絶望の剣(6)

 倒れ込んだイリスの頭上で剣を構え、ウォルフガングはイリスに止めを刺すとイリスは思った。無防備に晒された首筋は剣を握れるなら、子供でも切り落とせるだろう。イリスの命はなくなったに等しい。


 だが、イリスが覚悟を決めても、ウォルフガングの剣が落ちてくることは一向になかった。


 イリスが僅かに首を動かし、近くに立ち尽くすウォルフガングを見上げると、ウォルフガングは途端にイリスから興味を失ったように、王城のある方角を眺めていた。


「どうして、止めを刺さないの……?」


 イリスが地面に顔を押しつけながら、震えるように唇を動かして声を発すると、ウォルフガングの視線がようやくイリスに戻ってきた。


「今の様子を見ていたら分かる。お前はしばらく真面に動けない。わざわざお前を斬って、剣を汚す必要はない。お前にできることはない」


 その言葉の通り、ウォルフガングはイリスに止めを刺すことなく、その場で剣を仕舞っていた。再びイリスから興味を失ったように視線を王城に戻している。


「頃合いか……」


 小さく呟いたかと思うと、ウォルフガングはそのまま本当にイリスを始末することなく、王城の方に歩き出してしまう。


 少しでも、その姿を止めようとイリスは必死になって叫んだが、ウォルフガングは一切の反応を見せることなく、イリスの目の前から消えてしまった。


 次第にイリスは声を上げる力も失い、ひたすらにウォルフガングの去った方角を見つめることになる。

 立ち上がるどころか、起き上がることも、助けを呼ぶこともできないまま、イリスは悔しさに歯を噛み締めて、視界をじんわりと滲ませていた。


 手も足も出なかった。イリスの力量ではウォルフガングの相手にならなかった。エルの作った薬を飲めば、少しは届くと思ったのに、それすらも錯覚だった。


 ウォルフガングはイリスの届かない領域にいて、今のイリスでは何をしても勝てなかった。


 それどころか、ウォルフガングからすれば、イリスは殺す価値もないほどの矮小な存在でしかなかったようだ。今の無様な姿がそれを証明している。


 アスマの騎士となったことで、イリスは自分がどこかで強い存在だと思い込んでいた。アスマの元を離れて、しばらく遠方に研修に出たことで更に成長したと誤解していた。

 本当は何一つ足りず、騎士として取るに足らない存在であったのに、イリスは自分が騎士として一人前であると思い込んでいた。


 その結果が今の姿だ。イリスはウォルフガングを止めることも、気づいた真実を王城に伝えることもできず、帝国がこれから起こすであろう行動の全てを地べたで待つしかなくなった。

 ブラゴから与えられた内通者の特定という仕事ですら、イリスは結果を出せていない。


 イリスは何一つとして、王国の役に立てていない。


 自分は一体何なのだ。何がしたくて、この場所にいたのだろうか。何ができて、この場所にいたのだろうか。自分がいることで、他の誰か優秀な人が動く可能性を潰しただけではないのか。


 地面に身体を伏したまま、イリスは力の入らない腕を王城に伸ばし、ぽろぽろと両目から涙を零していた。泣くことしかできない。本当に自分は無力だ。


 グインの無実を証明することもできなかった。このままだとグインは処刑されるかもしれない。そうなったら、ベネオラは一人ぼっちになってしまう。

 それが分かっているのにイリスは止めることができない。


 どれだけ身体が重くても、頭は考えることをやめなかった。自分だけが止められたかもしれないことの数々を思い出し、自分の無力さを再認識し、イリスは悔しさと悲しみをひたすらに噛み締めていた。


 考えても意味はない。そう分かっていても考えるしかない。自分が何もできなかった無力さを考えることすらやめたら、本当にイリスは無価値になる。


 そうして考え続けて、イリスの思考は次第に今の自分にできることはないのか、という方向に転がり始めていた。


 幸いにも、イリスは止めを刺されなかった。今のイリスには殺す価値すらないからだ。


 だが、死んでいなければ何かできるかもしれない。身体はほとんど動かないが、その状態でも何かできることはないのかと考え、イリスは僅かに首を動かした。


 そこで地面に転がる小瓶を発見した。


 ふとイリスはさっき薬を飲んだ感覚を思い出した。全身に熱が広がったかと思うと、何でもできる万能感に満たされ、イリスの身体は軽やかに動き出した。


 あの感覚がもう一度戻るなら、イリスは今の状況からも動けるかもしれない。


 そう思ったのも束の間、イリスはすぐにエルの言っていたことを思い出す。


「一度の使用は二滴に押さえて、使ったら二十四時間の休憩を入れてね。二滴は同時に使える限度数だけど、一滴使ってから数分後にもう一滴、みたいな使い方はできないから気をつけて。一滴使ったら、次の使用までは二十四時間空けること。これが守れないと、ちょっと危ないかもね」


 その言葉を思い出し、小瓶に伸ばしかけた手を止める。


 ちょっと危ないとエルは表現していたが、わざわざ忠告するくらいだ。本当のところはどうなるか分からないのだろう。


 数時間動けなくなる程度なら、マシなところかもしれない。場合によっては死に至る危険性も、二度と真面に動けなくなる危険性も考えられる。


 薬の効果が発揮されてから、その副作用が現れるなら、まだ良い方だ。二滴目を服用した段階で、薬の効果が発揮することなく、死に至る危険性すら存在している。


 普通に考えて、ここで二滴目を飲むことは避けた方がいい。イリスの理性がそう答えを出した。


 だが、イリスに残された手段は既に枯れ果てていた。ここで薬を飲まなければ、このまま地に伏せ続けて、全てが終わる時まで待つしかない。


 全てが無事に終わるだろうか。無事に終わったとして、今のイリスは誇れるだろうか。

 自分の無力さに打ちひしがれ、絶望するくらいなら、ここで死ぬことと変わらないようにも思える。


 薬を飲んで死んでも、このまま地に伏せていても、同じく無力でしかないなら、少しでも結果を出せるかもしれない未来を選ぶべきだ。


 その先に死が待っていたとしても、イリスはきっとその方が誇れるだろう。

 アスマの騎士として胸を張った最期を迎えることができるだろう。


 イリスは理性が生み出した迷いを振り切って、再び小瓶に手を伸ばした。いつもなら、少し身を乗り出せば取れる距離だが、今のイリスにはその距離がとても遠かった。


 少しずつ、ゆっくりと身体を転がし、小瓶に近づいていきながら、数ミリでも長くなるように、必死になって指先を伸ばす。


 やがて、指先が小瓶に触れても、小瓶を手に取るにはまだ遠く、イリスは更に身体を動かす必要があった。


 もう指は触れているのに、小瓶を手に取ることもできない。そのもどかしさと戦いながら、イリスは身体を動かし、ようやく指先に小瓶を搦めることに成功する。


 そのまま、鉤爪のように指を曲げて、小瓶を手元に引き摺ってから、イリスはようやく小瓶を手に取った。


 その小瓶の栓を開けて、さっき飲んだ薬の臭いを嗅いだ瞬間、イリスの頭の中に様々な人の顔が過っていく。


 アスマやシドラス、ベルを始めとする王城で出逢った人々に、ベネオラやグイン、それに両親の顔まで過って、イリスは一瞬、躊躇いを覚えた。


 もしも、これを飲んだら、その人達にはもう逢えないかもしれない。そう思ったら、僅かに指先が震え始める。


 死ぬことは怖い。当然のことだが、その恐怖は既にさっき乗り越えたはずだ。ウォルフガングに止めを刺されるかもしれない時に、イリスはもう死ぬことを考えていた。


 再びその恐怖が目の前に現れたからといって、それでどうなろうか。イリスは死ぬ以上の恐怖を役立たずというレッテルの中に感じてしまったのだ。それと比べたら、死の恐怖など大したものではない。


 イリスは恐怖を振り払い、小瓶を口元で傾けようとした。


 その時のことだ。不意に地面が揺れ、イリスの弱々しい手から小瓶が転がり落ちた。

 うまく小瓶を握ることもできない自分の腕に苛立ちを覚えながら、イリスは何による震動かと顔を上げようとする。


 そこで声が届いた。


「あれ?イリスじゃない?」


 その声を聞いた瞬間、イリスは辺りの時間が止まったように感じた。転がる小瓶の音も、王都に広がる日常の音も、全てが消え去り、イリスは自分の身体を襲う倦怠感を忘れたように顔を上げた。


「こんなところでどうしたの?大丈夫?」


 そこで心配そうに手を伸ばす人物を発見し、止めたはずの涙が再び溢れ出した。


殿……!」


 イリスが堪え切れない喜びを声に出したことで、そこに立つは心配と困惑に満ちた表情を浮かべていた。

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