11歳(2)
一目散に森から逃げ帰ったベルは帰宅するなり、すぐさま母親であるルルに泣きついていた。あまりの恐怖からベルは真面に説明もできず、泣きつかれたルルはただただ困惑していたが、その取り乱しようから慌てて事情を聞き出すこともせず、優しく抱き締めてくれていた。
そのことで落ちつきを取り戻したベルは早速、森で見た狂人のことをルルに説明していた。ビカクシダの頭の木を調べようとしたら矢が飛んできて、倒れたビカクシダにナイフを突き刺した人がベルのことを見て笑った、みたいな説明だ。
その説明をルルは温かい目で見守っていた。その間にもベルの恐怖は蘇ってきたようで、再び顔色を悪くしている。
「思い出しただけで怖くなってきた…絶対に危ない人だったよぉ…」
震える声に合わせるように身体までもが震え始めたベルを見て、ルルが再び優しく抱き締めてくれた。その温もりと柔らかな香りに、再び恐怖に包まれかけていたベルの心は落ちついていく。
小人ということもあり、見た目はまだ幼いベルと変わらず、髪色や髪型、瞳の色などの細かい部分も似ていることから、知らない人からは姉妹とも思われるルルだが、こういう瞬間に見せる包容力は流石に母親のそれだった。
ベルにとって、それは憧れであると同時に、自分が結婚や子供のことを考えない理由の一つでもあった。自分にルルと同じだけのことができるかと考えると、どうしても自分に母親ができるとは思えない。
ベルの心が落ちついたところで、ルルは話を変えようと思ったのか、笑顔でベルに聞いてきた。
「森の様子はどうだった?探していた草は採れたの?」
その一言にベルはようやくヒノデソウのことを思い出し、慌てて籠の中のビンを取り出す。
しかし、既にヒノデソウはベルが走った衝撃にやられており、萎れて今にも枯れそうになっていた。
「あぁ…せっかく、採ってきたのに…」
「あらら。また採ってこないとね」
ヒノデソウの採取は仕事であり、ルルの発言は当たり前のものだったが、その一言にベルはかなりの衝撃を受けていた。また森に入ってヒノデソウを採取してくると考えた瞬間、ビカクシダに止めを刺して、こちらに笑顔を向けてきた少年のことを思い出す。
「ムリムリ!!もう入れないよぉ!!」
「でも、お仕事でしょ?」
「そうだけど……どうしよぉ…」
涙目になりながら困った様子のベルを見て、ルルは笑っていた。ベルにとっては深刻な問題だったため、どうしてルルが笑っているか分からず、ベルは怒り出す。
「笑いごとじゃないよ!!」
「ごめんごめん。けど、どうするの?」
「それは…ママが代わりに…」
「ダ~メ。ベルの仕事なんだから、ちゃんとベルが探さないと」
「そんなぁ…」
ベルは完全に頭を抱えていた。まだ納期は先だが、待っていたらあの少年が森に現れなくなるわけではない以上、待つことに意味はない。明日だろうと、一週間後だろうと、少年が現れる可能性があることは同じはずだ。
「どうしよぉ…」
「頑張れ」
そのルルの応援が耳に届かないくらい、ベルは悩み続けていた。
☆ ★ ☆ ★
数年前のことだ。王都の有名な劇団がベル達の住む村、リリパットを訪れたことがあった。近くの大きな街に向かう途中の滞在だったが、村に一泊させてくれたお礼と言って、劇を見せてくれたことがあった。恐らく、その向かっていた街で披露する前の練習もあって、その劇団は見せてくれたのだと思うが、そういった娯楽の少ないリリパットの住人からすると、それはその後数ヶ月に亘って話題になるほど、大きな出来事だった。
ベルもその時の劇は見に行ったのだが、その劇の豪華さはこの先の生涯で匹敵するものを見ることがないと思うほどだった。
その劇に出ている役者が様々な衣装を着ている姿を見て、ファッションに興味を持った小人が一人、リリパットにはいた。
それがベルの小さな頃からの友人であるミベルナ、通称ルナだ。ルナはその時のことを何度も思い出しては、誰が着ていた服が凄かったとか、あの服の構造が未だに分からないとか、目をキラキラと輝かせて話してくる。
普段はベルと同じで大人しく、あまり積極的ではないルナだが、その瞬間だけは自分を強く出している様子がベルはとても好きだった。それはルナも、植物のことを話している時のベルに思っていることだが、ベルはそのことに気づいていない。
森でビカクシダを葬る狂人と出遭った翌日、ベルはルナにそのことを話していた。ルナは仕事の合間の休憩時間だったそうだが、ベルの様子に気づいてか、嫌な顔一つせずに最後まで聞いてくれていた。
「それで、またヒノデソウを採りに行く必要があるんだけど、もう怖くて怖くて…どうしようかなって悩んでいるところなの」
「それは大変だったね。知らない人だったの?」
「うん。私、あんまり男の人知らないから」
「ああ、うん。そうだよね。私も…」
ルナは呟きながら、ベルと一緒に悩んでくれる。その姿にベルは少しだけ落ちついていた。やっぱりルナと一緒にいると楽しい、とベルは改めて思う。
「その人って、本当にそんなに怖い人なのかな?」
不意にルナが呟いた言葉に、ベルは驚いていた。ルナの言葉があまりに信じられず、大きく見開いた目でルナに迫ってしまう。
「怖いよ!?笑ってたんだよ!?血塗れで!?」
「そ、そうかもだけど…ほら、狩人の人とか、そういうことをするって…」
「鹿にナイフを刺して笑うの?」
「笑うかどうかは分からないけど…」
「仮に仕事でも、あの状況で何で笑ったのか分からないよぉ…」
縮こまりながら消え入るような声で呟くベルに、ルナは優しく微笑んでいた。ベルを慰めようとしてくれているのか、優しく頭を撫でてくれる。その心地好さにベルの気持ちは少しずつ落ちつく。
そこで不意に一つの考えが降ってきた。
「あ、そうだ」
「どうしたの?」
「ルナが一緒に森についてきてくれたら、私も入れるかも」
ベルが少し上目遣いでルナを見ると、ルナは困ったように両手をバタバタと振っていた。
「ダメだよ、私は!?ベルみたいに森を歩けないし、邪魔にしかならないよぉ!?」
「そ、そうだよね…うん、分かってる」
流石にルナに無茶はさせられないので、ベルは自分が馬鹿なことを言ったとすぐに反省していた。
「…………その…遅くていいなら、ついていけるよ…?仕事がある日は無理だけど…」
反省するベルの姿に優しいルナは胸が痛んだのか、ぽつりぽつりと零すようにそう呟いていた。その言葉にベルはすぐに顔を上げ、ベルと空中の間を迷ったように目を泳がせているルナを見る。
「いいの!?」
「いや、でも…その…」
自分から提案したルナだったが、すぐに首肯することはなかった。強く迷っているようだが、何に強く迷っているのか、ベルはいまいち分からず、不思議そうな顔でルナを見ていると、だんだんとルナの顔が真っ赤に染まっていく。その様子にベルは心配になり、ルナの肩を強く掴んでいた。
「大丈夫!?凄く顔が真っ赤だけど、熱があるの!?」
「い、いや、そうじゃなくて…」
そう言いながら、ルナは軽く握った右手で真っ赤に染まった顔を隠そうとする。それが口元を覆ったように見えて、ベルは益々心配しそうになったが、その前にぽつりとルナが呟いていた。
「…………て欲しいの…」
「え?ごめん。聞こえなかった」
「ついてきて欲しいの…」
「どこに?」
ベルが不思議そうな顔で待っていると、ルナの目がベルを向いた。どこか遠慮がちで恥ずかしそうにしている目だ。その目を見ていると、ルナのさっきまでの様子も照れているように見えなくもない。
「あのね…ベルにはまだ言ってなかったんだけど…」
「何かあったの?」
「その…私ね…好きな人ができたの…」
その一言にベルは驚き、すぐにフワッと花が開くような喜びが全身を駆け巡っていた。
「そうなの!?」
「う…うん…」
「何だろ、凄く嬉しい!!」
「それで、その人に逢いに行きたくて…その…ベルも一緒についてきてくれないかなって思って」
「ついていくよ!!応援するから!!」
「本当?ありがとう…」
心の底から嬉しそうに笑うルナを見て、ベルも同じように笑っていた。この時のベルはさっきまで悩んでいたことをすっかり忘れて、ただただ幸せな気分になっていた。
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