傷の残った日常(1)

 オーランドの死は耐え難いほどの悲しみをアスマに齎した。


 帝国の諜報員だった。帝国の人間として始末されて死んだ。王国の情報を帝国に流していた。アスマの命も狙っていたかもしれない。

 浮上してくる可能性はアスマにとって悪いものばかりだったが、それらはアスマから言わせると関係のないことだった。


 お気に入りのカフェに通う常連客の一人。オーランドがどのような立場にいたとしても、その事実は変わらない。

 アスマから言わせれば、オーランドがどう思っていても、どのようなことをしていても、同じ店が好きである友人に違いはなかった。


 その友人の死が齎した悲しみに溺れ、ウルカヌス王国から帰ったばかりのアスマは、ほとんど動けない日を過ごしていた。

 動かないのではなく、動けないのだ。動きたいと思っても、悲しみに襲われたアスマの身体はそれを拒絶した。


 ようやくアスマの気持ちが立ち直る兆候を見せ始め、服を着替えるだけの気持ちが回復したのは、オーランドの死から三日が経過した頃のことだった。


 最初の一歩を踏み出してしまえば、そこからは早かった。アスマの気持ちはどんどんと落ちつきを見せ始めて、動けるようになった翌日には、部屋の外に出るだけの気力が戻っていた。


 回復した、と完全に言える状態かは怪しい。楽しいと思う気持ちを十二分に発揮するには、未だ悲しいと感じる気持ちが重過ぎるくらいだ。

 笑みを浮かべたくても、今のアスマの顔はそのために動くようになっていない。


 それでも、アスマは部屋から出ることを決め、イリスと共に王城内を歩き出した。ウルカヌス王国で購入し、未だ誰にも渡せていなかった土産物を渡すという目的が一つ。


 もう一つは部屋で俯いて、暗い顔をしていても、何も進まないとアスマ自身が分かっているからだ。


 不意に訪れてしまった心の傷は深く残るだろう。それが癒えることはないのかもしれない。


 でも、そういう傷を抱え、それでも生きている人をアスマは知っている。これまで、ずっと近くで見てきた。

 その姿があったからこそ、アスマは動けるようになったのなら、ちゃんと自分の足で歩く必要があるとすぐに思えた。


「大丈夫ですか?」


 アスマに同行するイリスが心配そうに聞いてくる。

 その質問にぎこちない笑みを浮かべ、アスマは首肯する。


「大丈夫」


 イリスの不安を取り除くために、自分自身に言い聞かせるように、アスマがそう口にしたところで、アスマは前方から、こちらに歩いてくる人影に気づいた。


 ほとんど同時に向こうも気づいたのか、喜びと心配が綯い交ぜになった複雑な表情を浮かべて、そこにいる人物が声をかけてくる。


「兄様!」


 そのアスラの一言にアスマは微笑んだ。



   ☆   ★   ☆   ★



「大丈夫」


 そう答えたアスマの一言を聞いた時には、流石のイリスも不安が勝っていた。どれだけアスマを信じようと思っても、今のアスマは信じられるだけの表情をしてくれていない。

 本当はあの部屋から二度と出られないとしても、あの部屋に押し込めておく方が良かったのではないか。そう本気で考えてしまうほどに、イリスは不安だった。


 しかし、廊下の途中でアスラと合流し、アスマの様子を心配していたアスラと話す姿を見たら、その気持ちも少しずつ変わりつつあった。


 確かに傷はまだ癒えていないのかもしれない。

 それでも、アスマは前を向こうとしている。その気持ちに嘘偽りはないようで、それだけでイリスの中の不安は解けていく。


「そうだ」


 アスラと立ち話を続けることしばらく、心配を積み重ねたアスラを落ちつかせるように、笑顔で優しく話していたアスマが何かを思い出したようにハッとした。


「遅くなったけど、三人にお土産を買ってきてたんだよ。ウルカヌス王国でね」

「三人?」


 アスラではなく、三人と言ったアスマの一言に、アスラは自然と振り返っていた。

 そこにはアスラの護衛を担当する、ウィリアムとライトが立っている。


 ライトはアスマの言った三人に自分も含まれていると即座に思ったのか、アスラの視線に笑みを返しているが、ウィリアムは自分が含まれているとは思わなかったのか、アスラの視線に思わず自身の顔を指差している。


 その隙にアスマがイリスに声をかけ、イリスの持っていた白く大きな袋に手を突っ込む。この袋の中には、アスマがウルカヌス王国で買ってきた多数の土産物が詰め込まれている。


「はい、アスラにはこれ」


 そう言いながら、アスマは一冊の本を取り出し、アスラの手の上に乗せた。


「これ、ウルカヌス王国でしか手に入らない本なんだって。前に探偵シャーロックの本をくれたから、今度は俺から本をプレゼント」

「あ……!ありがとうございます……!」


 喜びに身体を震わせ、噛み締めるように呟きながら、アスラは渡された本を大事そうに抱いていた。

 その姿に満足そうに微笑んでから、アスマはまた袋の中に手を突っ込んでいく。


「はい、これはウィリアムに」

「私もですか!?」


 まさか、本当に自分にもあるとは思わなかったのか、ウィリアムは驚きに声を上げながら、アスマから手渡される物を受け取っていた。


「これは……指輪でしょうか?」

「そう。向こうの貴族の間で有名な御守りなんだって。内側に祈りの言葉が彫ってあって、相手の健康を祈るみたいなことが書いてあるって」


 興味深そうに指輪を眺めてから、ウィリアムは深々と頭を下げて、アスマに礼を言っていた。その姿にアスマは恐縮している。そこまでされるとは思っていなかったみたいだ。


 そこまでのアスラやウィリアムのやり取りを見て、ライトがやや複雑そうな表情をしていた。


 アスマの買ってきた土産物ということもあり、もっと突拍子もないものを想像していたら、意外と真面な物が出てきて、自分に渡される物が怖くなってきたというところだろう、とイリスは想像する。


 あのアスマが終始真面なはずはない。そうなると、自分の番でとんでもないものが出てくるかもしれない。

 そう考えたのか、警戒した様子を見せ始めたライトの前で、アスマが袋を漁り始めた。


「最後にライトのはね……」

「あの殿下……?場合によっては、別に俺の土産物はなくても……」

「はい、これ」


 出される前に断ろうとしていたライトだったが、アスマの捜索の手の方が速く、ライトが最後まで言い切る前にアスマは袋の中からライトに渡す土産物を取り出していた。


 眼前に土産物を突き出され、思わず顔を歪めていたライトが次第にアスマの出した物を認識したのか、恐怖から驚きに表情を変えている。


 それは小瓶だった。


「これは……モテる薬ですか?」

「かもしれない」

「えっ?マジで?」


 軽いやり取りの後、突如として真剣な表情になったライトの手が伸び、アスマの手からさっと小瓶を奪っていく。その素早さは盗賊のようだ。


「というのは冗談で、それはウルカヌス王国の貴族の間で流行っている香水だって。おすすめされたから何本か買ったんだけど、誰にあげたらいいか分からなくて」

「ああ、それで俺に……」


 香水と判明し、ややがっかりした様子のライトだが、そのやり取りを目にし、イリスは一つだけ気になっていることがあった。


「あの殿下。一ついいですか?」

「どうしたの?」

「あの香水って、私も貰いましたよね?」

「うん。イリスにもあげたね」

「それって別の香りですよね?」

「別の奴もあったけど、今、あげたのは同じだね」


『えっ?マジで?』


 イリスとライトの声が揃い、二人の視線は自然と交わっていた。


 次の瞬間、イリスがライトの手から小瓶を取ろうとしたが、ライトは逃げる速度も盗賊並みだった。一向に捕まる気配なく、イリスから距離を取ってしまう。


「よっしゃ!イリスちゃんと同じ香り!」

「やめてください!絶対につけないでくださいよ!」

「噂になるかも……!」

「いやっ!?」


 必死に飛びかかるイリスと、飄々と逃げ回るライトを眺め、アスマが楽しそうに笑っていると、その隣に立ったアスラが呟いた。


「喜んでもらえて良かったですね」

「うん、良かったよ」


 そう呟くアスマの声と、優しく微笑む横顔を見て、アスラはどこかホッとしたように息を吐いていた。



   ☆   ★   ☆   ★



 箒が左から右に移動する。その様子をじっと眺めながら、ベルは考え込んでいた。


 頭の中に浮かび上がるのは、オーランドの手帳に書かれていたことだ。あれが事実なら、ベルの身体は今の状態にしたガゼルは今も近くにいるということになる。


 探すべきなのか。探したとして、自分に何ができるのか。何をすればいいのか。そういうことを考え、ベルの頭は一杯になっていく。


 その思考を遮るように、ベルの目の前に青と赤の髪が割って入ってきた。

 ベルと同じくメイドである、ネガとポジの二人だ。


「ベルさん?どうしたの?」

「ベルさん?大丈夫?」


 そう声をかけてくるネガとポジは心配した様子だった。いつもの揶揄いや遊びの交じったものではなく、真剣に不安な瞳を向けてくる。


 確かに箒で床を掃きながら、ひたすらにその動きを見ている姿を見れば、誰でも心配するものだろう。ベルは慌てて笑みを浮かべ、明るい声を出した。


「大丈夫だ。何でもないから、掃除に戻れ」

「もう終わってるよ」

「ベルさんだけだよ」


 そう言われ、ベルは自分以外の人が移動しようとしていることに気づく。それほどまでにベルは考え込んでいたようだ。


「ウルカヌス王国に行ってたって聞いたんだけど、そこで何かあったの?」


 ネガとポジと同じようにベルを心配してくれていたのか、キャロルがそのように声をかけてきた。

 ウルカヌス王国に行った。その事実も、帰ってきた今は周知の事実となっている。


「いや、別にそういうことじゃないんだ」

「楽しくなかった?」

「辛かった?」


 ネガとポジがベルに抱きつき、頭を撫でようとしてきたが、ベルは断固として、それを拒否し、二人からさっと離れる。


「ウルカヌス王国って、どんなところなんですか?貴族の国って聞いたことがあるんですけど、煌びやかなところなんですか?」


 そこまでの会話から一転、スージーがそのように質問してきた。

 ベルの様子のおかしさから、明らかに話題は変わってしまっているのだが、あまり触れられたくなかったベルとしてはありがたく、スージーの発言に乗っかろうと、ウルカヌス王国でのことを思い返す。


「別に煌びやかという感じはなかったと思うが、大体、この国と同じだと思うぞ?向こうにもこっちと同じで、エルと呼ばれる魔術師がいたくらいだし」


 ベルがエアリエル王国とウルカヌス王国の類似性を説明するために、ウルカヌス王国のエルこと、エルドラドを話題に出した瞬間のことだった。


「あれ?ベル婆?今、俺のことを呼んだ?」


 不意にその声が聞こえ、導かれるように視線を向けると、そこにはエアリエル王国のエルこと、エルシャダイが不思議そうな顔で立っていた。

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