発展(2)

 問題の路地は起きている出来事からは想像できないほどに静かだった。その場にはガゼルしかいないのだから、静かなのは当たり前のことなのだが、その静かさが寧ろ不気味さを際立てる。


 シドラスはイリスと共に、住居の一部屋に入らせてもらい、三階の高さから路地を見下ろしている。エルに言った手前、シドラスはガゼルの近くにいたかったのだが、ブラゴの指示でシドラスとイリスはこの場所に配置されることになった。衛兵を三階に配置したら、辿りつく頃には何もかもが終わっている可能性を少しでも少なくしようと思ったのだろう。シドラスとイリスなら、時間はあまりかからない。

 ブラゴは向かいの建物の二階にいるはずだった。他の場所にも衛兵は潜んでおり、路地はその静けさとは裏腹に、衆人環視の状態になっている。


「来ますよね」


 イリスがシドラスの隣でぽつりと呟いた。そこには不安の他に願望と、確かな予感が含まれており、シドラスは少しだけ安心する。昨日は心の底から落ち込んだ様子だったが、今は少なくとも希望を持てる程度には回復したようだ。


「来るさ」


 それはイリスを元気づけるためでも、自身を鼓舞するためでもなく、実感を持った言葉として、シドラスの口から発せられていた。その実感がどこから来るものなのか、シドラスには一切分からなかったが、それを理由に切り捨てる気持ちにもならなかった。


 路地の中央にはガゼルがいつもと変わらない表情で立っていた。動揺していないはずはないが、その動揺の欠片も表情には出ていない。そのことにシドラスは感服していた。あの表情の隠し方は騎士として見習わなければいけない部分だ。


「来ますよね」


 再び隣でイリスが呟いた。さっきと同じ言葉にシドラスは苦い顔をし、イリスを見ようとしたところで、路地の先に動く影を見つける。


「来た…!?」


 シドラスの小さな呟きを聞き、イリスはその視線を追いかけるように、路地の先に目を向けている。そこを歩く影を見つけたようで、今にも窓から飛び出しかねない勢いで、イリスは前のめりになっている。

 路地の中央に立つガゼルも、すぐにその人影に気づいたようだった。表情の変化は少ないが、瞳の鋭さは明らかに増している。


「来ましたね」


 イリスの興奮した声が窓に当たり、窓を白く曇らせる。現れた人物はガゼルにゆっくりと近づき、ガゼルの前で立ち止まった。たまたま通りがかったわけではなく、ガゼルを目的として、この路地に来たように見える。


 現れた人物は頭から外套を被っていて、顔が良く見えなかった。それはガゼルも同じようで、鋭い瞳に怪訝な色が加わっている。ガゼルの前に立っても、故意に顔を隠しているとなると、あの人物が犯人の可能性が高い。


 シドラスがそう思っていると、ガゼルの口が小さく動き出すのが見えた。目の前の人物に何かを言っているようだが、何を言っているのかまでは分からない。唇の動きから言葉が分かれば良かったが、シドラスにはそのような技能がない。

 ガゼルに何を言われても、ガゼルの前に立った人物は口を動かす様子を見せなかった。読唇されることを怖れて、口を動かさない特殊な喋り方をしていない限りは、ガゼルの言葉に何も答えていないということになる。


「何を話しているんですかね?」

「話しているようには見えないが」


 ガゼルは目の前の人物が何かを発することがなくとも、焦っている様子も、苛立っている様子も見せず、ただ同じように口を動かしていた。もしかしたら、自分を呼び出した理由を聞き出そうとしているのかもしれない。


 しかし、それなら、ガゼルの前に立った人物が何も話さない理由が分からない。理由の説明はこの状況で何よりも必要なことのはずだ。説明をしなければ、呼び出した意味がなくなる。


 もしくはガゼルの前に立つこと自体が目的だったのか、とシドラスが考え始めたところで、ガゼルの前の人物が手を伸ばしていた。その手の中には、見覚えのある手紙がある。


「あれは王城に送られてきた二通の手紙に似ていますね」

「犯人からの手紙か…?」


 シドラスは手紙を差し出した人物をじっと見つめながら、その行動の理由を考えていた。その人物が犯人なら、手紙など渡さずに直接的に言葉で伝えればいいはずだ。手紙を渡したということは、その人物はただ手紙を配達する役目を負っただけで、犯人ではないのだろうかとシドラスは考える。


 ガゼルは迷いながらも、ゆっくりと手を伸ばし、手紙を掴んでいた。その瞬間にガゼルが襲われるかもしれないと、シドラスとイリスは身構えていたが、それはただの杞憂でしかなく、手紙を渡した人物はゆっくりと手を離している。

 ガゼルを受け取った手紙を見つめながら、その中身を読むのか悩んでいるように見えた。犯人からの手紙の内容がどのようなものか分からないが、その内容を一人で把握してもいいのか、持ち帰って他の誰かと読み合った方がいいのか悩んでいるようだ。


 しかし、手紙を渡しても、ガゼルの前に立つ人物が立ち去らないところを見ると、その手紙をその場で読むことを望んでいるようだった。少なくとも、ガゼルはそう判断したようで、手紙をゆっくりと開いている。


 そして、ガゼルは手紙に目を落とした。そこから手紙を読み始めたのか、しばらくの間、一切動かなくなる。


 そこに違和感を覚え始めたのは、ガゼルが手紙を読み始めてから五分が過ぎようとしている頃のことだった。あまりに長過ぎるとシドラスやイリスは思い始めていた。それはガゼルの前に立った人物も同じだったのか、動かないガゼルを見たまま、軽く首を傾げている。


 その様子を見た瞬間、シドラスは奇妙な既視感に襲われた。一瞬だが、じんわりとした安心感が心の中に広がる。


「あ、動いた」


 イリスがそう言った瞬間に動き出したのは、ガゼルではなく、その前に立っていた人物の方だった。ガゼルに向かって伸ばした手で、ガゼルの肩を掴もうとしている。


「あれは触ろうとしている…!?」


 シドラスが身構え、部屋を飛び出そうとした瞬間、周囲の建物の一階から数人の衛兵が飛び出していた。ガゼルに触れようとしたことで、衛兵達はシドラスと同じようにガゼルに危機が迫っていると判断したようだ。


 衛兵が一斉に手紙を渡した人物に飛びかかるが、その人物は壁を器用に使いながら、衛兵達の動きを躱してしまう。その中でも、ガゼルは手紙に目を落としたまま、ただ立ち尽くしている。


 その様子を見ながら、イリスは慌てて部屋を飛び出そうとしていた。シドラスが咄嗟に声をかけたのは、イリスと同じように路地の様子を見ていたからだ。

 その光景の中に少しだけがあった。


「ちょっと待とう」

「何でですか!?」

「いや、その方がいいと思うんだ」


 シドラスとイリスがただ見守る路地では、衛兵からの攻撃を外套の人物が華麗に避け、路地から逃げ出そうとしている。その前にブラゴが路地に姿を現し、その人物に何かを叫んでいるように見えた。

 内容が何かは分からないが、外套の人物は聞く様子を一切見せることがなく、路地から飛び出していってしまう。


 そこまでの出来事を眺めていたシドラスには、が一つあった。


「少し回ろう」

「回る?」

「あの外套を被ったの先に回ろう」

「できるんですか?」

「恐らく、これはだ」


 イリスを引き連れたシドラスが部屋を飛び出る。向かう先はさっきまで騒ぎが起きていた路地ではなく、そこから逃げ出した外套の人物の向かう先だ。絶対的に場所が分かるわけではなかったが、その人物の向かう先を少しずつ追跡することはできると、シドラスには自信があった。


 シドラスは衛兵の声が聞こえてくる方ではなく、路地から少し近い別の路地に入り込み、そこから空を見上げる。イリスも同じようにして、シドラスとは違い、目を丸くしている。


「やはり、そうか」


 この時、シドラスはし、更なる追跡を開始しようとしていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る