帝国の使者(5)
王城の廊下で衝突しかけた相手がヴィンセントであると分かり、イリスはしばらく唖然としていた。ギルバートとタリアを発見し、歩き出そうとしたところではあるが、イリスは決して急いでいたわけではない。どちらかというと、これから急ごうとしていたところだ。
そこに飛び込んできたヴィンセントは何とか咄嗟に躱せるくらいの速度で、明らかに王城の中を移動する速度ではなかった。
自身に向かって手を立てながら、謝罪の言葉を口にするヴィンセントをしばらく見つめ、ようやくイリスの脳が処理を終えたところで、イリスはヴィンセントに詰め寄る。
「急に飛び出してきたら危ないじゃないですか!?」
「いやいや、だから、ごめんって。ちょっと急いでたんだよ」
「何をそんなに急ぐ必要があるんですか?トイレですか?」
「俺自身の名誉に関わるから言っておくけど、トイレじゃないからね?第一、そういう時は急いでいるけど、本気で走れないからね。本気で走ったら、もう本気で走る必要がなくなるから」
「いや、そんな解説はいりませんよ」
トイレでないことくらいは分かり切っている。言われるまでもない、と思いながら、イリスはそれなら何であるのかと疑問に思った。王城内を全力で急ぐ必要のある用事など、他にも騒ぐ人がいて不思議ではないことのはずだ。それくらいでしか騎士であるヴィンセントが急ぐ必要はない。
「あ、ていうか、もう話してる余裕がないから急ぐね」
「そんなに急いでるんですか?」
「ああ、うん。あ、それとさ。できれば、俺のことは忘れてね。覚えていても辛いだけだぜ」
「何言ってるんですか?」
全力で蔑みの目を向けるイリスに見送られ、ヴィンセントが再び走り出した。
結局、何をそんなに急いでいたのか理由も分からないままに行ってしまったとイリスは思いつつも、今はギルバートとタリアに話を聞くことが先決なので、ヴィンセントのことは言われるままに忘れて、さっき見たギルバートとタリアのいる方向に歩き出そうとする。
その直前、今度は曲がり角から緩やかに人が飛び出し、イリスの肩を掴んできた。
「わっ!?ビックリした……」
「おっと失礼」
急に肩を掴まれたことに驚き、思わず声を上げてしまったが、掴んできた相手を確認し、イリスは落ちついた気持ちになった。
「マゼランさんですか」
マゼランはイリスと同じく騎士の一人であり、騎士の中ではヴィンセントに次いで年齢の高い人物だ。ヴィンセントと同じく国王、アステラに仕えている騎士ではあるのだが、ヴィンセントと違って性格は非常に真面目で、基本的にイリスも信頼している。
そのマゼランがヴィンセントほどではないが、急いでいる様子だったので、イリスはほっと落ちついてから疑問に思った。
「お急ぎですか?」
「ええ、実はウルカヌス王国にセリスとシドラスが向かったことで、その仕事が他の騎士に回っていてね。私もその仕事があるんだが、同じく仕事が回ってきたはずの人が逃げ出してしまってね」
セリスとシドラスの仕事が他の騎士に回ってきた。その説明を聞いただけで、イリスは何となくマゼランが急いでいた理由を察することができた。
「もしかして、その人ってヴィンセントさんですか?」
「良く分かったね」
驚いた顔を見せるマゼランの返答を聞き、イリスは思わず頭を抱えた。いい年をした大人が王城を全力で急いでいるなど、何かあったのかと少しは思ったが、まさか、これほどまでにつまらない理由だとは思いたくなかった。
「もしかして、逢った?」
「ええ、さっき。向こうに走っていきましたよ」
イリスはヴィンセントが立ち去った方向を教えながら、立ち去る直前にヴィンセントが言っていた言葉を思い出す。
「俺のことは忘れてね」
あの台詞はつまり、マゼランと逢うことがあっても、自分と逢ったことは黙っておいてくれということらしい。もちろん、それを律義に守る理由も、つもりもないが。
マゼランはイリスに礼を言い、ヴィンセントを追いかけて、再び王城の中を走り出していた。全力疾走と言えるヴィンセントと違って、マゼランはあくまで事故が起こらない程度の速度だ。そこに人間性の違いを見て、更に悲しくなる。
「あ、というか……」
ヴィンセントとマゼランの競争を見る時間はなく、今はギルバートとタリアを追いかけないといけない。
そう思ってイリスは駆け足で走り出したのだが、既に通用門の付近から二人の姿は消え、どこに向かったのかも分からない状態になっていた。
その光景にイリスは頭を抱え、さっき走り去ったヴィンセントの姿を改めて思い出す。
「絶対に忘れない」
恨みの籠った一言が口から漏れた。
☆ ★ ☆ ★
ギルバートとタリアを完全に見失い、諦めようとは思ったものの、どこか諦め切ることができずに、王城の中をひたすらに彷徨っている最中のことだった。
魔術師棟の外を通りがかったイリスは、そこで何か話し込んでいる様子のパロールとラングを発見した。パロールが魔術師棟の窓を指差し、二人は揃って困惑した表情をしている。
「疲れているだけだと思うんですよ。流石にあり得ないので」
「そうは見えなかったけどね。無理をしたらいけないから休んだ方がいいかもしれないね」
近づいたことで聞こえてきた会話に耳を傾けながら、イリスは二人に声をかけることにした。何を話しているのかは分からないが、気になる動きを見せる人がいたら、イリスの抱えた使命的に声をかけるべきだろう。
「どうされたんですか?」
イリスが声をかけたことで、二人はイリスの接近に気づいたらしく、二人は揃ってイリスの顔を見てから、少し驚きを表情に見せた。
「イリスさんですか」
「何かありましたか?」
「いえ、ただの私の見間違えだと思うんですけど」
「見間違え?」
「廊下を誰かが通り過ぎたように見えたんです。ただその先は行き止まりで、あの窓しかないのに誰もいなくて」
そう言いながら、パロールは魔術師棟を見上げて、そこにある一つの窓を指差した。見上げないと見えないくらいの位置にある窓だ。そこから飛び降りることは、少なくとも常人には不可能だ。
「誰かが急いで通ったように見えたんですけどね。疲れが溜まっているみたいです」
苦笑するパロールを見てから、もう一度、魔術師棟を見上げたイリスの頭の中をヴィンセントが横切った。流石のヴィンセントでも、この高さから飛び降りることは不可能のはずだ。ヴィンセントが横切って、飛び降りたと考えるのは現実的ではない。
だが、一つだけ残されている可能性もある。
「ちなみに、パロール様はそれを目撃した後、どうされたんですか?」
「えーと……テレンスさんに書物を返しに行く途中だったので、階段を使って、それから部屋に戻りましたね」
「その廊下はすぐに離れましたか?」
「そうですね。休んだ方がいいのかもしれないと思いながら、割とすぐに」
それなら、とイリスの中で一つの考えが浮かんできた。ヴィンセントとマゼランのやり取りを思い返すと、十分にあり得る可能性だ。
「もしかしたら、それはヴィンセントさんかもしれません」
「ええ?どういうことですか?」
「実はヴィンセントさん、いろいろと仕事が割り振られたそうなんですけど、その仕事の多さから逃げていたみたいで、マゼランさんに追われていたんですよ」
パロールとラングは苦笑するイリスを驚いた顔で見てから、イリスに引っ張られるように苦笑いを浮かべていた。
「だから多分、マゼランさんから逃げて魔術師棟に行ったんですけど、パロール様に逢いそうになったから、咄嗟に窓の外に逃げたんだと思います。飛び降りることは無理でも、しばらく外で掴まっておくことならできるので」
「そ、んなことできますかね?」
「ヴィンセントさんならできますし、やると思いますよ」
都合の悪いことからは全力で逃げるのがヴィンセントだ。結果的に必要以上の労力を使っていても、逃げるためにそれくらいのことはやりかねない。
「だから、パロール様が疲れているわけではないと思いますよ。ですが、思い当たる節があるのであれば、無理はなさらないように気をつけてください」
イリスが少し心配しながら伝えると、パロールは優しく微笑んでから、軽く頭を下げてきた。
「ありがとうございます。見間違えじゃなかったら、と考えたら少し不安だったので、正体が分かったら安心しました」
「ヴィンセントさんには私からも言っておきますね。人に迷惑をかけないようにって」
ギルバートとタリアの件もある。自分にも言う権利はあるはずだと思いながら、イリスが二人に伝えると、二人は朗らかに笑っていた。
その笑みを見ながら、ふとイリスは思い出し、再び問題の窓を見上げた。その窓に向かった人影は一つ。ヴィンセントがぶら下がって、パロールから逃れたと考えると、一定の納得はできる。
だが、そうなるといくつかの疑問が生じた。
まず、ヴィンセントが魔術師棟に踏み込んだ理由だ。いくら逃げるためとはいえ、魔術師棟まで逃げ込むだろうか。全くないわけではないが、考えづらいことではある。
次にパロールの目撃した影が一つだけである点だ。ヴィンセントはマゼランに追われていた。目撃した影自体が二つあるか、目撃した影が一つだけでも、マゼランと遭遇しておかしくはないはずだ。
それがなかったとなると、魔術師棟にヴィンセントが踏み込んだ時、マゼランはついていなかったことになる。
もしかして、ヴィンセントではないのだろうか。だが、王城内を走る人間など、ヴィンセント以外にいるだろうか。
イリスは湧いてきた疑問に首を傾げ、魔術師棟に戻るパロールとラングを見送った。引っかかることではあるが、窓の高さ的に飛び降りることは無理なはずだ。窓から誰かが逃げたとは考えづらい。
これ以上、あまり考え過ぎる話でもないだろう。イリスはそう思うことにして、再び王城の中を彷徨うことにした。
もちろん、目的はギルバートとタリアだが、残念なことに二人をその後、目撃することはなく、イリスの一日は特に進展のないまま、ゆっくりと終わっていったのだった。
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