絶望の剣(4)

 元からイリスとウォルフガングの間には、男女の違いによって生じる埋めようのない体格差が存在した。

 それに加えて、ウォルフガングの踏み込みは鋭く、イリスの懐に入り込むものだった。


 その状態から振るわれる剣は重く、イリスは振り上げた剣で受け止めることも許されず、ただ往なすことが精一杯だった。

 それも完璧な対処ではない。剣の軌道を変え、その剣から逃れるように身を翻す必要があって、イリスは攻撃と呼べるだけの行動に移れない。


 それどころか、受け止めることを諦めて、往なすことに全力を注いでも、ウォルフガングの重過ぎる剣は着実なダメージをイリスの腕に与えてきていた。


 防戦一方。それも長引く必要もなく、底の見える浅いものだ。

 これ以上の攻撃は望まないとイリスは逃げるように距離を開け、ウォルフガングの間合いから一度、退いた。


 それでも、ウォルフガングの踏み込みから完全に逃れる距離まで逃げることはできなかった。それ以上を逃げるには、ウォルフガングの意識を他に移動させる必要がある。

 そうしないと逃げている途中に追いつかれ、イリスは背後から切り倒されることだろう。


 少しだけだが作ることに成功した距離を守りながら、イリスは少し先に立つウォルフガングを見据える。


 そこで初めて、ウォルフガングの手に持つ剣を見たのだが、その剣はイリスも見た覚えのある物だった。


「その剣は……!?」


 思わず口にしたイリスの声に反応し、ウォルフガングの視線が手元の剣に移動する。


 この時に逃げられればいいのだが、ウォルフガングは剣に視線を向けながらも、意識はイリスから外していない。逃げれば途中で斬られ、襲いかかれば迎撃されるだろう。


「ああ、気づいたか」


 ウォルフガングの声が低く、這うように発せられた。


 ウォルフガングの手に持つ剣はマゼランやフォークを襲った剣と同じ物だった。それはイリスも確認したから間違いない。


「その剣を持っているということはやはり、貴方が二人を襲ったのですか?」


 その問いにウォルフガングが答えるとは思っていなかった。ただ少しでも時間を稼ぎ、ウォルフガングの隙を見つけ出さないと生き延びられない。

 その思いからイリスは質問したつもりだったのだが、意外にもウォルフガングは素直に口を開いた。


「いいや、俺ではない」


 自分ではない。半分は否定しているが、半分は肯定している返答だ。


 二人を襲った人物はウォルフガングではない。

 だが、帝国の人間ではある。


 ラインハルトやジークフリードが動くとは思えないので、オスカーともう一人の軍人のどちらか、もしくは両方が犯人と考えるべきだろう。


 そこまで教えてくれるとは思っていなかったとイリスは思ってから、ウォルフガングがそれを素直に教えた理由に気づいて、背筋を襲う寒気を覚えた。


 端的に言ってしまえば、ウォルフガングはここで隠す必要がないと考えたのだ。それは剣を見られたからではなく、イリスにここで話しても、イリスにはどうすることもできないからだ。


 イリスは真実を王城に伝える暇もなく、ここでウォルフガングに消されるからだ。


 ウォルフガングの明確な殺意を感じ取り、イリスは少しウォルフガングから離れるように足を動かしながら、次のウォルフガングの動きを見ようとしたが、既に遅かった。


 恐怖に囚われた思考や動きでは、ウォルフガングの動きに対応することは難しかった。

 開いていたはずの距離を一瞬の内に詰められ、イリスはウォルフガングの構えた剣に、考える暇もなく剣を構えることを強要される。


 最初の一撃は受け止めようとした。できるなら、ウォルフガングを消耗させたい。

 だが、それは敵わなかった。イリスの剣はウォルフガングの剣を一瞬受け止めたが、すぐに腕ごと引かれるように剣は地に落ちていた。


 イリスの身体はウォルフガングの前に無防備に晒された。次の一撃に対応できるか、その状態からは怪しい状況だ。


 斬り殺される。ウォルフガングの冷たい眼光に恐怖を覚えた直後、イリスは腹部に鈍い痛みを覚えていた。


 気づいたら、ウォルフガングの足がイリスの腹に突き刺さっていた。


「ぁあっ……!?ぁがっ……!?」


 イリスの身体から呼吸という概念が吹き飛び、イリスは苦しみと猛烈な痛みに襲われながら、その場に膝から崩れ落ちる。

 攻撃を受けたという事実の確認以外の思考ができないまま、イリスは自分の眼前に迫るウォルフガングの爪先をただ見つめていた。


 次の瞬間、イリスはボールのように軽やかにウォルフガングに蹴飛ばされていた。跳ね上がった頭に引かれるように、イリスの身体は後方に吹き飛び、無様に地面に倒れ込む。


 腹部を襲った鈍い痛みと、顔中に張りついた鋭い痛みに襲われ、イリスは揺れる視界の中、理解できない状況に頭を混乱させていた。


 恐らく、ウォルフガングはイリスの隙を見咎めて、剣で斬ることを考えたはずだ。

 だが、イリスの体勢は確実に斬れるかどうか怪しいものだった。もしかしたら、躱されるかもしれないと考えるくらいの隙だ。


 それでも相手が自身と同じか、それ以上の力量なら、仕留められる瞬間に仕留める必要がある。ウォルフガングは剣を振るっていただろう。

 それをしなかったのは、イリスがウォルフガングにとって苦戦する相手ではなかったからだ。


 ここで斬らなくても、次の隙に斬れば問題ない。その思いから、ウォルフガングは確実にイリスの動きを止められる手段を選び、それが剣を構えるよりも速い蹴りだった。


 イリスは朦朧とした頭のまま身体を起こし、自身に迫るウォルフガングを見据えた。ウォルフガングはゆっくりとイリスに迫りながら、手に持っていた剣を構えている。


 ウォルフガングが自身を蹴り飛ばした理由まで、イリスの朦朧とした頭では辿りついていなかったが、自身に迫る死はその光景を見ただけで理解できた。


 ウォルフガングのさっきの言葉から、帝国の関与は確定的だ。マゼランを襲った犯人も、帝国軍人の中にいることが分かった。

 それは即ち、帝国軍人が王城にいる現状がこの国にとって、非常に危険であることを表している。


 イリスはそれを王城に伝えないといけない。

 そうしなければ王城で何が起きるのか分かったものではない。


 イリスは視界も定まらない中、近くに落ちた剣を拾い上げ、ウォルフガングの前でゆっくりと立ち上がった。


「下手に動くな。狙いが逸れる」


 立ち上がったイリスを面倒そうに見ながら、ウォルフガングはイリスに剣を向けてくる。

 その剣を払いのけるように、イリスは手に持っていた剣を構えて振るったが、ウォルフガングは子供と遊ぶように剣を動かし、イリスの剣を透かした。


 それだけのことだったが、イリスは体勢を崩して、ウォルフガングの前によろけてしまう。さっきの蹴りのダメージがあって、うまく踏み込めなかったようだ。


 そこを狙って、ウォルフガングは足を上げて、イリスを再び蹴り飛ばした。イリスの身体は軽く宙を舞い、道路を転がるように吹き飛ぶ。


 道路に寝転んだまま、蹴り飛ばされた腹を押さえながら、イリスは必死になって空気を吸おうとした。ただ呼吸を繰り返しているだけなのに、今も腹を蹴られているように痛みが襲ってくる。


 ウォルフガングにとって、既にイリスは戦う相手ではなく、始末する獲物でしかなかった。確実に殺せるように弱らせ、一撃で仕留める。それだけに狙いを定めた攻撃だ。


 イリスはエアリエル王国の騎士だ。その騎士を愚弄する戦い方にイリスは憤りすら覚えていた。


 だが、その気持ちの反面、イリスはウォルフガングとの間に越えられない壁を感じ始めている。

 どう足掻いても、ウォルフガングには勝てない。そう思わせるだけの強さがウォルフガングにはあった。


 それでも、ここで倒れるわけにはいかない。イリスが気づいたことを伝えなければ、この強さが無防備な王国を襲うことになる。


 その一心だけでイリスは立ち上がろうと身を起こし、再びその場に倒れ込んだ。

 もう既に起き上がるだけの力がイリスには出せなかった。ただ殺されるだけと分かっているのに、その場に倒れ込むことしかできない。


 アスマを守る騎士として何とも情けない姿だ。イリスは悔しさを噛み締め、目に涙を浮かべていた。滲む視界に移るものは地面と、それを掴むことしかできない自分の手だ。


 その光景が最期に見る景色かと、イリスが死を受け入れるようなことを思った直後、イリスの耳の中にカタンと何かが落ちる音が響いた。

 その音だけなら、イリスは気のせいかと思って、特に気に留めることもなく、ウォルフガングに斬られていたことだろう。


 だが、この時、イリスは痛みに襲われた身体に何かが触れる感触を同時に覚えて、何かがそこにあると分かった。


 ゆっくりと頭を動かして、音の聞こえた方に目を向ける。滲む視界の中で見えるのはイリスの身体だ。


 その中に異物を発見し、イリスはその異物に手を伸ばした。


 それが何なのか、イリスは忘れ切っていたのだが、その異物に触れた瞬間、イリスは王都に帰ってきた翌日のことを思い出した。


 イリスは内通者を探すという使命を与えられ、王城を移動する中で、中庭にエルの姿を発見した。エルは強烈な臭いを撒き散らしていて、それが理由でイリスはエルに声をかけていた。


 その時のことを頭に思い浮かべながら、イリスはそこにある異物を拾って、顔の近くに持ってきた。滲む視界だが、その距離まで持ってくれば、それが何であるのか良く分かる。


 。それもだった。

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