一日目(7)

「くしゅ!!」


 ベルが小さく勢いのあるをした。

 その突発さにベネオラが小さく身体を震わせて驚いている。


「大丈夫ですか?風邪ですか?」

「いや、誰かが噂しているのかもしれない」


 ベルが鼻を啜りながら冗談を呟いたのは、ちょうどの前にやってきたところのことだった。


 どうして、そんな場所にいるのかというと、発端はもちろんのことアスマである。

 今から数時間前のアスマの一言が始まりだった。


「あ!?」


 その突発さにベネオラどころか、ベルとシドラスも小さく身体を震わせて驚いた。

 ベルはアスマが奇病を発症して、突然の発作で奇声を上げたのかと心配した目を向けてしまう。


 しかし、流石にそんな奇妙な事態にはなっていなかったようだ。

 アスマはシドラスに縋りながら、時計を出すように懇願していた。


「今、何時!?確認して!?」

「急に何ですか?」

「早く!!」


 アスマの豹変ぶりに怪訝な目を向けながらも、シドラスはアスマの頼みを断れる立場ではない上に、内容も内容なので素直に時計を取り出していた。

 シドラスが時刻を読み上げようとすると、アスマが無理矢理覗き込もうとしている。


「ちょっと殿下。見づらいのでやめてもらえますか?」

「ああ、ごめん。で、何時?」

「もうすぐ十三時というところですね」

「やっぱり、そろそろ行かないと!!」

「ちょっと落ちつけ」


 使命感に駆られ、先走ろうとするアスマをベルは取り敢えず諫め始めた。

 闘牛と化したアスマだったが、ベルの手によって何とか興奮を抑え、今にも走り出そうとしていた足を止めている。


「どこに行くんだ?」

「言ってたでしょ!?探偵シャーロック展だよ!!」


 アスマの勢いばかりの発言を受けて、ベルは二日前のパンテラでのことを思い出した。

 そこでアサゴがつい口走ってしまった言葉があったはずだ。その時のベルの感情を引き連れて、言葉が頭の中で浮かんでくる。


「確かに言ってたね」


 ベネオラも同じ記憶を引っ張り出してきたようだが、そこに残っている印象はベルと大きく違っていたようで、苦々しい顔を浮かべるベルとは対照的に楽しげな笑みを浮かべていた。

 ベルとしてはベネオラの楽しい記憶を壊したくはないので、特別何かを言うことは憚られるが、あまり楽しい記憶ではないということだけ強く思っておく。


 あれは確かなアサゴの失言だったはずだ。

 少なくとも、ベルはそう思っている。


「その時間が一時からなんだよ。だから、そろそろ行かないと」


 忙しなく動き回る身体はアスマの気持ちが既に走り出していることを知らせるようだった。気持ちに置いていかれないように、身体が恐怖しているようにも見える。

 ベルは探偵シャーロックシリーズに一切の興味を持っていなかったので、興奮しているアスマには悪いがあまり乗り気ではなかった。


 しかし、ベネオラは多少の興味があるのか、アスマの先走る気持ちに賛同している。シドラスはシドラスでアスマについていく気でいるので、ほとんど同意しているのに等しい状態だ。

 そうなると、ベル一人だけが反対派に立つことになるのだが、ベル一人の意見が通る環境ではない。


 そのことは十分に分かっているので、結局ベルもアスマの気持ちを後押しし、探偵シャーロック展が開催されるという出版社の前まで来たのが、冒頭の場面である。

 そこでベルがくしゃみをして、ベネオラが心配したところで、アスマが勇ましく出版社に入っていった。ベル達は少し遅れてから、その背中についていく。


 出版社で開催された探偵シャーロック展では、探偵シャーロックシリーズに関するあらゆる物が展示されているようだった。

 ベルは一行も読んだことがないので、それらがどのような物なのか説明文を読んでも分からない物もあったが、アスマは一々興奮しているので、探偵シャーロックシリーズのファンからすると垂涎ものの一品ばかりなのだろう。


 とはいえ、それはあくまで探偵シャーロックシリーズのファンに向けられた物ばかりなので、正直ベルは楽しむことができなかった。つまらないというわけではなく、楽しみ方が分からないのだ。


 アスマは言わずもがな、ベネオラも違った視点ではあるが楽しんでいる様子なので、護衛としての仕事から楽しむことを放棄しているシドラスを除外すると、ベルだけが楽しめていないことになる。

 そのことを考えると、ベルは抗えない孤独に襲われてしまう。あまりの寂しさに身体の芯から凍結されるようだ。


 このままでは何万年後に当時の状態を維持したまま発見されることになりそうだったので、ベルは咄嗟に近くのベネオラに近づいていくことにした。

 ベネオラは何かの衣装を着た人形を興味深そうに見ているところだ。


「ベネオラー。何を見てるんだー?」


 ベルが縋りつくように聞くと、ベネオラが自分の前に置かれた人形の足下を手で示した。

 その手の誘導に従って視線を落としてみると、人形の足下に小さな看板が置かれていることに気づく。


「えーと…へぇ~。これがシャーロックの着ている服の再現なのか」

「みたいですよ。劇中で着ている服を特別に作ったとか」


 頭にはディアストーカーを被り、口にはパイプを咥え、肩からインバネスコートを羽織っている姿はベルにも覚えがある気がした。

 ベルの記憶が確かなら、アスマがチャールズに作ってくれるように頼み込んでいたことがあったはずだ。

 その時はシドラスの耳にすぐ入り、服が作られる前に依頼が取り消され、アスマの手元に届くことはなかったが、まさか、その服がここで見られるとは思ってもみなかった。


「そうか。あれか」


 隠し切れない呆れを表情に出しながら、ベルは先にこれを見ていたベネオラに目を向けた。

 ベネオラはベルと同じくファッションに疎い勢のはずだ。ベルは個人的にベネオラをパロールと一緒に自分の仲間だと認識しているところがある。


 そのベネオラがこの服をじっと見ていたということは、もしかしたら男物の服に関しては興味があるのかと一瞬考えた。

 それも自分が着るとかではなく、シドラスにプレゼントすることを考えていたとしたら、ベルは早々に止めなければいけない。

 そう思って、試しにベネオラに聞いてみることにした。


「この服、どう思う?」

「小説の中の人が着ている服なんて凄いですよね」

「いや、実際に誰かに着せようとか思っているか?」

「何を言っているんですか?小説の中の服が現実に着られるわけがないじゃないですか」


 どうやら、ベネオラはベルが想像しているよりも遥かにファッションに疎かったようだ。

 まさか、シャーロックの着ている服が全て架空のものだと思っているとまでは思っていなかった。


 流石のベルも、それらの服を実際に着ている人や場面があることは知っているので、ベネオラの言葉にどのような反応をするべきなのか悩んでしまう。

 下手な行動はベネオラの心に一生残るファッションの傷を作ってしまうことになる。

 そのことだけは何としてでも避けたい。そう思ったので、取り敢えず今回は誤魔化して終わることにした。


「そうだなー」


 そんな適当な相槌一つで誤魔化せる人間はこの世に数少ないが、幸いなことにベネオラは数少ない一人だったので、誤魔化すことは容易に成功した。


 しかし、これ以上話していると、少々居た堪れない気持ちが強くなってくるので、ベルは早々にアスマ達と合流することを選ぶ。

 すると、アスマは何か一つの展示に目を奪われているところだった。傍にいるシドラスが夢中になったアスマを退屈そうな瞳で観察している。


「何を見ているんだ?」

「探偵シャーロックシリーズのいくつかの話を書いた生原稿らしいですよ」

「生原稿?もしかして、アスマはそれを読んでいるのか?」

「はい。正にその通りです」

「嘘だろ?もう何度も読んでいる話じゃないのか?」

「私もそう思いましたが、殿下に言わせると、そのようなことは関係ないそうです」


 ベルとシドラスの理解の外にアスマは立っていて、しばらく生原稿を夢中で読んでいるアスマに近づくことができなかった。

 近づいて話しかけたら、アスマに頭からパクリと食べられそうだ。


「ああっ!?」


 だから、不意にアスマが叫ぶところをベル達は少し遠くから見ていた。


 その場にいる人の目が全てアスマに集まり、ベルとシドラスは咄嗟に他人のフリをしようかと、一言も言葉を交わさずに通じ合っていたのだが、残念なことにベネオラには通じなかった。

 アスマの隣まで近づいてきて、周囲の人々の視線の的となっているアスマに話しかけてしまう。


「どうしたの?」


 そうなると、ベネオラを一人でアスマと並ばせて、アスマと同じくらいの視線に晒させるわけにもいかないので、ベルとシドラスは覚悟を決めて、アスマのところに近づくことにする。


 そうしたら、ちょうどアスマがゆっくりと手を上げて、何かに向かって指を伸ばすところだった。

 指に案内されるように、ベルとシドラスの視線もアスマやベネオラの視線と合流することになる。


 そこには一つの原稿が置かれていた。どうやら、作家アーサーが出版社に持ち込みをした時の原稿のようだ。

 つまりはアーサーが初めて書いた原稿ということなのだが、アスマはその原稿の端を必要に指差していた。


「あれだよ。あれだ!!」


 興奮した猿のようなアスマにベルは絡まれて、少々面倒だと感じながらも、その原稿の端に目を向けてみることにする。

 そこには、原稿に書かれていた文字とは明らかに違う、が描かれていた。まるでサインのように描かれているが、ベルの記憶にあるどの文字とも合わないので、それが文字であるとは思えない。


 そう思ったところで、ベルはを思い出した。

 芋蔓式にアスマが何を伝えたかったのかまで、ベルは完璧に理解する。


「これって、の?」

「そうだよ、ベル!!あの新聞に書かれていたなんだよ!!」


 アスマは世紀の大発見をしたように、キラキラと輝いた目で原稿の端を見つめている。


「あれはなんだよ!!」


 確信を持ってアスマの口から飛び出た言葉は、ベルが考えても否定する要素が見つからず、確かな事実のような雰囲気を醸し出して、ベル達の間を漂っていた。

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