22歳(6)

 思い返せば、ガゼルがリリパットの村を滞在場所に選んだことは不思議だった。リリパットから商人が行ける距離に、それなりに大きな街はある。わざわざ小人の村を選ばずとも、そこに滞在した方が様々なものを準備しやすいはずだ。


 それなのにリリパットを選んだのは、そこに生息している動物を利用することも考えてのことだった。


 いや、もしかしたら、それだけではないかもしれない。


 何せ、このリリパットという村は、他で見ることのない小人ばかりの村なのだ。何をやったのか詳細は分からないにしても、動物に何かをする人物なら、その小人を同じものとして見ていても不思議ではない。

 この間も、虎視眈々とガゼルは小人を実験道具にしようとしているのかもしれない。


 その思いがあまりに強かったためか、ベルはいつも以上の速度でリリパットの村に戻ってくることができていた。そこで誰に話せば一番いいかを考えて、村長の顔を思い出す。


 村長なら、きっとベルの言葉を分かってくれる。ガゼルの悪事を暴いてくれる。ガゼルを村から追い出してくれるに違いない。

 あと少しで村を出るとか関係がない。一刻も早く、ガゼルを追い出すべきだ。


 ベルは村長の家に行くために、村の中を走り出していた。そのあまりに慌てたベルの姿を見て、驚いた顔をする村人とすれ違うが、その村人達にベルは説明している時間がない。


 そして、それはベルの中で焦りになっていたようだった。いつもなら注意していたことかもしれないのに、その瞬間のベルの視界には入っておらず、ただ村長の家に行くことしか考えていなかった。

 どこで目撃されたのか、そのことを考えても、ベルは恐らく一生分からないと思う。ただ分かることは確実に目撃されていて、その可能性をベルが考えていなかったことだ。


 だから、ベルは何の疑いもなく、村の中を走っていた。薬屋の中で調合されている薬も、店先に陳列された服も、高く積まれた材木も、何も見ることがなく走っていた。


 まさか、その材木が崩れてくるとは夢にも思っていなかった。


 気づいた時には、ベルの視界の端に大きな材木が迫っていた。誰かが叫んでいる気もしたが、それも気の所為だったのかと思うほどの一瞬だ。それらの音も、すぐに別の衝撃音に掻き消された。

 そして、それもあまり聞こえていなかった。ただただ強い衝撃が全身を襲い、気がついた時には空を見上げていた。


 それはとても綺麗な青空だった。こういった青空の日には、森に行くのがいいとベルはぼうっとした頭で思う。

 不思議なことにその青さも、すぐにぼやけ始めていた。耳はようやく音を拾い始めたが、それも右耳だけの話で、左からは一切音が聞こえない。


 左耳はどうしたのだろうかと思い、左腕を動かそうとしたところで、ベルは自分の左腕に伸しかかった重さに気づいた。そのあまりの重さに、何かが乗っているのだろうかと思ってから、そもそも、左腕全体の感覚が乏しいことに気づく。

 指を動かしている。そのつもりだが、その指がどこにあるのかも分からない。


 何が起きているのだろうか。その疑問を懐きながらも、この瞬間のベルは微かな意識を保っていた。


 だから、その声も聞くことができた。


「ベルさん!?」


 そう叫ぶ声に、ベルは漠然と名前を思い出す。


 そうだ。これはだ。



   ☆   ★   ☆   ★



 高く積まれていた材木は村の中の様々な場所に用いられていた。村の建物を作ることもそうだが、小さく切ったものは薪に用いられ、それ以外にも大工の使うものなどの様々な道具に変えられていた。

 その重要性から材木自体は村の様々な場所に保管されていたのだが、それは厳重にロープで縛られ、基本的に崩れることはなかった。

 実際、過去に材木が崩れてきた事例はなく、リリパットの村に住む多くの小人は安心して、その材木の隣を歩いていた。


 だから、その材木が崩れてきたと聞き、村の中を一瞬で騒然としていた。あの材木が崩れることなどないと誰しもが思っていたからだ。


 その事実に唖然とする中で、誰かが声を出し、崩れ落ちた材木の中を指差していた。


「そこに人が倒れているぞ!?」


 その指摘の通り、指の先には一人の小人が倒れていた。背中まで伸びた長い金髪の小人で、材木の中で仰向けになって倒れている。周囲に立っている人の位置によっては正確に見えないこともあったが、その両足と左腕は材木に潰され、辛うじて無事だった右腕も、本来は曲がらない方向に曲がっている。


「ベルさん!?」


 誰かが叫ぶ声に反応し、人々の視線がそちらに移っていた。そこには二週間ほど前から滞在している魔術師が立っている。

 ガゼル。その名前を仮に覚えていなくても、その存在は村の人間なら誰しもが知っているはずだ。


 その人物が材木の中に倒れた小人に駆け寄っていた。その言葉にできないほどの惨状をまじかに見て、周囲に慌てた顔を向けている。


「誰か医者を呼んできてください!?」


 そう叫んだことで、村人の何人かが慌てて走り出していた。


 この段階で呆然としていた多くの村人も正気を取り戻し、ガゼルのところに駆け寄っていく。何はともあれ、この材木を移動させなければ始まらない。

 その思いから、数人の男の小人達で材木を持ち上げていた。


「取り敢えず、手足の上に乗っているものを退けてください。それから、私が応急処置をします」


 そう丁寧に語るガゼルの姿に、村人達はそのようなことまでできるのかと感心していた。

 この時点のベルは間近で見ると、今にも息絶えそうなほどの傷をしているが、それすらも治すことができるのかと、一種の夢のようなものを魔術に見ていた。


「応急処置の間は影響が出るといけないので、ここから離れていてください」


 ガゼルの説明を受け、材木をベルの上から移動させていた数人の村人は、すぐさま周囲の野次馬に交ざるように移動していた。

 それらの視線の先でガゼルは荷物を漁っている。これから、魔術により応急処置が始まるのかと誰しもが固唾を飲んで見守っていた。


 そして、ガゼルはゆっくりと小瓶を取り出していた。その中には赤黒い液体が入っているように見えた。



   ☆   ★   ☆   ★



 腕や足の近くで物音が聞こえた――ような気がする。それくらいの認識だったが、ベルの意識はまだ残っていた。


 ガゼルが何かを言っている。恐らく、近くにいるらしい村人達と話をしているようだ。そう思いながら、ベルは既に思考も吹き飛んだ頭で、ガゼルの危険性だけを思い出す。


「ダメ」


 そう話しているつもりで、ベルは口を動かしているが、何度動かしても、声は喉から出てくれない。微かに息が漏れるだけで声どころか、音すら口からは出てくれない。

 そう思ってから、ベルは漏れている空気が口から出ていないことに気づく。空気は喉から漏れている。


 既にベルは命どころか、意識があることすら不思議な状態になっているようだ。そのことを悟った瞬間、ベルは意識がすっと遠退いていくような感覚を覚えていた。


 このまま意識を失い、自分は死ぬに違いない。そう思ったら、ベルの頭の中でテオやルーク、ルルの姿が思い浮かんでいく。

 できれば、最期に顔を見たかった。できれば、ガゼルから離れるように言いたかった。


 お願いだから、みんなには何もありませんように。心の底からベルが願い、意識を手放そうとする。


 その直前、ガゼルの声が確かに聞こえた。


「さて、


 ぼやけた視界の中で、不意に笑ったガゼルの表情が目に入った。その笑みを見た瞬間、ベルはテオと初めて逢った時に懐いてしまった恐怖を思い出す。


 本物だ。今度は本物の狂人だ。

 そう思った直後、ガゼルが小瓶を手に持っていることに気がついた。


「本当は子供か、あのルナという小人を狙っていたんだが、あんたが見てしまうからいけない。実験はあんたで行わせてもらう」


 その声がベルに届いていると思っているのか、ただ語りたいから語っているのか分からないが、どちらにしても、ベルは最後の瞬間まで、その声を聞き逃さないようにしようと思った。その言葉を全て覚えて、ガゼルの行いを記憶しておく必要がある。そんな気がした。


「いろいろな動物でも試してみたが、ダメだった。手を変え品を変え、結果死体の山しかできなかった。だが、人間なら違うかもしれない。それも亜人なら、更に違うかもしれない」


 ガゼルの笑みが更に酷く歪んだものになっていた。角度的に周囲にいる村人からは見えていないらしいが、その表情は悪魔以外の表現が思いつかないものだ。


が人体にどのような影響を及ぼすか。それを見せてもらおうか」


 そう言って、ガゼルが手に持っていた小瓶をベルの近くで傾けた。中を満たしていた赤黒い液体が垂れ、ベルの喉に開いた穴の中に落ちていく。そうやって、小瓶の四分の一ほどの量の液体がベルの喉に入っていた。


 その直後、ベルは全身を叩きつけられるような、強烈な衝撃に襲われた。その衝撃の凄まじさは辛うじて保とうとしていたベルの意識を一瞬で奪い去るほどだった。

 自分を見つめるガゼルが笑っている。その表情だけを覚えたまま、ベルは意識を失っていた。

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