『魔王誘拐事件』

発生(1)

 ようやく温もりの戻ってきた春先のこと。竜王祭が二ヶ月後に迫り、最後の休暇と言わんばかりに王都は落ちつき払っていた。


 エアリエル王国の第一王子であるアスマも、落ちついたとまではいかないにしても、いつもと変わりのない日常を謳歌していた。午前中に騎士シドラスとの剣の稽古を、午後には国家魔術師ラングとの魔術学の勉強を終え、自由の身となったアスマは颯爽と王城の外に出ていく。

 もちろん、一人ではない。シドラスと一緒にアスマの護衛を担当しているイリスと、アスマの弟であるアスラの護衛のはずのライトが一緒にいる。


 本来は王子であるアスマが王都の街をぶらつくとなると、多くの臣下に注意され、多くの国民に驚かれることなのだが、幼少の頃よりアスマがそれを繰り返した結果、いつのまにか、注意されることもなくなり、アスマが出歩くことは黙認されるようになっていた。国民もアスマより馬車の往来に目を向けるくらいに、アスマを気にしていない。


 王都の街に向かうのは、ただ王城の外に出たいという気持ちからではない。アスマには明確な目的があった。

 大通りに面した白と緑を基調とした建物。看板には『パンテラ』の文字。そこがアスマの目的地であるカフェだ。


 王城を出た数十分後には、アスマはそのカフェの前にいた。イリスやライトと一緒に談笑しながら、カフェの前に立つ姿はただの年頃の少年であり、とてもじゃないが王子とは思えない。


「いらっしゃいませ」


 扉を開けると軽やかな少女の声がした。パンテラの店員であるベネオラの声だ。既に数え切れないほどにアスマはパンテラに通っているため、入ってきたのがアスマだと気づいた瞬間に、ベネオラは親しげな笑みを浮かべている。


「今日は三人?」

「うん」


 アスマがうなずくと、ベネオラは店内中央付近のテーブルに三人を案内した。王子なら店の奥や、他の席から見えづらい席に案内することが普通で、最初の頃はそうされていたのだが、アスマが頑なにカウンターの近くがいいと言い出したため、今ではこの辺りの席に案内されることが多かった。

 どうして、アスマがそこまで頑なだったのか。その答えはカウンターの向こうを見ると、すぐに分かる。アスマがこの店に通い始めた理由にも繋がる、この店の店主の姿がそこにある。


「いらっしゃい」


 野太い声が地を這うように響いた。声の印象から思い浮かぶように、店主の身体は大きく、分厚く、それに毛深かった。毛深いことは声の印象とは関係ないが、それでも毛深いイメージしか湧かないほどに店主は毛深い。

 それもそのはず、この店の店主は豹の頭と毛皮を持った獣人だった。その姿を一目気に入ったアスマが店主であるグインと逢うために、この店に通い始めたのだ。


 アスマ達が席に座ると、ベネオラがすぐに注文を聞いてくる。


「俺はコーヒー」

「私も殿下と一緒のを」

「俺もコーヒーと後…何か甘い物も」

「何がいいですか?」

「ベネオラちゃんのおすすめで」

「ドッグフードでいいですよ」

「え?イリスちゃん酷くない?」

「分かりました」

「え?あるの?」


 ライトの注文だけ不穏だが、概ね注文を終えたところで、アスマの来店時から店内にいた二人の客が話しかけてきた。


「こんにちは、殿下」

「オーランド」


 アスマが声をかけてきた男の名前を呼ぶ。アスマと同じようにこの店の常連である大工のオーランドとラファエロが店の奥のテーブルについていた。ラファエロは言葉の代わりに軽くカップを掲げて挨拶してくる。


「二人はいつも早いね」

「いや、ずっといるわけじゃないですよ?何か、サボってるみたいな言い方されても」

「そんなつもりないよ」


 アスマが慌てて両手を振るっている。


「まあ、今日はほとんど仕事なかったんですけどね」

「サボってるじゃないですか」


 ラファエロの呟きにライトのツッコミが鋭く入った。さっきまで正反対のことを言っていたオーランドが教科書に載るくらいに分かりやすい苦笑いを浮かべている。


「そういうライト君こそ、最近毎日来てるけど、暇なの?ライト君って殿下の護衛じゃないよね?」

「そうですね。殿下じゃなくて殿下の護衛です」

「ライトさん、固有名詞を使ってください」

「イリスちゃんは難しい言葉を知ってるね」

「子供をあやすみたいな言い方やめてください」

「でも、まだ十代でしょう?」

「もう十九歳です。二十代に爪先くらいは突っ込んでますよ」


 胸を張るイリスの多少の子供っぽさにライトは鼻で笑う。少女然としたベネオラと違い、見た目の雰囲気こそ大人びたものを持っているが、その実、内面はアスマやライトと一緒に行動できるくらいに子供っぽい、というのが同じくアスマの護衛を担当しているシドラスの評価だ。


 鼻で笑ったことにイリスは怒ろうとしていたが、それを止めるように注文していたコーヒーをベネオラが運んできた。そのことに救われたような顔をしているライトやアスマ達の前にカップを置いてから、最後にライトの前に、拳くらいの大きさのパンのような物が乗った皿を置いていく。


「何これ?ドッグフード?」

「クリームパフです」

「クリームパフ?」


 ライトが説明を求める目をベネオラではなく、グインに向けていた。この店に来る常連客であれば常識だが、基本的にこの店で提供される食事は全てグインが作っている。このクリームパフもベネオラではなく、グイン作だ。


「最近来た異国の客に聞いたんだ。印象としては、ちょっと変わったケーキだな」

「へぇ~。甘い物なのか」

「俺も気になるんだけど。ライト、食べてみてよ」

「私も気になります」


 アスマとイリスが覗き込んできて、非常に食べづらいと思いながら、ライトは皿の上に置かれたクリームパフに手を伸ばす。荒く乾燥した見た目の生地だが、触ってみると中身は柔らかく、切り込みから中に入れられたクリームが零れそうになっている。慌てて口に運ぶと、触れている部分の感触とは違い、フワッとした中身の奥からクリームが溢れてきた。口の中一杯に甘さが広がり、ライトは驚いた顔を浮かべてしまう。


「おおぅ…うまい…」

「美味しいんだ。俺も一つ頂戴」

「私も貰っていいですか?」


 アスマとイリスが慌てて頼むと、グインがカウンターの奥で笑ってうなずいた。残りのクリームパフをライトが食べている様子を眺めながら、二人は期待に満ち満ちた顔を浮かべている。


「ところで何かをお話されていたんじゃないんですか?」


 今度はアスマ達のテーブルの近くに立っていたベネオラが不意にそう言った。アスマ達が思い出し、少し離れた席に座るオーランドとラファエロを見ると、二人は困惑で塗り潰された表情をしている。


「すみません…」

「いや、美味しいよね、クリームパフ」


 そう言うオーランドとラファエロの前には、クリームが点々と落ちた皿が置かれている。どうやら、二人も既に食していたようだ。


「何だっけ?ライトが暇って話だっけ?」

「そうそう。最近毎日来てるから」

「いや、別に暇じゃないですよ。これから、大仕事がありますから」

「大仕事?」


 オーランドとアスマが声を揃えて首を傾げ、イリスはどうしてアスマが首を傾げているのだと言わんばかりに呆れた顔をしている。


「アスラ殿下の地方視察があるんですよね?」

「そう。それで、俺とウィリアム先輩がついていくことになったから、一週間はいません」

「そういえば、アスラがそんなこと言ってたなー。あとでお土産をお願いしないと」

「地方視察って何をするの?」

「多分ですけど、ウィリアム先輩からの説明を聞くに観光ですね」

「絶対違いますよ」


 イリスが冷たいツッコミを呟きながら、コーヒーを啜る。その姿や毎日パンテラに通うアスマの様子を見て、ベネオラが疑問に思ったようだ。


「アスマ君は行かないの?」

「殿下はあまりに自由なので、そういう他に迷惑をかけそうなことは許可が出ないんです」

「あれ?何か、俺って子供扱いされてない?」

「殿下が王都の外に出るとしたら、かなりの大事ですね。国家間の問題とか、そういうレベルです。なので、私にそういう大仕事が来ることはないですし、ない方がいいです」

「そう言ってたら、大仕事が来たりして」

「不吉なことを言わないでくださいよ」


 オーランドの茶化しにイリスはムッとしながら、カップを空にする。アスマとライトも同じタイミングでコーヒーを飲み干し、三人が揃ってコーヒーを頼む姿に笑いながら、ベネオラがグインにコーヒー三杯の追加オーダーを伝える。


「大仕事はオーランドさんとラファエロさんの方が多そうですね」

「そうだよね。二人は大工だし、何かあるんじゃない?」

「大仕事?」

「それなら、こいつは大工になって三ヶ月くらいの二、三回目の仕事が大仕事だったんですよ」


 ラファエロがそう言い出すと、オーランドは言われたことで思い出したような顔をしていた。


「どんな仕事なの?」

「王城の改修工事ですよ。古くなったところをまとめて新しくしたんですよ。お三方はまだ生まれる前か、まだ物心がつくかどうかくらいの頃だったので知らないと思いますけどね」

「そういえば一度、大きな改修工事があったのは聞いた気がしますね。最近壁を壊し…古くなってて、ウィリアム先輩に怒ら…と話した時にそういう話をしました」

「ライトさんは何をしてるんですか?」

「いや、別に何もしてないよ?ただ近道しようと思って、壁を登ろうとしただけで…」

「十分してるじゃないですか」


 イリスとライトの楽しい会話にアスマが笑っている中、完成したクリームパフが二つ運ばれてくる。いつもと変わらないパンテラでの日常がそこにはあった。

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