獣人の慟哭(3)
獣人の特徴とも言える巨体から生み出されるパワーは個人の鍛錬に依存しない。
仮にその獣人が全くトレーニングを行っていなくても、生み出されるパワーは鍛え抜いた常人に匹敵するほどだ。
理論上、その壁を撤廃する武器という存在がなければ、近接戦闘で獣人に勝てる相手は亜人以外に存在しない。数という有利さですら、一人二人の違いは誤差にしかならない。用意するなら、一人に十人は必要だろう。
獣人の生み出す力はそれほどまでに凄まじいと聞けば、その拳で殴られたらどうなるのか、経験がなくても想像できるものだ。
当たり所が悪ければ、という前提条件は必要なく、大半は正面から受け止めれば死に直結するだろう。当たり所が良ければ、怪我で済むこともあるかもしれないが、重傷であることに違いはない。
一撃で死に絶えるか、二発目まで生き延びるかの違いだ。獣人に殴られるという状況を作り出した瞬間、常人に待っているものは死だ。
その警戒心を常人が持つように、そこに対する絶対的な自信を獣人側も持っていた。追い込まれたガルシアが己の肉体を信じ、そこに全てを賭ける気持ちになれたのは、その自信が所以だ。
黒い人物がどのように鍛えたにしても、かつて軍人として活躍したガルシアの拳を正面から受ければ、助かることはまずあり得ない。
拳さえ、叩き込めれば勝てる。状況を打破できる。命が助かる。
ガルシアは目の前の希望に縋って、その希望を手繰り寄せるために拳を打ち抜いた。
そして、ガルシアの拳は確かに隙だらけとなった黒い人物を襲った。右腕を犠牲にしてまで作った時間で、左拳を黒い人物に叩き込むことができた。
そう思えれば良かった。黒い人物の身体に左拳がぶつかって、その腹部を打ち抜く際に、ガルシアは左拳に伝わる感触を確かめて、振り抜いた体勢のまま表情を曇らせた。
右腕を失ったからではない。痛みに襲われているからではない。
ガルシアの左拳には本来あるべき感触がなかった。
黒い人物の肉体に触れたという実感だ。それが完璧に欠如し、ガルシアは悟った。
ガルシアの左拳が通過した部分に肉体はない、と。
幽霊であるとか、服が独りでに動いているとか、そういう話ではない。ガルシアが振り抜いた左拳を受ける前に、黒い人物はまとった服の内側で体勢を逸らし、ガルシアの拳を回避したのだ。
本当にギリギリと言える時間だろう。それでも、対応が間に合った。
その理由の一つにガルシアは気づいていた。振り抜いた左拳を覆うように、今もそこには痛みが残っている。
痛みの原因は黒い人物が身にまとう黒い布の内側だ。そこには術式が描かれていて、そこから投げナイフが飛び出してくる。
ガルシアの拳が服に触れる直前、そのナイフがガルシアの拳を襲った。射出される投げナイフに押されるだけでなく、痛みによって入る力も抜けていく。
ガルシアの拳は自然と速度を落とし、黒い人物に避けるだけの隙を作り出してしまった。
それだけではない。理由はもう一つあった。
ただし、ガルシアはその理由に気づいていない。理由の一端でも、ガルシアは気づけるチャンスがあったが、目の前の絶望に迫られ、今にも襲ってくる死を突きつけられ、そちらに意識を向けてしまったガルシアには気づけなかった。
その理由がガルシアの右腕を切り落とした剣だ。ガルシアはそれを一瞥し、それが自身の準備した剣だと思い込んでいるが、それはガルシアの準備した剣と僅かに違う。
物自体はガルシアの用意した物だ。見た目から違いを判別できないために、ガルシアが気づけないことも当然だが、その剣には秘密があった。
それが仕込まれた魔術の存在だ。王城で戦ったライトがそうだったように、剣には対象の感覚を鈍くする魔術が仕込まれ、ガルシアはガルシアが気づかない内に動きを遅くさせられていた。
ガルシアの頭の中で思い描く左拳よりも、実際にガルシアが振る左拳の方が魔術の影響で僅かに遅く、そこに投げナイフが加わって、明確な遅延を生み出した。
その時間が黒い人物に隙を埋めることを許可し、ガルシアの振り抜いた左拳を避ける結果に繋がった。
万事休す。ガルシアは蘇った死に絶望し、左拳を盛大に空振りしたまま、表情を強張らせていた。
その隙を狙って一太刀を叩き込む余裕はあっただろう。右腕を斬った黒い人物がそうだったように、左拳を振るったガルシアは隙だらけだったはずだ。
しかし、黒い人物はガルシアを斬りつけることなく、ガルシアから距離を取るように、懐から抜け出ていった。
止めを刺す絶好の機会だ。それを見す見す逃すのかと普段なら思うところかもしれないが、今のガルシアに喜ぶだけの気力はなかった。
右腕は失い、血は流れ、魔術の影響で気づかない内に重さを背負っている状態だ。考えようにも頭は考えをまとめる気がなく、ガルシアはぼうっと絶望を見つめることしかできない。
その様子を見れば、黒い人物が距離を離したことも当然と思えた。無理にガルシアを狙って、再び隙を晒すくらいなら、弱り切ったガルシアの首元に剣を押し当てる方が楽で、何より安全だ。
状況は一変した。既にガルシアの勝機はなく、黒い人物が圧倒的に有利な立場に立った今、ガルシアの決死の一撃を食らう覚悟を背負ってまで深追いする理由はない。
そもそも、ガルシアにはそれだけの策も気力もないのだが、そこは推し量れるところではないだろう。
偶然の結果だが、黒い人物の安定を取った行動はガルシアの絶望を濃くする結果も引き寄せた。
黒い人物が自身から離れた位置に立って、そこで体勢を整えてから剣を構える姿を目にし、ガルシアはゆっくりと膝をついた。
諦めたというよりも、ガルシアの獣人故の巨体を支えるだけの力が入らなかった。血を失い過ぎた上に、魔術の影響も重なって、ガルシアは意識を保つだけで精一杯だ。
いっそのこと、ここで意識を失ってしまえば楽なのかもしれない。恐怖を感じる暇もなく、殺されることは報いに対する死として幸せなことかもしれない。
本来、帝国は憎むべき相手だった。ガルシア達の祖国を滅ぼし、今の状況を作り出した元凶だ。
そこに縋ってまで、自身の立場を作ろうとした報いなら、ここで受け入れるしかないのか。
そう考えること数秒、ガルシアは即座に否定した。
帝国に縋ってまで、ガルシアは生きようとしたのだ。それだけ大切に手を伸ばし続けた生を無条件で手放すつもりはない。
生きたい。何があっても生き永らえたい。ガルシアは渇望し、死を拒絶するために顔を上げようと思った。
しかし、身体は言うことを聞いてくれなかった。膝をついた重みのまま、ゆっくりとガルシアはその場に倒れ込み、いつの間にか、地面に頬を擦りつけていた。
近づく足音に目を向ければ、黒い布がガルシアのすぐ傍に立っている。さながら、死神のようだ。
自分に死を与える存在。それを目にしても、ガルシアはここで死んで堪るかと抵抗しようとした。左手を動かし、黒い人物の足を掴まえようとするが、そこまで左手は言うことを聞いてくれない。
僅かに動いたところで自分の身体の一部ではなくなったように重くなって、左腕は音を立てて地面に落ちた。右腕と違って繋がっているはずなのに、そこから少しも左腕は動いてくれない。
黒い人物が僅かに動いたことが気配で分かった。何をするかは考えなくても分かるし、考えたくもない。
ガルシアは最期の力を振り絞って、悔しさを表すように歯を食い縛った。黒い人物への悪態をつきながら、ここで死ぬことを全力で呪った。
そして、ガルシアに止めの一撃が振り下ろされる。その時だった。
ガルシアの耳に聞き覚えのある音が届いた。その音を意識していなかったガルシアは最初、それが何の音なのか分からなかったが、二度目が聞こえれば分かった。
それは音ではなく、声だった。
「ガルシア!」
それはガルシアが拒絶し、もう逢うつもりはないと思っていた、かつての友の声だ。
そのことに気づいた直後、ガルシアに覆い被さるように影が移動してきて、倒れ込むガルシアの頭上で甲高い金属音が鳴り響いた。
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