22歳(8)

 死んでもおかしくなかった怪我から回復し、これまで通りのベルの日常が戻っていた。テオもルークもルルもいて、ルナもアルもビクトも無事だった。ガゼルが何かをするかもしれないと恐れていたベルの気持ちに反し、ガゼルは何もすることなく村を発った。

 この時のベルは本気でそう思い、そのことに安堵していた。何も変わることのない日常が何も変わることなくあり続ける喜びを改めて実感した。


 そこからはガゼルが来る前の生活とほとんど同じだった。仕事の場が森から草原に移ったが、テオの狩人の仕事は無事に再開し、ルークもこれまで通り、ビクトのところに遊びに行っている。ガゼルが去ったことで、ビクトの人気は落ちついたそうで、何もなくてもルークはビクトを一人占めしているらしい。そのことを嬉しそうに話すルークの姿に、ベルも嬉しくなる。


 テオの仕事で言うなら、動物の消えた森に再び動物が戻り始めているそうだ。そもそも、いなくなった原因がガゼルであり、そのガゼルがいなくなったことで、動物の数が元に戻るのも当たり前のことだと思うが、ベルはそのことを忘れることにしたので、誰かに話すことはなかった。

 そのこともあってか、森から動物がいなくなった理由と、森の中で見つかった新種の植物の正体については分からないままだった。と言っても、他にも村の中で分かっていないことはあったので、その中に加わっただけで変わったとは言えない。


 とにかく、ベルの日常に繋がる部分に何もなかった。それだけでベルは毎日平和に暮らすことができていた。


 しかし、それら全てはまやかしでしかなかった。


 病院から自宅に帰ってきてから一週間が経過し、今まで通りの生活に戻っていたベルは食事の準備をしている最中だった。テオは狩人の仕事で今日は久しぶりの森に入り、ルークはビクトのところで遊んでいるようだ。寝室にはルルがいて、体調が回復することこそないが、あれから悪化することもなく、元気とは言えないのかもしれないが生活している。

 数種類の野菜を細かく切り、鍋で煮込む。味付けはともかく、手順自体はそれくらいだったので、ベルは特に集中することもなく、考えごとをしながら調理していた。ナイフで野菜を細かく切りながら、最近考えてしまうのはガゼルがベルに何をしたかということだ。


 ガゼルのことを村のみんなに話さないことに決め、ガゼルのことは忘れようと思ったベルだったが、どうしても自分に何をしたのか、という部分だけは気になった。あれだけの傷が治るからには、相応の魔術を使ったはずなのだが、その内容は一切分からなかった。

 ベルを見ていた医者は外傷が綺麗に消えていることの確認しかしておらず、ベルの身体を調べることはしなかったらしい。その必要があるのかと聞かれると、ベルもうなずくことはできないので、それが当たり前の対応だとは思う。


 ただ、唯一ガゼルが手を出したのが自分であると思うと、そこに何かがあるのではないかと考えてしまう自分がいた。そのことをベルはただ考えすぎだと思うのだが、そう思っても消えない疑念はある。

 退院してからの一週間、どうしてもそのことを考えてしまい、意識が散漫する場面があった。


 そして、その時もそうだった。野菜を切りながら、そのことを考えていたベルの手元が微かにぶれた。それは本当に微かであり、野菜の形が少し歪になるくらいのものだったのだが、そこにベルの指があった。


「痛っ…!?」


 ベルは指を少しナイフで切ってしまい、やってしまったと思いながら、まずは血を拭こうと考える。


 その時だった。自分の指にできた傷口が不自然に蠢く様子をベルは目撃した。


(あれ…?何だろう…?)


 そう思いながら、ベルが見ている目の前で、ベルの指にできた傷がどんどん埋まっていく。傷口から溢れた血を押しのけながら、ベルの指の肉が膨らみ、ベルの指にできた


 その一瞬の出来事にベルは言葉を失っていた。何が起きたのか、ベルには分からない。


 ただ指にできた切り傷はなくなり、痛みは綺麗に消えていた。そのことがベルに異常さを伝えてくる。


 不意にベルはガゼルによって負わされた怪我のことを思い出す。あれだけの大怪我が治っていた。たった数日で全快した。その理由はガゼルがベルに何かをしたからだ。


 まさか、と思ったベルはナイフを手に持ち、自分の掌に向けていた。非常に怖いことだが、こうしないと嫌な予感が治まってくれない。


 ベルは数度、深呼吸を繰り返してから、ナイフを自分の掌に突き刺した。猛烈な痛みが掌を襲い、ベルは叫びそうになるが、ルルが心配するからと必死に声を押し殺す。その間にも、突き刺さったナイフと掌の隙間から大量の血液が溢れてきている。


 そう思った直後、ナイフが微かに動き出した。蟻によって動かされる大きな葉のように、掌の上でナイフがひとりでに躍り始める。やがて、ゆっくりと掌から抜け始め、ナイフはテーブルの上にことりと音を立てて転がった。


 そして、それが今まで刺さっていたベルの掌は、血液に塗れている以外、綺麗になっている。そこにできたはずの傷口は綺麗に埋まっていて、と言わんばかりだ。


 その様子にベルは気持ち悪さを覚え、もう片方の手で自分の口を押さえていた。胃の内容物を吐き出しそうになり、必死に気持ちを押さえる。


 何だ。これは何だ。何が起きた。自分はどうなっている。どうして傷が回復した。あれだけの傷が一瞬で塞がった。痛みはどうなった。掌にあったはずの痛みは消えている。これは何が起きた。自分は何をされた。自分の身体はどうなった。

 ベルの頭の中を様々な言葉が飛び交い、ベルの意識はその中に埋もれてしまう。


 分かることは一つだけ。ガゼルは旅立つ前に確かに何かをしていたということだ。テオやルークやルルでもなく、ルナやアルやビクトでもない。ましてや村の誰でもない。

 相手はベルだった。ベルの身体に何かをした。それによってベルはこの異常なまでの回復力を持ったに違いない。


 化け物。その言葉が頭の中に浮かび、ベルは再び気持ち悪さを覚えた。


 これ以上のことをベルは考えられなかった。ただこの時は気持ちを落ちつかせることで精一杯だった。



   ☆   ★   ☆   ★



 その日の夜になり、ルークが眠った後、ベルはテオと二人きりの時間を作れていた。その中で、ベルは昼間にあったことをテオに話そうかと考える。


「あのテオ…」

「どうしたの?」


 自分の身体がおかしくなっていた。自分は化け物になったのかもしれない。そう思っても、それを言葉にすることは難しい。

 何より、ここでテオに化け物と罵られることがあったら、ベルはもう真面に生きていくことができなくなる。


「その…どうだった?久しぶりの森は?」


 気がついたら、誤魔化すようにそう聞いてしまっていた。

 言えなかったと落ち込むベルに反して、テオは嬉しそうに笑っている。


「やっぱり、森はいいよね。木に囲まれている感じが気持ちいいよ」

「そうなんだ…良かったね…」


 次こそ、ちゃんとテオに話す。そう思いながら、ベルが覚悟を決めようとする。

 その時、テオがベルの様子に気がついたようだった。


「どうしたの?何かあった?」


 不意に聞かれ、ベルは盛大に動揺する。


「え!?何が!?」

「何か様子が変だよ?」

「ううん。何もないよ」


 いつもそう答えるように、ベルはつい癖でそう言ってしまっていた。本当はとても大事なことがあったのに、そのことをテオに話せないまま、何もなかったことにしてしまった。

 そのことを後悔するベルの前で、テオは不思議そうな顔をしている。


「本当に?」


 そう聞かれたところで、ベルはここが最後のチャンスだと思った。ここで話さなければ、もう二度と話すことができなくなる。


 そう思って口を開いたベルは、そこで何も言えなくなった。


 きっとテオなら受け入れてくれる。それは分かっている。大丈夫だと言ってくれる。それも分かっている。


 だが、テオに自分が化け物と知られた自分はどう思うのだろうか?そう考えると、ベルは急に言葉が言えなくなった。

 いっそのこと罵られ、テオに拒絶されたら、もう全てに諦めがつく。


 しかし、受け入れられたら、ベルは自分が化け物と思ったまま、自分を化け物と知っているテオと一緒に暮らしていくことになる。それは今までのベルの生活から一変し、ベルの望んでいなかった生活に変わることを意味している。


 もしもここで話さなければ、それらの生活が変わることはない。ガゼルのことと同じようにただ黙っていたら、この生活はずっと続いてくれる。

 その方がいい。そうに決まっている。ベルはそう思ってしまった。


「本当に何でもないよ」


 笑顔で答えるとテオはようやく納得したのか、それ以上聞いてくることがなくなる。

 その様子を見ながら、ベルは自分の身体のことが誰にもバレないように生活しようと心に決める。この生活を自分の手で守るとベルは覚悟した。

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