傷の残った日常(6)
一日の仕事も終わりを迎え、ベルは大きく息を吐き出した。抱え込んだ秘密もあって、不必要な気苦労に仕事の手を煩わされたが、何とか一日の仕事をやり切ることができた。
そう思う清々しさと解消されない悩みから生じるもやもやに挟まれ、ベルは吐き出した息を大きく吸い込み、再び大きく吐き出した。考えはこの深呼吸のように巡っているだけで、いつまでも落ちつき所を見出だせていない。
さて、どうしようか。どうすることが正解だろうか、とベルが抱えた手帳の行く末を考えようとした最中、ベルに近づく人影が二つ存在した。その人影にベルが気づくよりも早く、人影の方から声がかけられる。
「ベル」
その声にベルは首を回し、近づく人影に目を向けた。
それはアスマとイリスの二人だった。
「アスマか。どうした?」
「仕事は終わり?」
「ああ、終わったばかりだ」
「なら、ベルにもついてきて欲しいところがあるんだけど、いいかな?直接行こうかと思ったけど、やっぱりベルも一緒の方が良かったから、王城まで呼びに戻ってきたんだ」
アスマはやや曇った笑みを浮かべ、ベルに軽く頭を下げるように頼み込んできた。表情から僅かに察せられる暗い感情が必然的に行き先をベルに教えてくれる。
「そうか。なら、行くか」
断る理由はない。断る必要もない。アスマが行くと言うのなら、ベルはそれについていき、アスマの覚悟を見守るべきだ。
そう思ったベルの返答に、アスマとイリスが揃って安堵した様子だった。それほどまでに二人で行くには怖かったのだろう。その気持ちはベルにも分かった。
「直接ということは一度、王城から出ていたのか?」
「ああ、うん。ギルバートのところに行ってきたんだ」
「ギルバート卿のところに?土産物を渡してきたのか?」
頷くアスマを目にし、ベルはウルカヌス王国でのことを思い出した。アスマに目を向けながら、チラリとイリスにも視線を寄越し、ベルは気になっていたことを質問してみる。
「ぬいぐるみはどうだった?どういう反応だった?」
「喜んでくれたよ。ソフィアのアドバイスを聞いて良かったよ」
無邪気に笑うアスマを横目に、ベルはイリスに視線を向けた。イリスは小さく手を握りながら、力強く頷いている。
「なるほど、そうか」
前途は多難である。察したベルは苦笑を浮かべる。
「ああ、それから、エルにも逢って、言い忘れていた注意をちゃんとしてきたよ。エルのことだから、もう大丈夫だよ」
アスマの言葉を聞きながら、ベルは仕事の最中に逢ったエルのことを思い出す。罪悪感が胸の内側から込み上げ、ベルの胸をチクリと刺していく。その痛みが毒のように広がっていく感覚から、ベルは目を逸らすように笑みを浮かべた。
「そうか。アスマに言われたら、効いただろうな」
「そうそう、それから、王都の街中でアーサー先生にも逢ったんだよ」
思い出したように話を続けるアスマを見ながら、ベルは少し安心した気持ちが湧いてくる。オーランドの一件で塞ぎ込んだ時はどうなることかと思ったが、今は少しでも前を向いているようだ。
それが良かったと思う一方、ベルはその影に隠れる自分の醜さに言葉もなかった。
これでいいのか。どこからともなく疑問が湧いても、ベルの心は無言のまま、その疑問が消えていくまで待っていた。
☆ ★ ☆ ★
アスマの一日のことを聞きながら、王都の街中を移動することしばらく、ベル達は目的の建物の前に立っていた。
アスマとイリスがわざわざベルを呼んできて、それでようやく立ち寄ることに決めた場所。
そこはカフェ、パンテラだった。
思わず足を止めたアスマの隣で、ベルが代わりに扉を開けた。扉につけられた鐘が音を鳴らし、店内にいた一人がこちらに目を向けてくる。
「いらっしゃいま……」
そこまで口にし、ベネオラは固まった。ベルでもイリスでもなく、アスマをじっと見つめてから、驚いたように声を上げる。
「アスマ君!?もう大丈夫なの!?」
ベネオラが挨拶も途中のまま、そう質問を投げかけながら、ベル達に近づいてきた。アスマは恥ずかしそうに頭を掻いて、「大丈夫」といつもの口調で答えている。
「いらっしゃい。お元気そうで何よりです」
店の奥からグインが声をかけてきた。見れば、グインの前のカウンター席にはキナが座っている。
「ごめんね。変に心配をかけちゃったね」
「ううん。元気になったみたいで良かった」
「うん。もう大丈夫」
ベネオラの前で胸を張って、そう答えているアスマだが、ここに来る前にベルを呼びに来たくらいだ。本当の意味で吹っ切ったわけではないだろう。
心のどこかにまだ抱え込んだものがあって、それと向き合うために、アスマはここに来た。ベルも今、似た気持ちに陥っているから、その気持ちは良く分かった。
「今日は私達だけか」
入口で立ち話も何だからと、テーブル席に移動しながら、ベルは店内を見回した。店内にベル達以外の客は見当たらない。
そう思って言ったのだが、それを聞いたキナが自分の顔を強く指差している。
「私がいるよ」
「いや、キナはそういうカウントではないと思って」
「どういうカウント?」
「妖精の類?」
表現の方法が難しく、誤魔化すようにベルが答えると、キナはしばらく考えてから、満足そうに胸を張っていた。どうやら、お気に召してもらえたようだ。
ベル達がテーブルにつくと、素早くベネオラが近づいてきて、注文を取ってきた。特に変わったものを頼む理由もないので、ベル達はいつも頼んでいるようなものを頼み、いつものパンテラでの時間が流れ始めようとする。
「そういえば今日、マスターと王城で逢ったんだ」
「え?」
それは注文を終え、アスマがイリスに何かを言っている様子を横目に見ている最中のことだった。不意に思い出したベルがそう口にすると、アスマの驚きの目がベルに向いた。
「グインが王城にいたの?」
「ああ、そう」
ベルがアスマに答えながらグインに目を向けると、グインは頼んだコーヒーを淹れながら、アスマの問いに答えるように口を開く。
「ガルシアの様子を見に行ったんですよ」
「ああ、そうなんだ。どうだった?元気そうだった?」
「一応は。右腕は失ったままですが、気持ち的には元気そうでしたよ。罪を償ったら、何をしたいか考えているそうです」
「やりたいことが見つかるといいよね」
グインの言葉に笑顔を返すアスマを見ながら、ベルは話題を間違えたかと考えていた。何となく、空白の時間を埋めるために、思い出したことを口にしたが、この話題はベルの心を締めつけるものだった。
もう少しだけ考えて話題を持ち出せなかったのかと、自分自身で叱責するベルの前に、ベネオラが頼んでいた物を運んできた。それを順番にベル達の前に並べていく。
それを待ってから、アスマがいつもよりやや静かな様子で、ベネオラに声をかけた。
「あのさ、ベネオラちゃん。実はね、ベネオラちゃん達にお土産があるんだ?」
「お土産?」
アスマの唐突な言葉にベネオラはグインと顔を見合わせ、首を傾げている。その間でキナも不思議そうな顔をしている。
それもそのはずだろう。アスマがウルカヌス王国に行っていたことを流石にベネオラ達は知らない。
「いろいろあって、遠出してたんだよ。そこでお土産を買ってきたんだ」
そう言いながら、アスマはイリスに頼み、持っていた袋を広げると、そこから大量の食器を取り出して、テーブルの上に並べ始めた。
「はい、これがグインとベネオラちゃんへのお土産だよ」
「食器?こんなに?」
グインが驚いた様子で言いながら、慌ててカウンターから出てくる。ベネオラはテーブルの上に置かれた一枚のカップを持ち上げ、じっと観察するように装飾を見ている。
「凄く綺麗なカップ……これって高価な物なんじゃ……」
「安心しろ。国の経費だ」
ベルが冗談交じりにそう告げると、ベネオラはぎょっとした顔で、持っていたカップを大切に抱え込んでいた。
「そ、そんなものは受け取れませんよ!?」
「冗談だ。民芸品で、この辺りでは見ない独特な模様だが、値段自体はそこまでではなかった」
ベルの言葉は嘘ではなかった。
だからこそ、アスマはテーブルの上に並び切れるか怪しいほどの量を買ったのである。
「本当にいいんですか?このようなものを貰ってしまって」
「寧ろ、貰ってくれないと折角買ってきたのに困っちゃうよ」
アスマが苦笑しながら答えると、グインとベネオラは顔を見合わせてから、揃ってアスマに頭を下げてきた。お礼の言葉を口にされ、アスマは照れ臭そうに頭を掻いている。
「あれ?私のは?」
そこでキナが強欲にも割り込んできた。中々に図太いと思うが、それが子供らしいと言えば子供らしい。
「キナちゃんは何がいいか分からなくて、こういうのでも大丈夫かな?」
そう言って、アスマがキナに手渡した物は香水の入った小瓶だった。イリスにもあげているところを見た物で、どうやら、イリスとは違う香りの香水のようだ。
「香水。自分でつけなくても、匂いは楽しめると思うよ」
カフェという場に出入りする以上、あまり香水はつけない方がいいかもしれない。アスマの配慮もあっての言葉にキナは頷いてから、小瓶の中を少し嗅いでいる。
「うん……良い匂い……ありがとう!」
顔を上げたキナが満面の笑みを浮かべる様子を見て、アスマは満足そうに笑っていた。その隣でキナの様子を見ていたイリスがアスマに近づいて、何かを小声で言っている。
「違う匂いの香水があるのなら、それと私の香水を交換してくれませんか?」
「えっ?どうして?」
「いや、流石にお揃いは……」
イリスは何かを必死に訴えかけているが、アスマは不思議そうに首を傾げているだけで、イリスの訴えは届いていないようだ。
その様子にイリスが諦めたかのように項垂れた直後、アスマはもう一度、袋の中に手を突っ込んでから、パンテラの中をゆっくりと見回す。
その視線は一つのテーブル席で止まり、アスマは大きく息を吐いた。
そこは良くオーランドが座っていた席だ。
「本当はね。これを直接渡したかったんだけどね。実は寂しがり屋のオーランドが寂しくないようにと思って買ってきたんだ」
そう言いながら、アスマはそのテーブルの上に小さな鼠のぬいぐるみを置いた。
「今までありがとうね、オーランド」
そう呟くアスマをベル達は見守る。ここが本当の意味で、アスマがオーランドと決別する瞬間だ。ここにこれ以上の言葉はいらない。
そう思うベルがテーブルの上に置かれた小さなぬいぐるみを見た。それがタリアへのプレゼントのついでに買った物であることは墓場まで持っていこうと心に決めた。
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