絶望の剣(5)

「これはね。筋力増強剤みたいなものだね。身体能力を一時的に向上させる薬」


 エルの声が頭の中に響いた。イリスの手元にある物は、その時に説明された薬の入った小瓶だ。


 思い返せば、あの時、イリスはポケットにこの小瓶を仕舞った。そのまま一日を過ごし、気づいた時には小瓶の存在を忘れていたようだ。


 今の今まで小瓶はポケットの中で眠り続け、今になってようやく姿を現した。

 イリスは直感的にこれを運命だと感じた。


「一滴で一分、二滴で三分は持つから」


 頭の中で説明を続けるエルの言葉を聞きながら、イリスは手に握った小瓶を口元に運んでいた。

 その間もエルの説明は止まることなく続いていく。


「それが過ぎたら、猛烈な倦怠感に襲われて、しばらく動けなくなるから、もし使うとしたら、誰かと一緒にいる時にしてね。単独で戦う時とかは推奨してないから」


 その言葉がイリスの頭の中を過ったが、既にイリスに手を止める選択はなかった。


 ここで寝転んでいても、イリスがウォルフガングに殺される未来は変わらない。少しでも、その未来に抗うことができるとしたら、この効果の分からない薬に頼るしかない。


 大丈夫。エルの用意した物だから、きっと言っていた効果は発揮してくれるはずだ。

 問題はその効果の内にイリスがウォルフガングを倒せるかどうかだが、それを考える余裕はなかった。


 イリスは口元で小瓶を傾けて、中の薬を一滴、自分の舌の上に垂らした。何とも言えない苦みが口の中に広がって、イリスは思わず顔を顰める。


 もう一滴、本当なら薬を垂らしたいところだが、接近するウォルフガングの気配に時間がないことは分かっていた。

 思いっ切り傾ければ、二滴どころか一気に口の中に流れ込むだろうが、そうなった時に身体が無事かは分からない。戦う前に死ぬことがあれば本末転倒だ。


 ここは一滴で耐えるしかない。イリスがそう思い、口の中に広がる薬をごくりと飲み込んだ直後、イリスは胸の内に広がる温もりを感じた。


 胸の内に火を点したように温もりは次第に熱へと変わっていき、イリスは熱くなった胸を押さえるように服を掴む。

 身体中の血液が無理矢理に押し出され、急速に全身を循環する感覚だけが残り、イリスは寝転んだまま、目を見開き、荒い呼吸を繰り返し始めた。


「何だ?」


 流石にその様子に不穏さを覚えたのか、こちらに近づいてくるところだったウォルフガングが立ち止まり、警戒するようにイリスを覗き込んできた。手に持っていた剣を伸ばし、切っ先でイリスの様子を窺おうとしてくる。


 その前でイリスは急速に広がった熱が落ちつき、身体に不自然なほどの力を感じていた。さっきまでとは全く違う、軽やかさすら覚える力の漲り方だ。

 ウォルフガングの蹴りが原因でイリスを襲っていた痛みも消え、イリスは近くに転がった剣に目を向けた。その剣に手を伸ばそうかと思ったところで、イリスは自身に迫る切っ先を見やる。


 それは騎士としての防衛本能なのか、イリスはその切っ先を見た瞬間、思わず身体を起こし、ウォルフガングから離れるように飛び起きていた。転がっていた剣を拾いながら、ウォルフガングの前で体勢を整える。


 その動きが明らかにさっきまでとは違い、目に見えて軽やかな身のこなしだったこともあってか、警戒するように距離を取っていたウォルフガングは少し目を見開いて、イリスを見ていた。


「何をした……?」


 明らかに不審なイリスの様子にウォルフガングは質問してくるが、イリスに答える義理はない。


 それどころか、イリスには答える時間もない。

 エルは一滴の効果が一分だと言っていた。その制限時間内に、イリスはウォルフガングを倒す必要がある。


 イリスはウォルフガングをまっすぐに見据えて、剣を構えた。


 瞬間、イリスはウォルフガングとの距離を詰めるように踏み込んでいた。さっきまでとは違う速度に、流石のウォルフガングも対応が遅れたようで、イリスが懐に入ることを許してくれる。


「…ニィ……!?」


 僅かに口元から驚きの声を漏らしながら、ウォルフガングは目の前で剣を構えた。懐に入ると同時にイリスの振るった剣がぶつかり、甲高い金属音を辺りに響かせる。


 さっきまではイリスの剣がウォルフガングに届く気配はなかった。ウォルフガングの一撃が重く、イリスはそれを往なすことで精一杯だったからだ。

 僅かに剣を作る隙を作っても、ウォルフガングはそれを容易く受け止めて、イリスを撥ね退けてきた。


 だが、今の一撃は違っていた。イリスの剣を受け止めたウォルフガングの身体は僅かに後退し、剣と剣がぶつかった振動は確実にウォルフガングの腕に届いていた。


「重ィ……!?」


 震える剣を押さえながら、僅かに後退したウォルフガングが動揺したように小さく呟く。

 急なイリスの変化に判断が鈍っていることは明白だった。その隙を逃さないように、イリスは更に距離を詰めて、ウォルフガングに剣を振るい始める。


 今のイリスの力なら、ウォルフガングの剣を受け止めることも難しくはないように思えた。

 ただイリスに与えられた時間は短い。防戦に回った時にどれだけの時間が消費されるかは分からない。


 ウォルフガングに攻撃する隙を与えることなく、イリスはウォルフガングを仕留める必要がある。

 一瞬の隙も生み出さないように攻撃を重ね続け、ウォルフガングはそれを剣で受け止めることが精一杯のように見えた。


 もう少し。あと少しでウォルフガングに剣が届く。そのように考えながら、イリスはウォルフガングを更に押していく。

 イリスの剣を受け止めながら後退するウォルフガングを追いかけることで、次第にイリスはウォルフガングとの間に開いた間合いを埋めつつあった。


 隙を作らない手数だけでなく、このまま距離を詰め切って、再びウォルフガングの懐に潜り込めれば、次は振り抜いた一撃でウォルフガングを仕留めることができる。

 その瞬間を虎視眈々と狙いながら、イリスは何度も剣を振り続けて、ウォルフガングに目で見える以上のダメージを与えていた。


 そして、その時は不意に訪れた。


 ウォルフガングがイリスの攻撃を受け止めるために刀を上げようとした瞬間、何かに押しつけられたようにその腕を途中で止めた。ウォルフガングは僅かに眉を顰めて、その腕を見やっているが、イリスとしては想定通りだ。


 どれだけウォルフガングでも、薬の効果で力の強くなったイリスの攻撃を受け止め続けて、腕が無事であるわけがない。

 蓄積されたダメージは着実に腕の奪っていき、ようやく今になって、ウォルフガングの腕が音を上げた。


 この時を待っていた。イリスはウォルフガングが剣を上げ切る前に、懐に潜り込んで剣を構えた。

 この瞬間こそがイリスに残されたウォルフガングに勝つ唯一の道だ。


 懐で剣を構え、自身に向かって振り上げるイリスを見下ろし、ウォルフガングが僅かに目つきを鋭くする。

 今更睨みつけても既に遅い。イリスはその視線に勝利を確信しながら、剣を勢い良く振り上げた。


 瞬間、イリスは目の前で宙を舞う煌めきを目撃した。日の光が反射して、キラキラと輝く光景だ。


 何に光が反射しているのか。イリスは考えるまでもなく分かった。ゆっくりと顔を青褪めさせてから、イリスは自身の手元に目を向ける。


 そこには握られていたはずの剣が消えていた。


 代わりにイリスの背後で何かが地面に落ちる音がする。振り返るまでもなく、それが何かは分かる。


 だ。


「考えるまでもなく分かることだ」


 イリスの目の前でウォルフガングが冷たい声を漏らす。さっきまでの動揺は嘘だったのかと思うほどに、ウォルフガングはイリスを甚振っていた時と同じ振る舞いをしていた。


「相手の腕にダメージを与えるほどの衝撃が自分の腕には残らないと何故、思った?」


 さっきウォルフガングは剣を上げようとして、その剣の重さに耐えかねるように腕を止めた。

 その段階でダメージに気づいたのか、その前から気づいていたのかは分からないが、ウォルフガングは剣を上げるという判断を即座に捨て去った。


 剣を握ることをやめて、咄嗟に上げた手を伸ばし、ウォルフガングはイリスの腕を叩きつけた。

 その衝撃にイリスの腕は耐えられなかったようだ。剣を握る力が綺麗に吹き飛び、イリスの手から剣は消えていた。


「何をしたかは分からないが、惜しかったな」


 そのようにウォルフガングが声をかけた直後、イリスは唐突な重さに襲われ、その場に崩れ落ちた。ウォルフガングが何をしたわけでもない。


 これはだ。


 終わった。イリスが悔しさと共にその思いを懐きながら、地面に身体を伏していく。

 その光景を見下ろすウォルフガングの視線は剣のように鋭く、冷たいものだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る