?」


 さっさとライトとの会話を終わらせ、仕事に戻ろうとするベルを引き止めるように、ライトがそのようなことを言ってくる。変なところで細かい性格だ。


「言ってない」


 ベルがぶっきらぼうに答えると、ライトが不思議そうに首を傾げた。


「え?さっき、『イリ』って言ってたような?『イリ』って何だろう?」


 ライトが首を傾げながら、しつこく質問してきた。触れて欲しいと全身の香り以上に主張している。

 それならば尚更、触れてやらない。そう思ったベルがライトと同じように首を傾げた。


「さあ、思い当たる言葉はないな。それよりも仕事に戻ったらどうだ?アスラ殿下の護衛はどうした?」

「ああ、今はいつものフリータイムだから。絶賛宣伝中」


 そう言って、ライトは自身の身体から必死に匂いをばら撒いている。何の宣伝かは分からないが、分かりたいとも思わない。


「そうか。なら、頑張れ」


 ライトを冷たく突き放し、ベルはさっさと仕事に戻ろうとする。ただでさえ、ベルには頭を抱える悩みごとがあるのに、その上に悩みを乗せたら、ベルの頭は重さで地についてしまう。


 これ以上の悩みはもう勘弁だと思いながら、解決できない悩みに意識が向きかけた瞬間、仕事に戻ろうとするベルをじっと見ていたライトが口を開いた。


「何か勘違いだったらごめんだけど、ベル婆って今、悩んでる?」

「は、あ……?」


 ライトが唐突に放った核心を貫く一言に、ベルはぽかんと口を開き切ったまま、唖然とした。

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