二日目(1)

 どんなに不安を抱えていても、朝は変わらずやってくる。


 そのことを強く実感した朝を経て、ベルはいつもの日常と同じようにアスマの部屋を訪れていた。アスマを起こす役目なのだが、昨日の一件もあって、ベルは面倒さから溜め息をついてしまう。

 アスマが再び揶揄おうとしてきた時には、どのような対応するべきなのか、今から思い悩んでしまう。


 しかし、それはどうやら杞憂だったようで、ベルが訪れた時にアスマはぐっすりと眠っているところだった。

 流石に昨日一日祭りを回っただけあって、流石のアスマも疲れていたようだ。ベルが近づいても、一切目を覚ます気配がない。


 これなら、普通に起こすだけで問題なさそうだとベルがホッとしたところで、その考えを打ち破るようにアスマが身体を突然起こした。


「時間制限があるのは嫌だ!!」

「急に何だ!?」


 流石の突然さにベルも驚きの声を上げたのだが、アスマは決して驚かせようとしたわけではないようで、起き上がってから未だ半分瞑ったままの目を周囲に向けていた。

 どうやら、アスマは寝惚けているようだ。


「夢見た~」


 ベルのことに気づいた瞬間、アスマが定まっていない声を隙間風みたいに漏らしてくる。寝惚け眼は糸みたいに細い。


「どんな夢だ?」

「シドラスにお祭りを一日回れないって言われる夢~」

「それ夢じゃないぞ?」

「え?」


 ベルの告げた残酷な事実がアスマを夢の世界から引っ張り上げたようで、それまで糸のようだった目はパッチリと開いて、ベルを見つめてきていた。


「昨日言われてたことだぞ?」


 アスマは頭が覚醒していくと同時に、昨日のことをだんだんと思い出してきたようで、その表情を暗いものに変えていく。


「そうだった……どうしよう!?ベル~!?」

「抱きつくな!?」


 縋るように抱きついてきたアスマを剥がしながら、ベルは呆れたように溜め息をついた。


「どうするも何もないだろ?危険なことに変わりないんだ」

「でも、一日回りたいよ~」

「シドラスは護衛がもう一人いたら違ってくるって言ってたな」

「あ、そうか。じゃあ、護衛をもう一人用意したらいいんだ」

「まあ、確かにそうなるな」


 ベルが納得したことでアスマは喜び始めた。意気込んで、ベッドから抜け出してきて、慌てて着替えようとしている。

 しかし、ベルには分からないことがあった。


「で、誰を護衛にするんだ?」


 そう聞いた瞬間、アスマはピクリとも動かなくなり、機械仕掛けのようにぎこちない動きでベルを見てくる。


「……………ライト…?」

「アスラ殿下の護衛があるだろ?」

「どうしよう!?ベル~!?」


 再び抱きつこうとしてきたアスマにベルの鉄拳が炸裂した。

 アスマは床に倒れ伏せて、ベルをうるうるとした目で見つめてくる。


「諦めろ」

「ええ~!?」


 ベルの一言は止めだったようで、アスマはしばらく床の上でぐったりとしたまま動かなかった。



   ☆   ★   ☆   ★



 エルの心臓には毛が生えている。それも類人猿と見間違うほどの剛毛だ。

 それくらいに普段のエルは緊張などとは無縁の生活をしているのだが、その時のエルは珍しく緊張していた。

 心臓はあまりの速さで動いていて、そのために毛が抜けてしまったのかもしれない。手や足は自分のものではないように微かに震えていて、それを止めることができない。


 エルは人を待っている最中だった。ただし、意中の相手とかではない。もしそうなら、エルはこれほどまでに緊張していないはずだ。


 この時のエルはシドラスを待っていたのだ。エルが心の中に抱えていた一つの蟠りのようなものを解消するために、シドラスに謝罪しようと思っていたのだ。

 そのためにシドラスが通りがかりそうな場所で、エルはシドラスが来るのを待っていたのだが、その間もエルの緊張は高まっていた。


 エルはシドラスとの間にある蟠りのようなものを大きな隔たりのように感じていた。

 触れ方によっては片方に崩れて、二人の間に架かっていた橋みたいなものを崩してしまう気がしていた。


 そうなった時、エルはシドラスという友人と呼べるかどうか分からないが、信頼できると感じている相手を失うことになる。

 それは今までに何度もエルが味わってきたエルの最も嫌いなことだった。

 それこそ、エルの根幹部分でエルの性格や弱点を作り出した出来事も、そこに含まれているくらいだ。


 だから、エルはシドラスに素直に謝罪することがとても怖かった。それによって再び離れていく人がいることが怖くて堪らなかった。


 やがて、エルが待っていた廊下の先から人が歩いてくる姿を見つけた。その人物の顔を確かめるまでもない。

 この時間帯にこの場所を歩いている人など限られる。


「これはエル様。どうされたのですか?」


 エルを見つけるなり驚いた顔をしたシドラスが声をかけてきた。普段はこんな場所にエルがいることはないのだから、驚くのも無理もないだろう。


 エルは少し迷ってから、少し遠回りすることを選ぶ。

 その方がいいと思ったわけではなく、そうしないと伝えられそうになかったからだ。それくらいにエルは怯えていた。


「ちょっと今日はアスマ殿下と一緒に回ろうと思ってね」


 それはエルからすると、直接触れるのが怖いから、まずは撫でることにしたつもりだったのだが、その言葉を聞いた瞬間にシドラスが頭を抱えてしまった。

 その様子にエルは衝撃を受けた。エルが一緒に行くと言って、シドラスが頭を抱える理由など、エルには一つしか思いつかない。


 シドラスはあの時のことをまだ怒っているに違いない。エルはここで謝らないと取り返しがつかなくなる気配を感じ、少し青褪めながら、当初の目的を切り出すことにする。


「あのさ。シドラス君」


 エルが名前を呼ぶと、頭を抱えたままシドラスが顔を上げた。


「何ですか?」

「その…ごめんね。ずっと謝らないといけないって思ってたんだ」

「急に何ですか?」

「だって、俺は君に酷いことを言ってしまったじゃないか」

「酷いこと?」


 そう言われてシドラスはしばらくとしてから、腹の底から引っ張り出したような声を出した。


「ああ~。そんなこともありましたね」

「え…?そんなこと…?」


 あまりにあっけらかんと言ってしまったシドラスを見て、エルは驚愕していた。

 これではまるで怒っているどころか忘れていたようではないか。


「あの時はただ私とエル様の信じたものが違っていて、私の信じたものが正しかった。ただそれだけです。十分に逆の立場になる可能性もありました。その時、エル様は私を責めますか?」

「いや…」

「そういうことです。私も謝罪なんて必要ありません。謝罪されるほどに気にしてもいませんよ」


 当たり前のことを語るようにシドラスが話す姿を見て、エルは腹の底から笑いが込み上げてきた。さっきまでの自分の緊張がおかしくて堪らない。


 シドラスは最初から何も気にしていなかった。気にしていたのはエルの方ばかりで、シドラスはさっきエルが言い出すまで忘れていたくらいだ。

 それなのに自分は何を悩んでいたのだろうかと考えてしまうと、これまでの時間が馬鹿らしくなる。


「それより、殿下とご一緒されるなら、少し覚悟をしておいてくださいね。今、面倒なことになっていますから」


 そう言い出したシドラスはさっきと同じように頭を抱えていて、エルは身体の芯を通り抜ける寒さに襲われた。


「あれ?何か凄く嫌な予感がした」

「その予感は当たっているかもしれませんね」

「嘘?やめていい?」

「エル様は立場のある御方なのですから、もう少し自分の発言に責任を持ってください」


 エルの逃げ道を着実に潰していくシドラスの追い込み方を見て、エルは引き攣った笑みを浮かべるので精一杯だった。


「やっぱり怒ってない?」

「エル様には怒っていませんよ。強いて言うなら、殿下の我が儘に怒っているだけです」


 それから、エルはシドラスと一緒にアスマの部屋に向かいながら、アスマに迫っている危機のことを教わるのだった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る