発展(5)
胸元から時計を取り出し、イリスが時間を確認していた。アスマやベルと同じように床に敷かれた毛布に座り、酷く落ちついた表情で時計を見ている。アスマを見つけた直後の取り乱し方を思えば、その豹変ぶりにベルは驚かずにいられなかった。
「もうすぐお昼ですね。殿下は何が食べたいとかありますか?というか、何を食べてたんですか?」
「パンとか芋とか」
「家畜の餌ですか?」
「違う。そいつの言い方が悪いだけだ」
あらぬ疑いをかけられそうになり、ベルは咄嗟に否定していた。確かに言い方を変えたら、パンや芋は間違っていないが、それではイリスが勘違いしたようにアスマを家畜扱いしているように聞こえる。
「店や屋台で買ってきたものだ」
「ああ、殿下もたまに食べてる奴ですか」
「ああ、うん。そう」
それらの料理を食事としてアスマに渡したベルが言うのも何だが、王子に与える食事としては不適当だな、と思っていたにも拘らず、当たり前のように受け入れているアスマやイリスの姿にベルは驚きよりも呆れに近い感情が湧いてくる。王子がそこまで世俗に塗れていいものなのかと思わずにいられないが、その偏見を押しつけるほどにベルも愚かではないので、温かい目で見守ることにした。
「今日は何を食べたいとかありますか?」
「ああ、何かあるなら、聞いておこう。私が買ってくるからな」
「え?いえいえ、私が行きますよ」
「いや、お前はアスマの護衛だろう?それに顔が知られているはずだ。騎士のイリスが買いに来たとか目立つだろう?」
「た、確かに…」
「だから、食べたい物があるなら、私が買ってくる。安心しろ。薬とか入れないから」
「その一言を言わなかったら安心できてました」
とはいえ、アスマやイリスに希望の食事はないらしく、美味しい物というアスマの大雑把な注文だけを受け、ベルは昼食を買いに行くことになった。
ただし、昼時の屋台が最も多く出る時間まで少しあるので、それまで空き家で時間を潰そうと思ったところで、イリスからベルに質問が飛ぶ。
「ベルさんって二十二歳なんですか?」
「ん?ああ、この身体で二十二歳だ」
「ということは、ご結婚は?」
イリスの質問にベルの眉はピクリと動いていた。動揺を隠し切れなかったことに、しまったと思うが、イリスはベルよりもアスマの方に向いていた。アスマはイリスの質問に誰よりも驚いていた。
「ベルって結婚してるの?」
「小人は短命な一族なので、多くは十代の間に結婚し、子供を作ると聞きます」
「そうなんだ」
「ああ、確かにそうだな。結婚して、子供もいる…いや、いた」
ベルの含みのある言い方に、アスマとイリスは少し表情を曇らせ、顔を見合わせていた。
「いた…?」
「今は分からないからな。もうしばらく逢っていない」
「それは…」
思ったことを全て人に聞きそうなアスマと違い、イリスは聞こうとした直後に口を止めていた。それを聞いていいのか少し考えているようだが、その動きだけでベルには何を言いたいのか伝わっていた。
「この身体になったことが原因だ」
イリスが聞いてくるよりも先に答えると、イリスは驚いたように目を見開いてから、どこか寂しげに視線を逸らしていた。小さく浮かべられた笑みは悲劇に耐えられない心が自己防衛のために浮かべているように見える。
「この身体になった時に村を出て、それから、家族とは逢っていないし、連絡も取っていない。今、どうなっているか私は知らない」
ベルは久しく逢っていない夫と子供の顔を思い出していた。あれから、どうしているか、どうしたのかを考えてみるが、普通の生活を捨ててしまったベルには、そこからの生活を想像できない。かつて存在したはずの家族との生活も、今ではあまりに遠い記憶として思い出せないくらいだ。
「じゃあ、元の身体に戻ったら、家族に逢いに行かないとね」
ベルが顔を上げると、自分を見つめる優しいアスマの表情と目が合った。今回の一件が終わった時にベルがどうなるかはアスマも知っているはずだ。そのことにイリスも気づいているようで、イリスはどこか悲しげな笑みを浮かべている。
「そう、だな…」
それでも、ベルはそう答えていた。実際に家族に逢いに行けるとは微塵も思っていない。ただアスマの向けてくれた優しさを無下にできるほど、ベルは人間らしさを捨てているわけではなかったからだ。
「幸せに暮らしてくれていたらいいんだ」
それは本当に心の底から思っていることだった。あの後に何度も想像し、何度も思ったことだ。
「旦那さんはどういう人だったんですか?」
イリスにそう聞かれ、ベルは急に照れ臭くなる。村を出てから家族の話はほとんどしてこなかった。こういう風に聞かれることもほとんどなく、どういう風に話せばいいのか分からない。
「イ、イリスはいないのか?そういう相手」
誤魔化すようにそう言ってしまい、誤魔化したことをすぐに咎められるとベルは思っていたのだが、予想に反してイリスは慌てふためいていた。
「え!?私ですか!?」
「ん?その反応はいるのか?」
「え?そうなの?」
ベルとアスマに迫られ、赤面したイリスが恥ずかしそうに顔を逸らす。その反応にベルは更なる追及をしようとしたが、その前にイリスの口が開いていた。
「実は、その逆というか…この年になっても、未だにそういう恋愛とかがいまいち分からなくて。あんまり同年代の女の子との話も合わない時が多くて…」
「あれ?けど、ベネオラちゃんとは良く話しているよね?」
「殿下は気づいていませんでしたか?ベネオラちゃんも私と一緒でちょっとずれてますよ」
「待て待て。その知らないベネオラって子が可哀相だ」
自分のいないところで、世間一般からずれていると言われていると本人が知ったら泣くかもしれないとベルは想像していた。この時のベルは知らないが、もちろん、ベネオラはその程度では泣かないし、ベルはこの時のイリスの言葉が間違いではないと思うことになる。
「だから、ベルさんの話を聞きたいと思ったんですよ。どんな人に惹かれたのかとか、どんな風に出逢ったのかとか、知りたいじゃないですか」
「いやいや、そんなに面白い話はないぞ」
「面白いかどうかは私が判断します」
一変攻勢に転じたイリスにベルはたじたじだった。話せる話がないわけではないが、村にいた時のベルと今のベルでは考え方とか、いろいろ違ってきてしまっていて、話すと恥ずかしさから沸騰して死んでしまいそうだ。本当にそれで死ねたら楽だが、実際のところは恥ずかしさでは死ねないし、恥ずかしさで死ねる世界でもベルは死ねない。そのことを考えると、ここで気安く話すことはできそうになかった。
「いや、それはいいじゃないか…ほら…また今度な」
「何で話してくれないんですか?もしかして、そこに非合法な話があるとか?」
「いや、そういうことじゃない」
イリスの追及から必死に逃れようとしている中で、ベルは自分を見つめるアスマの視線に気づいた。その子供を見守る親のような生暖かい目に、ベルは猛烈な苛立ちを覚える。
「何だ、その目は?」
「すっかり二人は仲良しだなって思って」
「そう見えるなら、お前の目は節穴だ」
「え?ベルさんって私のこと嫌いですか?」
「いや、そういう話じゃないが…」
アスマとイリスの少しずれている感性に戸惑いながら、ベルは何とか自分や家族のことを話さないように誤魔化すことにしていた。家族とのことは恥ずかしさもあったが、自分のことをこれ以上、深く話さないようにするのは、アスマやイリスとの間に少しだけ距離を作りたかったからだ。
この時のベルはまだ誰かと親しくなりたいとは思っていなかった。アスマなら分かってくれるかもしれないとは思ったが、それでも、必要以上に深く入り込みたいとは思えなかった。
それをしてしまったら、最後のところで決心が揺らぐ気がして、ベルはどこか怖かったからだ。
しかし、それでも、この瞬間に流れているアスマやイリスとの時間は、十分にベルの心に残る楽しい時間になってしまっていた。
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