獣人の慟哭(2)

 依頼主が帝国であることを知って、全く躊躇いがなかったわけではない。

 自分達の国を滅ぼした相手だ。恨みを覚えることはあっても、恩義を感じることはない。仕事を引き受ける道理はないと言えた。


 ただそれら私怨を持ち込めるほどに、ガルシアの生活に余裕があるわけではなかった。


 獣人であるガルシアはどの街に行っても異物にしかならない。客として迎え入れられることはあっても、仲間として歓迎されることは皆無だ。

 街から街へと移ろう生活に安定はない。最も獣人に抵抗のないエアリエル王国にいても、ガルシアの生活を潤すほどの仕事は存在しなかった。


 そこに投げ込まれたものが帝国からの依頼だった。それを断れば、ガルシアはいつまでも困窮した生活の中で息苦しさに喘ぐばかりだ。

 ここから脱却するには、そこに恨みが存在しても帝国からの依頼を受けるしかない。


 難しい仕事ではない。帝国という依頼主の正体に目を瞑れば、全てがガルシアにとって美味しい話だ。

 そう思ったから、ガルシアは仕事を引き受けた。そう思ってしまったから、引き受けてしまった。


 突きつけられた死亡宣告を前にして、ガルシアはそこまでの流れを思い出し、ようやく後悔した。自身の立場を奪った相手が誰であるのか分かっていたのなら、その相手が自身の立場を作ってくれるなど、馬鹿げた話にも程があると気づくべきだった。


 昔の自分なら気づいていたかもしれない。軍人の頃の自分なら、胸の内で燦然と輝く誇りが話の旨さに疑問を懐かせ、断るという道も選べただろう。


 だが、ガルシアの目は曇ってしまった。困窮と孤独が胸の内に巣食って、そこにあったはずの誇りを失わせ、正しい判断を下す目すらも消し去った。


 これで今の生活から脱却できると思っていたのだから笑い種だ。才のない奴に与えられる水はない。

 それら当然の事実に今更気づいて、湧いてきた後悔に押し潰されそうになる一方で、突きつけられた死亡宣告を受け取れないガルシアもいた。


 困窮しても、孤独になっても、居場所が作れずとも、誇りを失おうとも、ガルシアは生きるために帝国からの仕事を引き受けて、この王都までやってきたのだ。


 もう役目は終わった。後は消えるだけだと無言の裡に言い渡されても、それを容易く了承するほどにガルシアは物分かりの良い性格ではない。

 まだ生きたいと思う気持ちがあるのなら、ここから抗うこともできるだろう。その必要が自分にはある。


 そう思ったガルシアは目の前に現れた黒い人物に向かって、手に持っていた荷物を投げつけた。

 証拠となる剣は全て置いてきた。まとめた荷物は逃げるために最低限必要なものだ。真面な武器は入っていない。


 ただそれら自体に重さはある。荷物自体を投げられれば、多少は面食らうだろう。

 その隙に逃げ出す。荷物を投げつけながら、ガルシアは路地の中で反転し、黒い人物から逃げるように走り出そうとした。


 しかし、黒い人物はその動きが読めていたように、さっと身を屈めて投げられた荷物を躱した。そのまま荷物の下を潜り込むように、ガルシアの近くに走ってくる。

 獣人としての巨体を有し、優れた膂力を持つガルシアだが、その速度は巨体故に遅い。黒い人物の素早い動きから逃れることは不可能だった。


 気づいた時には、ガルシアの背後に黒い人物が迫り、ガルシアの用意した剣の一本を構えていた。逃げるために走りながら、背後を確認していたガルシアが黒い人物の接近に気づいて、それに対応するために再び身を翻そうとする。


 その直後、黒い人物の剣が振り抜かれ、ガルシアの腕を斬りつけた。恐らく、背中を一気に斬りつける一太刀だったと思うのだが、振り返ったことでガルシアの体勢が僅かに崩れ、剣の狙いから逸れたようだ。

 振り返ると同時に振った右腕を斬られたが、それでも、背中に致命傷となり得る深い傷を作るよりはマシだった。


 ガルシアは右腕の痛みに顔を歪めながら、黒い人物の更なる接近を拒絶するように、足を思いっ切り振り上げる。

 黒い人物の脇腹を狙った蹴りだったが、黒い人物はガルシアよりも、かなり速い動きでその一撃を容易く躱し、ガルシアとの間に距離を作った。


 再び踏み込んでくるまで、黒い人物の間合いから逃れたガルシアは、そこまでの痛みを押し潰すように右腕を押さえる。

 狙いが逸れた結果の一撃とはいえ、黒い人物が本気で振り抜いた一撃には違いない。右腕に入った傷はかなり深く、動かすことは難しそうだった。


 荷物を手放した今、ガルシアは黒い人物と向き合うために、自らの肉体を用いるしかない。

 その肉体も右腕は使い物にならない。戦うにしても、逃げるにしても、状況は圧倒的に不利だ。


 当然、ガルシアには獣人として優れた膂力がある。並の人間なら、それだけで十分な脅威だ。武器を持っていなくても、黒い人物を押し返す力自体はある。


 だが、そこで問題となるのが黒い人物の身軽さだ。ガルシアの一撃の重さに振った動きでは捉え切れない動きで黒い人物は動き、こちらが有効な一撃を生み出す前に剣で切り倒されることは目に見えていた。


 背を向けて走り出すことは自殺行為だ。それで逃げ切れるのなら、その手前の問題は存在しない。


 生き残る未来はないように思えるが、それはガルシアの度量次第と言えた。手段がないのではなく、手段をどこまで見出だすかが問題である。


 そして、生きるという未来を掴み取るためには、そこに制限をかけてはいけないことも、ガルシアは理解していた。


 右腕を負傷したガルシアを前にしても、黒い人物は先に動き出すことを避けているようだった。ガルシアの一撃が黒い人物にとっても致命的であることに変わりはない。下手に動き出して、攻撃を食らう隙を作りたくはないのだろう。


 ガルシアの緩慢にも思える動きを先に見て、それに対応することで自分が負ける可能性を消し去る。絶対にガルシアを始末するという意思の籠った判断だ。


 黒い装いで素性を隠している目の前の人物だが、その正体についてガルシアは当然、見当がついている。そこまでの判断が下せることも当然、分かっていることだ。


 目の前は死地だと分かっているが、こちらから飛び込まないと状況は動き出さない。

 そう分かっているからガルシアは汗を掻いた。観察するように黒い人物を眺めてから、ガルシアは自身の動きを頭の中でシミュレートする。


 右腕の痛みは既に気にならなかった。気にする余裕がなかったと言えるのかもしれない。傷は深くて腕は動かせないが、今すぐに死ぬほどの出血量ではない。重りをぶら下げているという認識に変えれば、それ以外に集中できた。


 そして、ガルシアは湧き出てきた覚悟に押されるように、ゆっくりと足を動かした。歩みとも言えない、足の底を擦るような動きだ。動き出す前の予兆と捉えることもできる。


 その動きを感知し、黒い人物が強く剣を握った直後、ガルシアは一気に踏み込んだ。黒い人物がどこまで考えていたのかは分からない。


 だが、武器を持たないガルシアが一気に攻め込んでくるイメージは湧かなかったはずだ。荷物を投げ捨てたガルシアから対応が違い過ぎる。


 それ故に黒い人物の動き出しは僅かに遅れた。


 ただし、本当に僅かな遅れだ。常人であれば確認できない程の差だったかもしれない。

 それくらいの差で黒い人物は迫ったガルシアの拳を避けるように動いて、潜り込んだ懐からガルシアの急所を斬りつけようとした。


 だが、その差こそがガルシアの狙いだった。黒い人物の攻撃はガルシアの攻撃を躱し、生じた隙を衝くものだ。ガルシアがどれだけ対応しようと動きを速めても、身体構造上対応できない場所から、急所を狙った一撃が飛んでくる。

 それは正に必殺の一撃だ。ガルシアは命を差し出すしかない。


 ただし、それは完全な対応だった場合の話だ。少しでも判断が遅れれば、ガルシアにも追いつける可能性が生まれる。


 当然、黒い人物を攻撃できるほどの隙はない。剣を取り上げる術はない。迫った剣がガルシアの身体にぶつかる未来を変えられるとは思えない。


 ただ少しでも反応が間に合えば、そこに干渉することは可能だった。

 懐から振り抜かれた剣を確認し、生じた僅かな遅れに乗じて、ガルシアは身体を少しだけだが左に振った。その程度の動きでは剣の軌道から逃れることはできない。


 だが、剣との隙間に右腕を挟み込むことには成功した。


 振り抜かれた黒い人物の剣がガルシアの右腕を切り飛ばし、ガルシアは襲った痛みに顔を歪めながら歯を食い縛る。

 右腕は犠牲となったが、既に動かなかった腕だ。急所を斬られて、一撃の内に倒されるよりはマシであり、その盾を作り出すことで手に入る猶予もあった。


 瞬間、ガルシアは剣を振り抜いた黒い人物を見やる。


 急所を狙った一撃だ。当然、大振りであるのに対して、その攻撃は右腕に邪魔され、ガルシアの急所に届かなかった。

 そこには決定的な隙が生まれる。


 その隙を狙って、ガルシアが握った左拳を大きく振るった。

 その一撃は剣を振り抜いて、大胆に晒された黒い人物の胴体を確かに打ち抜いた。

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