22歳(7)

 何も覚えていない。気がついたら、暗闇の中にいた。それがどこなのかも分からない。ただ凄く身体が重たい。その違和感だけが残っている。これは何かと考えようとする。それでも、頭は働かない。どうなった?何がどうなっている?ここはどこ?私は誰だった?頭の中を疑問が埋めつくす。しかし、答えは出てこない。


 不意に意識が飛んだ。押さえつけられたように重たい瞼を持ち上げる。全身は気怠さに包まれ、指一本すら動かせない。


 眠っていた。さっきまで見ていた暗闇は夢かとベルは思った。


 起き上がりたいが身体は言うことを聞いてくれないので、仕方なく、寝転んだまま目だけを動かす。ベルの家ではない知らない場所だが、その光景には見覚えがある。


 思い出そうとして、ベルの頭の中に浮かんできたのはレインの顔だった。

 ああ、そうか。ここは病院だ。そのことを思い出し、ようやくベルは口を動かす。


「…………」


 声を出したつもりだったが、声帯はうまく働いてくれていなかった。誰かを呼びたかったのだが、真面な声も出ていなければ誰も来ない。

 もう一度、声を出そうと試みてみる。もちろん、二度試しても結果は変わらないことは分かっている。実際、結果は変わらなかったが、それでも誰かを呼びたい気持ちが強かった。


 さっきまでの暗闇は夢だと分かっている。分かり切っていることだが、その瞬間に懐いていた絶望的な孤独感を思い出すと、誰かが近くにいて欲しかった。


 一人は嫌だ。テオやルークの顔が見たい。


 そう思った直後、頭の中に割って入ってきた顔にベルは息を詰まらせた。今の今まで、自分が病院で眠っていたことを疑問に思っていなかったが、その原因を考えるべきだった。


 ガゼル。思い出した顔と一緒に浮かんできた名前を口に出そうとして、ベルは口を微かに動かす。もちろん、声は出ることがない。

 ガゼルによってベルは怪我を負わされた。意識は辛うじて残っていたが、到底助かる怪我ではなかった。


 それなら、どうして自分はここで眠っている?その当たり前の疑問が湧いてくるが、答えをベルが知っているはずがない。


 分かることはさっきまで眠っていたこと、その場所が病院であること、病室の中にはベル以外誰もいないこと、これくらいだ。ベルがどうなってその場所にいるのか、ガゼルがどこにいるのか、テオ達は無事なのか、何も分かっていない。


 ベルは無理矢理にでも、起き上がろうとする。指一本すら動かせないほどに力は入らないが、今は何としてでも動かないといけない。ガゼルのことを誰かに伝えないと、取り返しがつかないことになるかもしれない。

 その思いから、ベルは何とか起き上がろうとしたが、身体が微かに揺れるばかりで起き上がることは不可能だった。


 どうして、こういう時に限って、身体は自由に動いてくれないのだろうか、とベルが疑問に思った直後、本来は全身にあるべき痛みが一切ないことに気づいた。


 ベルの記憶が確かなら手足は潰れていたはずだ、と思ってから、声が出なかった当たり前の理由にも行きつく。


 そうだ。喉に穴が開いていた。声が出るはずもない。

 そう思ったベルは空気を吸っていた。それも鼻から、口から、ちゃんと空気を吸えている。


 穴は塞がっている。手足の痛みも消えている。これは何が起きているのだろうか?


 ベルの身体を襲ったはずの悲劇と相反する状況に、ベルの頭は更に混乱し始めていた。


 そこで病室の扉が開く音がした。ベルは顔を上げたいが、頭を持ち上げることもできないので、目だけで扉の方を見る。角度的に厳しいが、人が立っていることは分かる。


 そう思った瞬間、そこから声が聞こえてきた。


「ベル…?」


 それはテオの声だった。その声が聞こえてきたことにベルはほっとし、頬を伝う小さな涙を流していた。


 良かった。テオは無事だった。そう思っていると、テオがベルの近くまで歩いてきて、目を開き、涙を流しているベルを見てきた。その目からはベルと同じような涙が流れている。


「ベル…良かった…本当に良かった…」


 ベルは何かを言おうとして口を開いたが、うまく声には出せなかった。その様子に気づいたテオがベルの手を握り、ぶんぶんとかぶりを振っている。


「無理に話そうとしなくていいよ…あれから、何日も寝たままだったんだ…本当にもう…目覚めないのかと思うほどに……」


 テオがベルの手を強く握ってきた。その感触や温もりがあることにベルはほっとする。


「あの魔術師のガゼルさんがベルの傷の応急処置をしてくれたんだよ、魔術で…そのおかげで、ベルは助かったんだよ…」


 テオがゆっくりと話す言葉を聞きながら、ベルは驚愕していた。


 違う。あれはガゼルが起こした事故だったのだとベルは言いたいが、口がうまく動いてくれない。何とか視線だけでテオに訴えかけようとするが、その視線もあまり伝わっていないようで、テオは不思議そうに見てくる。


「どうしたの…?お礼を言いたいのかな…?それはちょっと無理かもしれない…ガゼルさんはもう村を発ってしまったから…」


 テオのその一言で、さっきのテオの言葉を思い出した。

 何日も寝たままだった。つまり、あれから数日経過しているということだ。そうなると、ガゼルが滞在予定だった三週間は過ぎている可能性が高くなる。


 ガゼルは村を去った。そのことにベルはほっとする一方で、不安にもなってくる。本当に何もしないで去ったのかと疑問が湧いてくるのに、この場所では消す方法がない。


 そういえば、ルークはどうしたのかと思っていると、テオがベルの手を握ったまま、言ってくれた。


「帰ろう。ルークもお義母さんも待っているから」


 その一言が本当に全て無事だったのかとベルに教えてくれ、ベルはようやく少し落ちつくことができていた。


 その後、ベルが声を回復し、少し起き上がれるようになるまで、丸一日が必要だった。



   ☆   ★   ☆   ★



 声を回復したベルは早速、森の中で見たことをテオに話していた。ただガゼルの名前まで出すと、ちゃんと調べてくれないかもしれないと危惧し、ガゼルの名前やベルの事故をガゼルが引き起こしたことは黙っていた。

 ガゼルの悪事は証拠を見つけてから告発する。ベルはそう決めていた。


 しかし、調査に向かった狩人達からの結果はベルの想定外のものだった。


「残念だけど、そこにはそうだよ」

「えっ…!?」


 狩人からの報告を聞いてきたテオがそう教えてくれるが、ベルは信じられなかった。


 だって、実際にベルは森の中で多数の動物の死骸を見たのだ。そこから漂う臭いまで、ベルははっきりと覚えている。それが全てなかったなどあり得ない。


「でも、私は見たんだよ!?」

「ベル。少し落ちつこう。君は長く眠っていたんだ。いろいろと混乱しているんだよ」

「違う…違うよ…そうじゃなくて…!?」

「大丈夫だから。ベルは無事だった。俺もここにいる。もう何も怖いことは起きないから」


 テオが優しく抱き締めてくれて、ベルは何も言えなくなる。


 そうではない。あれは夢などではなく、現実に起きたことだった。あの事故の前に目撃し、伝えようとしていたのだ。

 それどころか、あれは事故ではない。自分は気を失う直前に聞いたガゼルの言葉を覚えている。

 全部確かにあったことだ。そう言ってやりたかったのに、ベルはそう言えなかった。


 実際、ベルが眠っていた時間は長かった。その中で見たと思われる夢の記憶も存在しており、ベル自身ではっきりとしていない瞬間もある。

 あの瞬間に見た動物の死骸について、ベルは自信を持って、見たと言うことができるが、その死骸がなかったと言われると、その自信の方が間違いなのかもしれないと思ってしまっても仕方がない。


 結局、ガゼルの行いをベルは告発することができなかった。既にガゼルが村を去っている以上、そのことに意味があるとも思えない。


 何もかもが無事だったのだから、もう忘れよう。ベルはそう決めて、無事に退院の日を迎えていた。


 これから、また元通りの日々が始まる――――はずだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る