虚繭の王子(1)
目の前で光るナイフを見た時点では、ソフィアには術式を展開し、魔術によって迎撃する道もあった。ただ、魔術によって身を守るためには、最低でも術式を二枚重ねた二式魔術を使わなければいけない。二枚の術式を、目の前で振りかざされたナイフよりも速く、自分の掌の中で展開することはソフィアにはできず、ソフィアは早々にその考えを捨て、逃げることを選んだ。
それが功を奏したのか、最初の一撃は間一髪、ソフィアを掠める程度で躱すことができた。黒い外套の下の顔は見えないが、そこから微かに舌打ちの声が聞こえてくる。その舌打ちが、その人物の殺意を表しているようで、ソフィアは背筋が凍りそうになるほどの恐怖を覚えた。
それに今の攻撃を躱すために、ソフィアは体勢を崩してしまっていた。このままの体勢で次の攻撃を避けることは難しい。またナイフを振られたら、今度は食らってしまう。ソフィアが怯えて顔を上げた目の前で、外套の人物がナイフを掲げた。
選べる道は二つだった。一式でもいいから、適当な魔術を発動し、目の前の人物の殺意に抵抗するか、その殺意を正面から受け止め、もうこの命はないものと諦めるか。ソフィアはその選択を迫られ、咄嗟に手を伸ばした。自分はまだ死にたくない。その思いから、何が何でも抗おうと手の中に術式を作り出そうとした。
その瞬間、その音は聞こえた。ソフィアの耳よりも先に、外套の人物が音に気づいたようで、ナイフを掲げたまま、ソフィアから目を離した。その動きに釣られるように、ソフィアが顔を横に向けた瞬間、大きく広げられた服が視界の半分以上を覆った。
その服はそのまま、外套の人物に覆い被さり、その服の向こうから、アスマ達が顔を出した。どうやら、シドラスが羽織っていた服を一枚脱ぎ、それを外套の人物のナイフを奪うために用いたようだ。咄嗟に外套の人物はソフィアから離れ、その服に絡み取られる前に逃れることに成功しているが、この状況ではソフィアを狙えない。
「大丈夫!?」
アスマの一言に呆然としたまま頷くソフィアを見ながら、その外套の人物は再び舌打ちをして、シドラスに背中を向けた。シドラスは王城に入る際に剣を預けたままのはずだ。いくらナイフでも素手で戦うことは危険と判断したのか、王城の中で不用意に争いごとを起こしたくないと思ったのか、それ以上に追いかけることはせず、振り返ってソフィアを見てきた。その間にソフィアはアスマとベルの手を借り、ゆっくりと立ち上がる。
「どうして、ここに?」
ソフィアはそれが不思議で堪らなかった。ソフィアが襲撃されてから、まだ数秒しか経っていない。音を聞きつけて駆けつけられる時間ではない上に、それほどの音も立っていないはずだ。不思議そうにソフィアがアスマとベルを見ると、ベルが少し苦笑しながら答えてくれる。
「流石にあれだけ何かある雰囲気を出されると、話を聞かないわけにもいかないだろう?」
「絶対に話を聞いた方がいいって思って、後をつけてたんだよ」
朗らかに笑うアスマの言葉を聞き、ソフィアは自分がそこまで分かりやすかったのかと驚いた。あまり意識はしていなかったが、切羽詰まっていたことは確かだ。自分の振る舞いについて、細かく注意していたかと言われると、していたと自信を持って答えられるものではない。
しかし、三人が駆けつけてくれて本当に良かったとソフィアがホッとしていると、シドラスが自分を真剣な表情で見ていることに気づいた。その緊迫した表情にソフィアは言葉を詰まらせた。ともすれば、怒っているのかと思うほどの表情に、ソフィアは若干の恐怖すら覚える。
「事情を説明していただけますか?」
シドラスの全うな問いに、ソフィアはゆっくりと頷いた。
「誰にも聞かれたくないから、部屋に戻って話してもいい?」
ソフィアが少し言いづらそうに聞くと、シドラスは頷き、アスマとベルは不思議そうに顔を見合わせていた。その姿にソフィアは少しだけホッとする自分を感じた。
☆ ★ ☆ ★
ソフィアがウルカヌス王国を出る前のことである。王女であるソフィアは王城で、王族としての生活を過ごしていた。それはエアリエル王国でのアスマと同じく、自分の品格や教養を高めるための時間が大半であり、時には辛いことも多かったが、自分の立場を理解していたソフィアはそれから逃げ出そうとは一度も思ったことがなかった。
しかし、その時は少し前にソフィアにとって辛く悲しい出来事があったこともあって、初めてソフィアは約束されたことから逃げ出してしまった。とはいえ、王城の外に出ることは難しい。ソフィアは王城の中で、誰も通らない場所を探し、そこでひっそりと一人で泣いていた。
それから、どれくらいの時間が経ったのだろうか。気づいた時には、王城内が少しずつ騒がしくなり始めていた。王女であるソフィアが、現れる時間に現れないとなると、問題になることは分かり切っている。普段のソフィアなら、それくらいのことは考えるまでもなく分かったことだが、この時のソフィアはそこまで頭が回っていなかった。周囲の騒がしさと同時に、その事実に気づき、慌ててソフィアは戻ろうと思った。
そこでソフィアと鉢合わせた相手が、黒い外套を見にまとった人物だった。その正体は分からない。分かることはその人物が普通ではないことだ。外套自体には見覚えがあったが、その外套をソフィアの前で着ることに意味はない。普段着として着ることも、その外套に限っては考えづらい。
この人物は何かとソフィアが考えながら、本能的に警戒した時になって、外套の人物が外套の下から手を出した。そこに光るナイフが握られていることに、ソフィアはすぐに気づいた。
反射的にソフィアは手を出し、二枚の術式を掌の中で重ね合わせた。複雑な模様が、より複雑な模様を作り出した瞬間、その模様から小さな矢のような炎が飛び出す。全部で三本の炎の矢が外套の人物に目がけて飛んでいくが、それらの炎の矢は外套の人物の外套に触れた瞬間、霧を払うように消え去った。
外套の人物は止まることなく、ソフィアに向かって突き進んでくる。その手に光るナイフがソフィアの視界を横切り、ソフィアは殺されると反射的に思った。
その瞬間、近くから足音が聞こえ、外套の人物の動きが止まった。ゆっくりと足音の聞こえた方に目を向けてから、何かを思い出したように踵を返し、その場から立ち去ってしまう。残されたのは、何が起きたか理解できないソフィア自身と、その心を支配した恐怖心だけだった。
☆ ★ ☆ ★
「それから、通りがかったメイドに発見されたことで、私は助かったと実感したのだけれど、同時にこのまま王国にいると、また命を狙われると思って、この国を出ることにしたの」
ソフィアがウルカヌス王国を出た理由を説明し終えた直後、ベルとシドラスは同時に手を上げていた。発言権を求める挙手だが、その発言したい内容は同じだとすぐに分かり、ベルはシドラスに発言権を譲る。
「王女殿下の命が狙われ、この国を出ることになった部分の繋がりを理解できなかったのですが、考えが飛躍していませんか?」
「私も思った。普通なら、王国に残って助けを求めるだろう?王城で命を狙われたのなら、王城に出入りしているものの犯行だし、王国としてもそのような人物を王城に入れたくはないはずだ」
「それは誰が私の命を狙ったか分からない場合の話よね?」
「分かっているのですか?」
「分かっているから、私はこの国を出たの」
チンプンカンプンで理解できませんと表情で語るアスマの隣で、ベルとシドラスは話がきな臭い方向に進み始めたと警戒していた。もしかしたら、自分達は厄介な話に巻き込まれたのではないかと考えるが、その危惧も既に遅いかもしれない。
「あの外套を覚えている?」
「王女殿下を襲撃した人物が来ていた外套ですか?」
ソフィアが頷き、シドラスは頷き返す。ベルも黒い外套に関しては良く覚えていた。全体的に縫い目の見当たらない一枚の布で作られたような外套で、故郷で親友が服に関する仕事についていたことから、ある程度の知識はあるベルでも、素材の良く分からない特殊な外套に見えた。
「あれはね。
「防魔服?」
聞いたことのない名前にベルが聞き返すと、隣でアスマも同じように繰り返し、首を傾げた。その反応にソフィアが呆れた顔を見せる。
「何で魔王なのに知らないのよ?」
「え?関係あるの?」
「防魔服は
そう言われても、アスマは不思議そうに首を傾げるばかりで、ソフィアは目を大きく見開いて、ただただ驚いていた。軽く目を向けられたシドラスがかぶりを振り、更に目が大きく開かれている。
「けど、その服がどうしたんだ?」
「その服を王国で持っているのは限られているの…」
そう呟いたと同時にソフィアが俯き、緊張したように唾を飲み込む音が聞こえる。ベルとシドラスがつい顔を見合わせた直後、口を開いたソフィアが怪しい確認をしてくる。
「次に言ったことを聞いても、すぐに逃げないって約束してくれる?」
「逃げないとは?」
「お願い…約束して…」
震えたソフィアの声にベルとシドラスが返答に困っていると、さっきまで何も分かりませんと表情で語っていたアスマが、急に真面目なキリッとした顔をして、ベルやシドラスの言葉を待たずに口を開いた。
「約束するよ」
「ちょっと殿下」
「怯えてる子がいるのに、それを突き放せないよ」
アスマの言葉は正論であるが、立場的な問題もあるので、軽々しい約束は避けてもらいたい。その二つの思いから言葉に迷い、シドラスは唇を震わせていた。言いたいことが言葉としてまとまらないようだ。
その間に俯いていたソフィアが顔を上げ、ゆっくりと言い淀んだ事実を告げてきた。
「防魔服を持っているのは、私の兄さんとその関係者だけなの…」
まとまらない言葉に唇を震わせていたシドラスが、その表情のままソフィアに目を向け、まとまった言葉を口に出す。
「兄?」
「そう。この国の王子よ」
ベルとシドラスは反射的に顔を見合わせ、アスマに目を向けた。アスマは驚いた顔をしているが、その表情の緩さから察するに、事態の大きさに気づいていないようだ。
「ちょっと待て!?ソフィアの兄がソフィアを殺そうとするのか!?あり得ないだろう!?」
「そ、そうですよ!何かの間違いでは?」
何とか事態から逃れようと、ベルとシドラスは否定するための材料を見つけ出したが、ソフィアは力なくかぶりを振って、その材料を切り捨てた。
「あり得るの…その理由があるの…」
「その理由とは?」
「それは…私がウルカヌス王国の次期女王になることが決まっているから…」
「次期女王…?」
兄ではなく、妹であるソフィアが王位を継承する。普通の国でも聞いたことのない話であるのに、それが貴族の国と呼ばれるほどに血統主義であるウルカヌス王国で起きているとソフィアは言っている。その信じられなさにシドラスが首を傾げる隣で、ベルはソフィアの言葉そのものを疑っていた。
「いやいや、あり得ないだろう?どんな理由があって、そんなことになるんだ?」
「それは兄さんが
『虚繭?』
ソフィアの呟いた聞き慣れない言葉に、ベルとアスマが声を揃えて聞き返した。
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