発展(1)

 鼻腔を擽る良い匂いにアスマは起こされた。床に毛布を敷いただけの部屋だったが、暖かくなってきたこともあってか、驚くほどに良く眠れていた。アスマは起き上がり、匂いの正体を探ろうとすると、既に目覚めていたらしいベルと目が合う。


「朝食だ」


 ベルが紙袋をアスマの前に置いてくる。中には、レタスやトマトのような野菜と加工された肉を挟んだパンが入っている。それを見てから、アスマはベルを見て笑みを浮かべた。


「買ってきてくれたんだね。ありがとう」

「いや、まあ、私しか外に出られないからな」


 ベルは少し頬を赤く染め、アスマから目を逸らしながら、そう答える。そのタイミングでアスマの腹の虫が鳴った。その音にベルはきょとんとした顔をしてから、苦笑している。


「食べていいぞ。私はもう食べた」

「うん。その前に」


 アスマは紙袋の中に手を突っ込む前に、ベルに笑顔を向ける。その笑顔にベルは困惑しているようだが、アスマは気にせずに言葉を続ける。


「おはよう」

「あ、ああ…お、おはよう…」


 戸惑った様子で答えるベルに、アスマは満足そうな顔をしてから、紙袋の中に手を突っ込んだ。中からパンを取り出し、大きく口を開けて頬張り始める。


「本当にいいんだな?」


 アスマがパンを半分ほど食べ終えたところで、ベルが真剣な表情でそう聞いてきた。アスマは昨日話し合ったことだと思い、すぐにうなずく。


「今なら、まだ帰ることもできるはずだ」

「何で、そんなことを言うの?俺が帰ったら、ベルが困るんだよね?」


 アスマの当たり前の指摘に、ベルは迷ったように視線を動かしてから、どこか安堵した様子で溜め息を吐いていた。


「いや、そうだな。何でもない。気にするな」

「ん?そう?」


 ベルが何を考えているのか、アスマはいまいち分からなかったが、ベルが何でもないと言うのなら、アスマはそれ以上聞く気にはならなかった。残りのパンを食べ終え、紙袋の中を覗いてみると、もう一個パンが入っていることに気づく。


「これも食べていいの?」

「ああ、食べておいてくれ」


 そう言いながら、ベルは立ち上がってしまう。


「どこかに行くの?」

「今のうちに準備をしておかないとな」


 二つ目のパンを食べ始めたアスマを置いて、ベルが空き家を一人で出ていく。その姿を見送りながら、アスマはこれからのために腹ごしらえを進めていた。



   ☆   ★   ☆   ★



 早朝から王城は騒がしかった。その騒がしさにパロールは起こされる。騒がしさの正体が気になることはなかった。昨日の段階で、その騒がしさの理由になることをパロールは聞いていたからだ。


 顔でも洗おうかと思い、パロールは自室を出る。魔術師棟の廊下を歩き始めると、ふと目を向けた窓の向こうに、エルの姿を見つけた。どこか暗い表情で一人いる姿は、パロールがあまり見たことのないエルの姿だ。

 その姿にパロールは声をかけに行くべきかと考えた。あれだけの表情なら、何かを悩んでいるのかもしれない。それなら、その悩みを聞いてあげるべきかもしれない。


 そう思ったが、パロールにはエルを励ませるだけの自信がなかった。結局、パロールは窓から目を逸らし、変わらずに廊下を歩くことにする。


 それから、顔を洗い終えたパロールが自室に戻ろうとした時、ちょうど廊下を走ってきた人物とぶつかり、パロールは転びそうになった。


「す、すみません!?」

「こ、こちらこそ、ちゃんと見ていなくて」


 パロールが答えながら、ぶつかってきた相手に目を向ける。それはイリスだった。


「本当にすみません!!」

「急いでいるみたいですね」

「はい。これから、アスマ殿下をお助けするために頑張らないといけないんです」


 奮起したイリスの表情は眩しく、パロールはまっすぐに見ることができなかった。その姿は昔の自分を思い出させるものだ。


「張り切っているんですね」

「そうですね。昨日は私の責任だと落ち込んでいたんですが、私にしかできないことがあるのなら、それを全力で果たさなければいけないって思ったんです。ですから、頑張ります」


 イリスはそう言ってから、再度、謝罪の言葉を口にしながら、パロールに向かって頭を下げてきた。そのまま、再び急いだ様子でその場を立ち去っていく。

 その姿を見送りながら、パロールはイリスの言葉を思い返していた。


「自分にしかできないことがあるなら、それを全力で果たさなければいけない」


 パロールはその考えが酷く羨ましく思えた。自分もそこまで自分を信じられたら、あの時からの生活が違っていたかもしれないと思う。


 しかし、パロールには自分にしかできないことがあるとは、どうしても思えなかった。どこかの誰かの代替品。それが自分だ。


 だからこそ、この十七年、パロールが何もしなくても、この国は特に困る様子を見せてこなかった。パロールにできることは何もない。パロールにしかできないことは一つもない。


 その事実を改めて噛み締めながら、パロールは自室に戻るために歩き出す。今日も恐ろしく長い一日が始まった気がしていた。



   ☆   ★   ☆   ★



 城門前には静かに衛兵が集まり始めていた。それら衛兵の前に立ったブラゴが衛兵の中に緊張感を植えつけていく。その緊張感の中にシドラスも立っていた。これからのことを考える一方で、その場に現れない人物のことを心配している。


 まさか、来ないのだろうかと一瞬思ったところで、ようやくその人物が駆け込んできた。慌てた様子でシドラスに頭を下げてくるのは、イリスだ。


「すみません。遅れました」

「いや、まだ大丈夫」


 その時、イリスの到着を待っていたように、衛兵の一人がシドラスとイリスを呼びに来た。どうやら、ブラゴがこれからの最終確認をしたいらしく、二人を呼ぶように命令したようだ。


 シドラスとイリスがブラゴのところに向かうと、そこには既にガゼルが待っていた。エルやラングもこれからのことには関わらない予定のはずだが、ガゼルの隣に立っている。いつものエルなら、ブラゴに食ってかかる場面だが、今回はそれどころではないようで、ガゼルに心配した目を向け続けている。


「師匠。頼むから、気をつけてよ」

「分かっている」


 そう何度も同じことを言っているが、ガゼルは怒ることもなく、同じ返答を繰り返していた。その様子をどこか微笑ましげに見守りながらも、ラングは気になっていたのか、ガゼルの肩を掴んで聞いている。


「本当に何で指名されたのか心当たりがないんだね?」

「ああ。残念ながら、一つも思い当たる節はない」

「そうか」


 ラングはあまり納得していない様子だが、ガゼルが嘘をついている風でもないためか、それ以上の追及はしようとしなかった。


「揃ったみたいだな」


 ブラゴがシドラスとイリスの顔を見ながら、そう呟いた。やはり、待たせていたのかとシドラスが思ったことと同じことをイリスも思ったようで、申し訳なさそうな顔で身を縮こまらせている。


「では、最終確認を始めます」


 ガゼルに目を向けながら、ブラゴが一枚の地図を広げた。何の変哲もない、ただの路地を中心とした小さな地図だ。


「見ての通り、この路地に隠れられるような場所はなく、この路地を人が隠れて見ることは難しい。ですので、周辺の住居に衛兵の立ち入り許可を取りました。私達はそのどこかに隠れてガゼル様を見守ります」


 ブラゴがシドラスとイリスに目を向けてきて、二人は揃ってうなずく。シドラスとイリスもその中に交じって隠れることになっている。その確認だろう。


「問題は路地にガゼル様を呼び出して、犯人が何をするのかという点です」

「命を狙われているとか?」


 ガゼルが自虐的に呟いた言葉に、エルが表情を曇らせている。だが、その言葉を否定するようにブラゴがすぐかぶりを振っていた。


「衛兵が隠れられないということは犯人が隠れて見ることも難しいということです。もしも、この場所に犯人が現れるなら、それは正面から姿を現すしかありません」


 ガゼルは既に分かり切っていたことを聞くように、ただうなずいていた。エルの表情は未だに曇ったままで明るくなる気配がない。


「犯人が姿を現し、明確な隙を見せたら、ガゼル様に合図を出していただきます。その合図で私達が一斉に飛び出します」

「師匠が合図を出せなかったら?」

「その時はガゼル様に危険が迫ったタイミングで飛び出す。少なくとも、犯人から接触はさせないつもりだ」


 ブラゴが真面目な表情で語っても、エルは安心した様子を一切見せなかった。それはブラゴを信用していないからではなく、危険かもしれない場所にガゼルを送り出すことを未だに納得していない自分がいるのだろう。


「エル様。私達を信じていてください」


 だから、シドラスはエルにその言葉を告げることにした。エルは曇ったままの表情を笑顔に変えようとして、失敗した不格好な笑顔で、シドラスにうなずいている。安心させることは無理だったかと思いながらも、自分の言葉に嘘をついたつもりはない。シドラスは絶対にガゼルを守るつもりで覚悟を決めていた。


 その後、少しずつ衛兵が王城を出始めた。あくまで騒ぎが広まらないように、シドラス達は少しずつ準備を進めていく。犯人との接触まで、残り一時間を切ろうとしている頃のことだった。

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