前々日(9)

 普段なら買い出しはベネオラの仕事だ。店で提供する料理の一切はグインが作っており、ベネオラに任せている接客も怖がられることはあるが、グインにもできる以上は必然的にそういう役割分担になる。


 しかし、一年に二回だけグインが代わりに買い出しに出なければいけない時がある。それが竜王祭の直前と魔竜祭の直前に当たるこの時期だ。その時だけは祭りに向けて、いつもより多めに食材を買い込むことになるので、ベネオラではなくグインが買い出しに出ることになっているのだ。

 それも前日に買い出しに行くと、祭りの準備との兼ね合いで食材がなくなっていることがあるので、二日前には買い出しを終えると決めている。


 そのため、例年ならグインが祭り二日前の開店前には買い出しを終え、祭りで使う食材を買い込んだ状態になっているのだが、今年はそうならなかった。

 その原因となるのが、昨日の閉店時にオーランドから聞いた狼の獣人の話である。その狼の獣人がグインの知っているハンクと決まったわけではないのだが、そのことについて考えることをやめられず、店を開店する時にベネオラに指摘されるまで、自分が買い出しを忘れていることに気づかなかったのだ。


 仕方なく、昼を回って客足の落ちついたタイミングを狙って、グインは買い出しの出たのだが、内心では店のことが心配で堪らなかった。

 ベネオラはコーヒーを淹れることも覚束ないはずだ。そんなベネオラに店を任せて、無事にやっているのかと一度考えると、不安が募って顔が蒼くなる。もちろん、毛で顔色は見えない。


 グインは自分の持てる力を出し切り、買い物に全力を注ぐことにして、買い出しを進めていく。その甲斐あってか、グインは想定していた時間よりも早くに買い出しを終えることに成功していた。

 後は店に戻るだけだと思った瞬間、グインはここまで来た道をすぐに戻り始めていた。それまで買い出しを急ぐために使われていた不安の全てを帰宅に注いでいる形だ。


 時間帯的にそろそろアスマ達が来ている頃だ。アスマ達なら、多少の粗相は許してくれるに違いない。問題はそれ以外の客の方だが、そちらもベネオラなら、きっと器用にこなしているはずだ。何なら、アスマ達が助けてくれているかもしれない。


 そんな風に考えながら、グインの足は加速していく。物凄い速度で歩いている豹の獣人に、すれ違う人々は怯え切った表情をしているが、この時のグインにそんなことは関係ない。それが店の悪評に繋がるかもしれないとしても、グインは急ぐことを選択する。


 そうしていると、グインの目の前に知らない路地が現れた。いつもは裏道を活用しないので、その路地がどこに通じているのか分からないが、方角的には店の方向に伸びていて、うまく行けば大通りに出るのかもしれない。


 しかし、大通りに出るどころか知らない道に通じていた場合、店に帰る時間は短くなるどころか、いつも以上にかかることになってしまう。

 大通りに出ることで早く帰れるか、知らない道に出ることで迷子になるか。言ってしまえば、これは諸刃の剣なのだ。


 グインは路地の前に立って考え込む。もちろん、ここで考え込んでいる間にも時間は経っているので、考える時間も短くなくてはいけない。早く帰るための最善の選択をすぐに導き出さなければいけない。

 そうして考え込んだ結果、グインは一つの結論を導き出した。


 最悪、壁を登って屋根を伝って帰ろう。その結論に至ったことで、グインは躊躇うことなく、目の前の路地に入っていく。

 路地は少しばかり曲がっていたが、向かう先はやはり店の方向だった。このまま進んでいれば、きっと大通りに出るに違いない。だんだんとそう思うことができるようになり始める。


 そして、路地の途中の角を曲がり、もう少しで大通りに出そうなところで、グインの耳に一つの声が届いた。小さな少女の愛らしい声だ。


?」


 それはグインに急いで帰ることを忘れさせるほどの衝撃を与えてきた。自然と足が止まり、グインは声の聞こえてきた方に目を向ける。


 そこには、身体の大きな獣人が二人は座れそうな長椅子が置かれていた。何かの店というわけでもない、ただの家屋らしき建物の入口脇のことだ。

 その長椅子の左端に、小さな少女が座っていた。ベルと同じくらいの年齢に見える少女だ。


「あっ…!?ごめんなさい。が知り合いに似ていて、間違えてしまったわ」


 少女がグインの方に目を向けながら、そう言ったところで、少女の目がしっかりとグインを捉えていないことに気づいた。グインは少女に少し近づいてみるが、少女はグインを見上げるばかりで、そこに怯えた雰囲気はない。


「もしかして、君は目が…?」


 グインの問いに対して、少女は小さく首を縦に振った。その動きを見て、グインは少し迷ってから、隣に座ってもいいかと聞く。


「いいけど、どうして?」

「俺と雰囲気が似ているというその知り合いが気になって。ハンクって言うのかい?」

「ええ、そうよ。貴方と同じで、とても大きな人なの」


 獣人であるグインの大きさは特別だ。普通の人間でグインと同じくらいに身体の大きな人物はほとんどいない。ハンクという名前だけだと被ることはあるかもしれないが、そこにその身体の大きさまで重なると、それが別人である可能性の方が低くなる。

 グインはこの時点で、少女の言っているハンクがグインの知っているハンクだと確信していた。ハンクがこの近くにいることは既に間違いないと思い始めていた。


 グインが座ると、長椅子が大きく沈む。そのことに少女は少し驚いた顔をしたが、それもすぐに小さな笑みに変わった。


「本当にハンクと一緒ね。ハンクが座った時も、こんな風に沈んでいたわ」

「そのハンクという人も、こうやって隣に座っていたのかい?」

「そうよ。そこに座って、いろいろな話をしてくれたわ」

「どこで逢ったの?」

「ここよ。ここに座っていたら、たまたまハンクが通りがかったの。とても身体が大きくて、私が今までに知らないくらいだったから、ついつい声をかけてしまったの」


『凄く大きいのね』


 少女がそうハンクに声をかける瞬間が目に映るようだった。その声をかけられて驚くハンクの表情まで容易に想像がつく。


「ハンクは自分に声をかけてきたのかと驚きながら何度も聞いてきたけど、私の目が見えないことに気づくと、何故か凄く納得していたわ」


『そうか。だからか』


 ハンクがそう呟くだろうと思ったのは、グインも同じことを思ったからだ。少女が自分に声をかけてきた事実に驚き、少女の目のことに気づいた時に納得したからだ。獣人である自分達に声をかけてくる人はほとんどいない。それこそ、知り合いくらいのものだ。


「その人とどんな話をしたんだい?」

「何でもないことよ。身の回りであったこと。どうして私がここに座っているのかとか、そんなたわいのない話ばかりよ」

「それはどうして?」

「特に深い理由はないわ。ただ、ここを通る人の雰囲気を感じるのが好きなの。そうしたら、世界には私一人だけじゃないって思えるから」


 それはどこか寂しげな表情だったが、その表情もすぐに消えた。少女は何かを思い出した顔をして、どこでもない宙に目を向けている。


「そうだ。そういえば、ハンクにもこの話をした時、ハンクはとても寂しそうな声で答えてくれたの」


『ああ、そう思う時もあるよな』


「あれがどういう意味だったのか、まだ聞けてなかったわ。その時は何だか、あまり聞いてはいけない雰囲気がして、つい何も聞けなかったから」


 少女の話から伝わってくるハンクの姿は、グインの知っているハンクの姿と少しだけ違って聞こえた。それはグインの知らない期間がハンクを変えたのか、それとも、元からハンクが隠していたのか分からないが、そのことに確かな寂しさを覚える自分がいた。

 その寂しさの理由は良く分からなかったが、その寂しさをどのようにしたら取り除くことができるのか、グインは何故か本能的に分かっていた。そのために何が必要かもグインは既に知っているみたいだ。


「貴方はハンクと違って、どこか楽しそうね」

「ハンクは違ったのかい?」

「ハンクはどこか寂しそうだから。隣に座っているのに、どこか遠くにいるみたいなの」


 ハンクと少女が並んで座っている姿はすぐに想像できた。今のグインのように、少女との間に隙間を作って座っていたはずだ。そうしないと、少女の手が触れてしまい、ハンクは獣人であるとすぐにバレてしまう。そうなった時、少女が今と同じ様子で座っているとは限らない。

 言ってしまえば、その隙間が獣人と人間の隔たりなのだ。獣人が人間に対して感じる絶対的な壁なのだ。


 しかし、グインはそんな壁などない世界を知っている。この国に来て、ベネオラを見つけて、その世界を知ることができた。


 そう思ったところで、グインは自分が急いでいたことを思い出した。ハンクという声につい反応し、この場所に居座ってしまったが、急がなければ店でベネオラが何か粗相をしているかもしれない。ベネオラは賢い子なので、そんなことはないと思うが、可能性はゼロではない。


「すまない。急ぎの用があったことを思い出した」

「あら、そう。最後に一つだけ良いかしら?」

「何だい?」

「貴方の名前を聞いてもいいかしら?」


 少女が意外と恥ずかしそうに聞いてくることに、グインは少しばかり驚いた。同時に大人びた話し方や振る舞いと違って、年相応の一面があることに安心する気持ちもある。


「俺はグインだ。君は?」

「私はキナよ。グイン、また逢ってくれるかしら?」


 そう不安そうに聞いてくる姿に、グインはつい笑みを浮かべてしまい、キナは見えていないのに首肯してしまった。


「ああ、もちろん」


 グインがそう言った瞬間、キナは初めて子供らしい笑顔になった。さっきまでの話し方や振る舞いがきっと不安を隠すためのもので、この無邪気な雰囲気が本来のキナの姿なのだろうと思うと、グインはハンクがキナの隣に座った気持ちも良く分かる気がした。

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