傷の残った日常(3)

 まとめ上げた書類を手に、シドラスは扉をノックした。数度のノックが響いた後、部屋の中から声が返ってくる。

 低く感情の読み取れない声はブラゴのものだ。


「失礼します」


 シドラスが声をかけ、部屋の扉を開けると、正面のテーブルにつくブラゴの視線がシドラスに向いた。部屋を訪れた理由を聞くこともなく、シドラスが部屋の中に入ってくる様子をじっと観察している。

 理由は聞かずとも語るだろうと思っているのか、シドラスが部屋を訪れる理由に見当がついているのか、今のブラゴの表情からは分からない。


「ウルカヌス王国で体験したこと、それから、先日のゲノーモス帝国の一件で起きたことをまとめてきました」


 そう言いながら、シドラスは手に持っていた書類の束をブラゴの前に差し出した。


 ウルカヌス王国での詳細な報告は既にセリスが済ませているはずだ。それはシドラスも把握しているが、セリスは全ての出来事に触れたわけではない。

 セリスは知らないが、シドラスなら知っている出来事も中にはあって、そういう出来事の補完も兼ねて、シドラスはウルカヌス王国での一件をまとめていた。


 ゲノーモス帝国との一件もそれに近しい。ゲノーモス帝国との一件の大筋はブラゴも把握しているだろう。

 だが、細かいシドラスしか関与していない部分も多く、そういう部分を報告しそうな人物がシドラスしかいないので、シドラスがまとめ上げるしかなかった。


「ご苦労」


 ブラゴがそう告げて、シドラスから書類の束を受け取る。内容を軽くチェックするように、シドラスの前でパラパラと中を見始めている。

 ブラゴに見られても、報告に不備は存在しないはずだ。シドラスがそういうへまをすることはない。


 ただ一つ。シドラスが気にかかっていたのが、オーランドの残した手帳の存在だった。


 あれは現在、ベルに預けている。そのベルが報告をしないように懇願したこともあって、シドラスは今回の報告書に、手帳の存在を一切書いていなかった。


 その後ろめたさが妙な緊張感をシドラスに持たせた。必要ないのに、何かを言わないといけない気持ちに駆られ、シドラスは言葉を探すように周囲を見回す。


 その途中、ふとシドラスはブラゴのテーブルの上にまとめられた書類を目にした。恐らく、今回のゲノーモス帝国での一件の事後処理に関する書類だ。


 シドラスは全てを体験したわけではないが、その一端だけでも、相当に様々なことが起きたくらいだ。渦中にいたブラゴは相当に大変だったし、今も大変なのだろう。

 そう考える中で、シドラスは自身がいない間に起きたと聞いたことを思い出した。


「そういえば、マゼランさんの容態はどうですか?」


 ゲノーモス帝国が絡んだ、いくつかの事件の中で、最もエアリエル王国に損失が生まれたのが、マゼラン襲撃事件だった。この事件によってマゼランは重傷を負ったと聞いている。


 シドラスの質問を受けて、ブラゴは書類を確認する手を止めることなく、視線もそのままに口を開く。


「意識は戻り、会話も問題なくできている状態だ。ここから、どれだけ回復するか本人の意識次第ではあるが、前向きな様子を見るに問題はないだろう」


 基本的にブラゴはリアリストだ。相手が友人でも、家族でも、恋人でも、助からないと思ったら、はっきりと助からないと言う男だ。


 そのブラゴが希望を含んだ表現をするということは、本当にそこには希望があるのだろう。そう思えるから、シドラスはほっと胸を撫で下ろす。


「ざっと見たところ、大きなミスは見当たらない。内容は後でゆっくり確認する。帰っても大丈夫……」

「ありがとうございます。では……」

「……なのだが、その前に一つ」


 シドラスがブラゴに頭を下げ、部屋から立ち去ろうとしたところで、珍しく呼び止めるようにブラゴがそう口にした。


「何でしょうか?」

「アスマ殿下のご様子は?」


 そう聞かれ、シドラスは僅かに身体を強張らせた。


 ブラゴは良くも悪くもリアリストだ。そのブラゴがアスマの様子を気にかけていると、少しだけ悪い想像が首を擡げてくる。

 そういうことはないと分かっているのだが、特に今のアスマを思い出せば、そういう考えも湧いてきてしまうものだ。


 ただシドラスは胸を張って言える言葉があった。


「大丈夫です。あの人はとても強い方なので」


 悲しみを受け止めるのではなく、悲しみに沿って撓むことのできる強さをアスマは持っている。その撓みの中に意味はいるが、それも次第に元に戻って、次は誰かの悲しみに添える優しさと変わるだろう。


 シドラスの強い意思の籠った一言に、ブラゴは僅かに安堵したように顔を伏せて、「そうか」と口にした。

 その様子を見ていたら、シドラスを呼び止めてまで質問をした気持ちの真意が何となく分かり、シドラスは小さな笑みを浮かべ、ブラゴに軽く頭を下げた。



   ☆   ★   ☆   ★



「あっ」


 前方から迫る人影に気づき、アスマが先に声を上げた。その声に導かれるようにイリスも人影を発見し、そこにいる人物を理解した直後、向こうの人影からも同じような声がする。


「あっ」


 その言葉が交じって数秒、沈黙が廊下を漂ったかと思えば、アスマがやや駆けるように走り出し、そこに立つ人物が逃げる前に腕を掴んだ。


「見つけた!エル!」


 アスマのその一言に腕を掴まれたエルは引き攣った表情をしていた。


「どうされたのですか?殿下?元気が戻ったようで安心しました」


 社交辞令のように形式的な言葉を並べ、エルはアスマの手から逃れようとするが、アスマはがっちりと掴んで離さない。


「うん、ごめんね。心配かけて」

「いえ、別に心配していたとは……」


 そう言いながら、エルの視線がイリスに向いた。瞼の動きと眼球の動きで、必死にイリスに助けを求めていることは分かるが、アスマの騎士であるイリスにエルを助ける理由はない。


「エル。イリスに危ない薬を渡したんだよね?」

「いやはや、何のことか」

「もうちょっとでイリスが死ぬかもしれなかったんだよ?」

「…………」


 珍しく真剣に怒るアスマの視線に晒され、エルは完全に言葉を失っているようだった。


 アスマに腕を掴まれたまま、ゆっくりと頭を垂れたかと思うと、アスマとイリスの両方に向かって、交互に小さく反省の言葉を呟く。


「すみませんでした……」

「いえ、あの、使ったのは私の判断ですし、使わないと殺されていたかもしれませんから」

「それでも、あんまり、そういう危ないものは渡さないで欲しいな」

「はい……作った薬は私の方で保管しているので、後で処分しておきます……」


 ガックリと項垂れるエルにアスマは納得したように頷きながら、あまりにしおらしいエルを不思議に思ったようだ。頷いていた首はゆっくりと傾き、不思議そうにエルの顔を覗き込もうとしている。


「エル?何か、様子が変じゃない?何かあった?」

「いや、何かというか……」


 そう呟いたエルがゆっくりと顔を上げて、何かを思い出したのか、大きな溜め息をつきながら、再びガックリと項垂れた。


「本当にどうしたの?ほら、これをあげるから、元気出して」


 そう言って、アスマがイリスの持っていた袋に手を突っ込み、その中から何かを取り出そうとする。


「それは何ですか?」

「ウルカヌス王国で買ってきたお土産だよ。エルにもあるんだ」


 そう言った直後、アスマが袋から手を出し、エルに何かを手渡した。


「えっと……これは?」


 戸惑った様子を見せながら、エルが渡された物を顔の前で広げると、そこには人の目玉を模した絵が描かれていた。布でできたマスクのような見た目だが、マスクと違って目の覗く穴がない。


「目隠しマスクだって。血が見えなくなるから、ちょうどいいと思って」

「これを渡されて、俺はどうしろと?」

「血が見えそうで危なくなったら、それでもつけてよ」


 それをするくらいなら、多分、目を瞑った方が早い。イリスがそう思ったことをエルも思ったに違いない。


「あ、ありがとうございます……」


 一応、そう言葉では礼を言っているが、エルの表情は誰にでも分かるほど、はっきりと引き攣った笑みを浮かべていた。


「ちなみに、これをウルカヌス王国で買ったと言っていましたけど、殿下もウルカヌス王国に行ったんですよね?」

「うん、そうだよ」

「向こうにも、エルと呼ばれる魔術師がいたというのは本当ですか?」

「ああ、うん、いたね」


 エルの問いかけにアスマが首肯した瞬間、イリスが思わず警戒しそうになる速度で、エルがアスマの腕を掴んでいた。


「どういう人でしたか?」

「どういう人って……いい人だったよ」


 アスマの無邪気な答えを聞いて、エルが再び引き攣った笑みを浮かべている。


「そう、ですか……」


 その表情を見るに、そのウルカヌス王国のエルに関する話題で、何らかの心の傷を負ったのだろう。ウルカヌス王国に行った面々を思い浮かべるに、恐らくはベルがつけた傷に違いない、とイリスは全てを察した。


 何だか知らないが、それほどまでにウルカヌス王国のエルが良い人物だったに違いない。それはエルに同情するところだ、とイリスが思っていると、アスマが無邪気な笑顔を浮かべたまま、一言付け加える。


「エルと同じくらい、いい人だったよ」

「え?」


 そのアスマの一言を聞いた途端、それまで萎んだ花のようだったエルの表情が一気に満開になった。


「流石、殿下。人を見る目は確かなようだ。そんな殿下の期待に応えられるよう、次は安心安全で役に立つ魔術を作ってみせますよ」


 そう言いながら、エルはアスマに渡されたマスクを頭に乗せて、笑い声を上げながら廊下を歩き始めた。


「何か、元気出たみたい?」


 エルの急な変化に戸惑うアスマの隣で、イリスは苦笑を浮かべていた。


「あんな人だったっけ?」


 イリスのいない間に、やはり、王城はいろいろと変わっているようだ。

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