歪んだ殺意(2)

「ところで、ユリウスの遺品に関して、私に話したいこととは何ですか?」


 近づいてくるリリィの気配を感じながら、疑問を口にしたソフィアはゆっくりと顔を上げた。ユリウスに関して本心を言ってしまい、少し気まずさはあったが、顔も見ないで会話を続けるのは失礼だとソフィアは思った。近くに立ったリリィをソフィアは見上げる。


 そこでナイフを掲げるリリィに気づいた。ソフィアは一瞬で表情を強張らせ、何も言い出せないまま、とにかく転がるようにソファーから離れた。床にソフィアが倒れ込んだ直後、ソフィアがさっきまで座っていた場所に、リリィの握ったナイフが振り下ろされる。


「リリィ…?何をするのですか…?」


 恐怖で締まった喉から、ソフィアは何とか声を出した。ソフィアの声は少しの物音で掻き消されそうなほどにか細く、その声を聞いたリリィは目を見開いている。


「貴女が悪いのですよ?貴女が全部…全部…貴女がいなければ、お兄様も…!」


 そう声に出しながら、リリィはゆっくりとソフィアに近づいてきた。ソフィアは魔術を使って追い払おうかとも考えるが、ソフィアとリリィの距離はあまりに近く、ソフィアの魔術では間に合いそうにない。仮に間に合っても、ソフィアまで巻き込まれる可能性がある距離だ。


「大人しく死んでください」


 そう呟きながら、リリィは再びナイフを構えていた。どれだけの鈍感でも、リリィがソフィアに懐いている感情は分かる。リリィは明確な殺意をソフィアに懐いている。その理由は分からないが、リリィはソフィアを殺したくて仕方ないはずだ。

 ソフィアが何かを言っても、止まるものではない。それが分かり、ソフィアはギュッと目を瞑った。


 その瞬間、自然とハムレットの顔が浮かんできた。ハムレットとの約束は途中までうまく行っていたのだが、それも中途半端に終わってしまった。ノーラやリエルの本心が分かり、マリアの思っていたことを一端だけだが知れて、それで油断していたのかもしれない。

 自分に向けられる凶刃。その恐怖を今更ながらに思い出し、ソフィアは後悔した。誰かを信用するべきではなかった。リリィを部屋に招き入れるべきではなかった。


 そう考えてしまった直後、思い浮かんでいたハムレットが否定するようにかぶりを振った。そうではないと言いたそうな表情と、優しく微笑みかけてくれる笑顔を思い出し、ソフィアはまた自分が同じ考えに至ろうとしていたことに気づく。


 他国に逃げ出し、人を殺すことを生業としてまで、ソフィアは生きたいと思ったのだ。ほんの少しの間違いで諦める理由にはならない。

 それに助からないと決まったわけではない。少なくとも、今のソフィアには助かるための方法が分かっているはずだ。


 咄嗟にソフィアは目を開き、こちらに振り下ろされたリリィの腕を掴んだ。ソフィアにナイフがぶつかる前に、リリィの腕を止める。

 その行動にリリィは苛立ったのか、表情を厳しくしながら、もう片方の手で伸しかかるようにナイフを強く押しつけてくる。このままだとソフィアは長く耐えられない。


 それでも、ソフィアは焦らなかった。ゆっくりと空気を吸って、ちゃんと自分が言わなければいけないことを叫ぶ。


「助けて!」

「うるさい!」


 ソフィアが叫んだ言葉を掻き消すようにリリィが叫んだ。床に背中をつけながら、ナイフを押しつけてくるリリィを押し返そうとするが、そこにはリリィの体重も加わっているので、ソフィアだけの力で押し返せるはずもない。


 このままだと本当に押し通されて、刺されてしまう。そう思ったソフィアがリリィに負けそうになった瞬間、部屋の扉が勢い良く開いた。


「殿下!」


 そう叫びながら、部屋の中に飛び込んできたのはマリアだった。マリアはすぐに床に倒れたソフィアと、そのソフィアにナイフを押しつけるリリィに気づいたようで、こちらに駆け寄ってきてくれる。


「殿下に何をしているのですか!?」


 珍しく、そのように叫びながら、マリアがリリィの腕を掴んだ。マリアが引っ張る力も加わり、ソフィアは何とかリリィを押し返すことに成功する。そこから、後退る形でソフィアはリリィから離れ、マリアはリリィのもう片方の腕を取ろうとしていた。


「貴女は一体、何を…」


 そう聞きながら、マリアがリリィの片腕に手を伸ばした瞬間、リリィの怒りに満ちた鋭い視線がマリアに向き、リリィは聞いたことのない声で叫んだ。


「邪魔をしないで!」


 リリィがマリアの手を振り解くようにナイフを振り、マリアは咄嗟に後ろに下がっていた。そこでマリアは表情を歪ませながら、自分の腕を手で押さえている。その手の下から流れ落ちる赤い跡に、ソフィアは思わず顔を強張らせた。


「マリア…?怪我を…?」

「殿下はお逃げください!」

「いや、でも…」

「お願いします!殿下!」


 必死に叫ぶマリアの姿に、ソフィアは迷いながらも立ち上がっていた。リリィから逃れるために、ソファーを迂回しながら、ソフィアは扉の方に走り出そうとする。


「逃がさない!」


 リリィがソフィアを追いかけようとするが、それを阻むためにマリアがリリィを掴んだ。その行動にリリィは苛立ったように顔を顰めながら、マリアをソファーに向かって突き飛ばす。


「邪魔よ!」


 リリィの力は腕を怪我したマリアでは耐えられないほどに強かったようで、マリアはソファーに倒れ込んでいた。


「マリア!?」


 その様子にソフィアは思わず立ち止まっていた。ノーラの時もそうだったが、自分を守るために誰かが傷つく姿をどうしてもソフィアは受け入れられない。それが本人の望んだ行為の結果だとしても、簡単に見捨てられない。


 その気持ちが災いしたらしく、ソフィアが立ち止まった隙に、リリィが走り出していた。マリアが咄嗟に立ち上がり、リリィを止めようとしていたが、リリィはそれよりも速く、ソフィアに向かってくる。ここで背を向けて、ソフィアが部屋の外に逃げ出そうとしても、この速さではソフィアの背中にナイフが刺さるだけだ。

 やってしまったとソフィアが気づいた時には遅く、リリィはナイフをソフィアに突き出そうとしてきた。


 その寸前、ソフィアは部屋の外から聞こえてくる音に気づいた。そこでソフィアは逃げ出すことを諦めて、咄嗟に身を屈める。


「殿下!?」


 マリアが思わず叫んでいた。


「死になさい!」


 リリィが叫びながら、ナイフを突き出した。


 その直後、身を屈めたソフィアの後ろから声が聞こえた。


「殿下!」


 その叫び声と共に部屋の中に飛び込んできたガイウスが、ナイフを突き出したリリィに飛びかかった。リリィはすぐに抵抗しようとしていたが、騎士であるガイウスに敵うはずがない。すぐに手からナイフが奪われ、その場に拘束されていた。


「王女殿下!ご無事ですか!?」


 その声が聞こえ、ソフィアが振り返ると、そこにはシドラスが立っていた。遅れてノエルやセリスもやってきて、焦りの見える表情で部屋の中を見回している。


「マリア…」


 すぐにそう口に出したソフィアは立ち上がり、マリアの元に駆け寄っていた。ガイウス達が来たことで、緊張から解放されたのか、マリアはソファーに座り込んでいた。腕をナイフで切られたようだが、傷自体は浅いようで、出血量もあまり多くはない。


「大丈夫!?」


 そう声をかけたソフィアに、マリアはゆっくりと顔を上げ、安堵した様子でソフィアを見てきた。


「殿下がご無事で良かったです…」


 そう呟いたマリアはとても珍しく、微笑んでいた。その笑顔に同じようにホッとしたソフィアが崩れ落ち、マリアに同じように笑顔を返す。


 その光景をシドラス達も安堵したように眺めていたが、その中でガイウスに拘束されたリリィだけは怒りに満ちた表情で、ずっと何かを呟いていた。

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