帝国の幕引き(3)

 特別な理由があったわけではない。帝国という地に生まれた以上、選べる道は限られていた。

 多くの少年がそうであるように、オーランドも帝国軍に入る道は既定路線だった。それ以外の道も存在するが、それを望んで選ぶ人はいない。帝国とはそういう場所だ。


 幸いにも、オーランドは同時期に入隊した他の兵士よりも手先が器用だった。大概のことはできたし、それなりの活躍も期待された。


 しかし、オーランドには崇高な志がなかった。

 最前線に立って、多くの屍の上を行軍するには、それらを乗り越えられる強い心が必要だ。それを持っていないオーランドに前線で戦う選択肢は選べなかった。


 そこで持ち前の器用さを生かし、オーランドは別の道を選ぶことにした。


 それが密偵だった。


 決して安全な役目ではない。密偵であることが知られてしまえば、処刑は免れない危険な仕事だ。


 だが、最前線で人を殺し続けることよりも、自身の身だけを危険に晒す方がオーランドは大凡マシだと思った。


 そうして、密偵の道を選んだオーランドだが、そこでまた幸いなことに潜入するように言われた国はエアリエル王国だった。

 大国ではあるが、軍事国家ではなく、自由を謳う国だ。密偵であることが露呈しにくい上に、潜入することも比較的簡単である。


 良かった。兵士という道を自身で選んでおきながら、誰も殺さずに済む道に進めて、オーランドは心の底から、そう思った。


 エアリエル王国への潜入なら、誰かを手にかけることも、自身の身に危険が及ぶことも少ない。このまま程々の地位が築ければ、それでいい。

 最初は確かにそう思っていた。


 そこに一石を投じたのが、アスマの存在だった。まさか、偶然にも立ち寄った店にアスマが来店するとはオーランドも思っていない。

 その時はラッキー程度にしか考えていなかったが、アスマとの交流が増えると、オーランドはそこに居心地の良さを覚え始めた。


 ゲノーモス帝国にいては絶対に味わえなかった空間だ。冷たさの意味は知っても、温もりの意味を知る者はほとんどいない国で、オーランドはその空間に匹敵する場所を見つけることも、作り出すこともできるとは思えない。


 そのまま、パンテラという空間に浸り続けて、いつの間にか、オーランドはそこにいることを望み始めてしまった。

 敵国のど真ん中に居場所を見つけてしまったのだ。


 しかし、オーランドは密偵だった。王国の情報を帝国に流すという役目がある。その役目から逃げようものなら、帝国の手によってオーランドは始末されることだろう。

 そこまで分かっていた。


 だから、オーランドはその手から少しでも早く解放されたいと願い、少しでも帝国が満足する情報を早くに送ろうと考えた。

 今から思えば、その考えこそが間違いだった。


 エアリエル王国がウルカヌス王国と接触したという情報など握り潰せば、きっとオーランドはまだあの店のいつもの席に座っていられたのだろう。

 後悔しても、曇った表情が手放した温もりの大切を教えてくるだけで、手元に戻ってくる気配はなかった。



   ☆   ★   ☆   ★



 涙を流しながら聞くアスマに対して、オーランドは今にも泣きそうなほどに顔を歪めて、何度も言葉に迷うように唇を動かしていた。


「ねえ、オーランド?全部、嘘だったの?いつも楽しそうに話していた姿は全部演技だったの?」

「そんなの……」


 何かを言おうとして、言葉に詰まったかと思えば、オーランドはアスマから目を逸らすように俯き、唇を噛み締めるように口に出す。


「演技に決まってるじゃないですか……」

「本当に?本当にそうなの?オーランド?」

「全部、貴方から情報を引き出すための振る舞いですよ……」


 オーランドの震える声を聞きながら、アスマだけでなく、シドラス達も表情を曇らせていた。

 きっと全員が分かっていることだ。分かっていながら、誰も口に出さないのは、そこに意味がないからだ。


「ああ、惜しかったな……もう少しで、俺は……」


 そう言いながら、顔を上げて何かを言おうとしたオーランドが言葉を詰まらせた。そうかと思えば、耐えられなかったように瞳から雫を一滴、頬に零している。


「俺は……」


 今度こそ、オーランドが何かを言おうとした瞬間のことだった。シドラスは背後から感じる気配に気づいて、オーランドから視線を逸らした。


 そこには見覚えのある黒い塊が立っていた。


「殿下!?」


 咄嗟にシドラスはアスマを庇うように腕を伸ばし、見えた黒い人物とアスマの間に自身の身体を割って入れた。


 直後、黒い人物からきらりと光る物が飛び出したが、それはアスマを狙っていなかった。


 黒い人物から飛び出した投げナイフは全て、オーランドの身体に命中していた。


「オ……オーランド……?オーランド!?」


 アスマが叫び声を上げる中、シドラスは黒い人物を追いかけようと目を向けたが、そこには既に黒い人物の姿がなかった。

 目的を達し、即座に離脱したのだろう。今頃は帝国軍人が王城を出立し、帝国に向かい始めた頃のはずだ。


 黒い人物の追跡を諦めて、シドラスが視線をオーランドに戻すと、倒れたオーランドの近くにアスマ達がちょうど駆け寄っているところだった。


「オーランド!?しっかりして!?」

「ああ……最後の最後にばれちまったな……殿下……」


 そう言いながら、涙で頬を濡らしたオーランドがアスマを見やって、いつものように微笑みを浮かべた。


「ありがとう……ございました……」

「待って、オーランド……そんな…お別れみたいなことを言わないでよ!?」


 アスマは必死に懇願するように訴えているが、ナイフは真正面からオーランドに突き刺さり、傷はあまりに深かった。

 その状況で帝国軍に所属するオーランドが気づかないわけがない。それはシドラスやイリスも同じことだ。


「ああ、そうだ……」


 アスマの懇願に苦笑いを浮かべてから、オーランドは何かを思い出したように、懐から手帳を取り出した。


「ベルさん……耳を……」


 そう言われ、ベルはオーランドの頭の近くで屈む。


 すると、オーランドは何かをベルの耳元で囁いてから、取り出した手帳を押しつけるようにベルに渡した。何を言ったかはベル以外に届かなかったが、その一言を聞いた瞬間、ベルの表情は分かりやすく動揺していた。


「さて……これで心置きなく…逝ける……」

「いや、待って……オーランド!」

「ああ、本当に……あと少しで……自由だったのに…な……」


 その一言を残し、オーランドは一筋の涙を流しながら、ゆっくりと息を止めた。


「オーランド……?オーランド……!?オーランド!?」


 路地にはアスマの悲痛な叫びが響き渡り続けるが、オーランドが再び息を始めることはなかった。



   ☆   ★   ☆   ★



 アスマの要望によって、オーランドの素性は完全に隠され、埋葬されることになった。仕事仲間やグイン、ベネオラを始めとする知人の多くには、事故で亡くなったと伝え、オーランドは多くの人々に見送られた。


 ベルは既に人との別れに慣れていた。慣れ過ぎていたとも言える。これまでに何度も経験してきたことだ。

 オーランドが亡くなっても、他の多くの人々のように悲しむことはできなかった。悲しくないわけではないが、そこまで心を動かせない。もしくは動かないように勝手にセーブしているのかもしれない。


 その一方で、アスマはずっと泣いていた。アスマは王子であり、たまにベルの考えを飛び越えることを平然というが、基本的には少年である。

 まだ人との別れを多く経験していないはずだ。親しい人との別れを強く感じ入るのだろう。


 その姿を見ていたら、ベルはこれまでに失ったものの多さに改めて気づかされ、そのことの方に強い悲しみを覚えた。


 やはり、自分は化け物だ。強くそう思ってしまう。


 オーランドとの別れを済ませても、アスマはまだ落ちつかない様子だった。ベルは何か声をかけようと思ったが、今のアスマにかけられるだけの言葉が思い浮かばなかった。


 全く何も思い浮かばなかったわけではないのだが、今のベルにそれを言ってもいいのかと思ったら、そこに少しの躊躇いが生まれてしまい、言えるだけの言葉がなくなってしまったのだ。


 結局、ベルはアスマをイリスに任せて、近くから、ただ見守ることにした。


 ずっと繰り返していたことで、いつの間にか、ベルはここが居場所になってしまったのかもしれない。特にこういう場では、自分が関わるべきではないと強く考えるようになってしまった。


 これも全て、と考えそうになったところで、ベルの隣にシドラスが立った。


「アスマのところに行かないのか?」

「同じ質問を返します」


 シドラスにそう言い返され、ベルは言葉を失う。言い負かされたが、シドラスに勝ち誇る様子はない。


「少しいいですか?」

「私の方にか?アスマじゃなく?」

「最後、オーランドさんに何を言われたのですか?あの手帳は?」


 そう質問されたことにベルは戸惑い、一瞬、身体を強張らせた。少し迷ってから、懐に仕舞い込んでいた手帳を取り出し、それを渡しながらオーランドの言った言葉を思い出す。


「この中身はまだ見れていない」

「それは、どうして?」

「少し怖いからだ」


 そう言ってから、ベルは大きく深呼吸をした。その様子にシドラスはゆっくりとベルの言葉を待ってくれる。


「オーランドが最後に言ったことはこうだ」


 そう呟くと同時にベルの頭の中で弱々しいオーランドの声が再生される。


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