前々日(8)

 いつもと比べると、カップを口に運ぶ手は遅いながらも、アスマが一杯を飲み終えようとしている頃、ベルはまだ紅茶を半分ほどしか飲んでいなかった。そろそろ冷め始めているが、そのことを気にして、急いで飲む気にはなれない。ベネオラの淹れる紅茶は不味くないが、ちょうど手が止まるくらいの美味しさでしかなかったのだ。

 ベルは適度に止まっていることがベネオラにバレないかと心配で仕方なかったが、この時のベネオラは幸いなことに、アスマと一緒にアサゴの話を聞いていて、ベルの様子に気づく気配はなかった。


 アサゴはアスマに聞かれるままに、自分のことを話している。流石にアスマのことは知っているはずなので、そのアスマに聞かれると答えずにはいられないという感じだ。ベルには分からない気持ちだが、一般的なことを考えると分からなくもないので、完全に否定することはできない。


「アサゴ君は何をしてるの?」

「え!?何をしてるとは…?」

「仕事とか」

「仕事、ですか…?えーと、そうですね…」


 アサゴをまっすぐに見つめるアスマの視線から、逃れるようにアサゴは目を逸らしていた。そのまま逸らした先を見つめながら、何かを考え込んでいる様子だ。

 その様子はベルの目に怪しく映り、つい疑うような目を向けてしまうと、今度はその視線にアサゴが気づいて、気まずそうに笑っている。それは悪戯が親にバレてしまった子供のような笑みだ。


「その、新聞記者をやってます」

「へぇ~、新聞記者なんだ~」

「私、新聞って呼んだことないです」

「え?ベネオラちゃん、そうなの?」

「俺もないですね」


 離れた席に座っていたはずなのだが、いつのまにか椅子を近づけていたオーランドは当たり前のようにアスマ達の会話に参加していた。ベネオラに何度かコーヒーのおかわりはいらないかと聞かれていたが、その度に断るという様子を会話の間に差し込んできている。


「新聞とか読む時間がないですし」

「そうですね。私もそうです。ところでオーランドさん、おかわりはいりませんか?」

「今はいいかな~。大丈夫」

「本当に大丈夫ですか?いくらでも淹れますよ?」

「うん。本当に大丈夫だから気にしないで」


 このようなやり取りがさっきから何度も繰り返されているが、ベネオラは諦めずに何度も挑戦している。まだ自分が淹れたコーヒーを美味いと言ってもらうことを諦めていないようだ。

 ベルも流石におかわりを淹れてもらう気にはなれないので、オーランドのこの対応も当たり前だと思うのだが、ベネオラはそのことを認めないつもりだろう。いつもなら、すぐにおかわりを頼んでいるアスマですら、今は空っぽのカップをそのままにしている。


 そう思いながら、アスマを見ているところで、アスマは何かを思い出したような顔をした。自分のポケットに手を突っ込んで、そこから新聞の切り抜きを取り出している。昨日、ベルがあげた物だ。


「これ!!これについて何か知らない!?」


 鼻息荒くテーブルの上に切り抜きを置いたアスマを見て、ベルは呆れた顔をせずにいられなかった。


「わざわざ持ち歩いていたのか?」

「もちろん!!」


 アスマはさも当たり前のように答えているが、ただの新聞の切り抜きをわざわざポケットに入れていることが当たり前のわけがない。普通なら眠って起きた時点で忘れているものだ。


 そのことにベルは呆れながらも、ついつい笑ってしまっていた。その笑みの出所がどこかベルには分からないが、悪い気分ではないことだけは確かだ。

 そう思っているところで、アサゴが新聞の切り抜きに目を落としている。そこには奇妙な記号が並んでいる。


「こ、これは何ですか?」


 一瞬、アサゴの表情が強張ったように見えたが、それもほんの一瞬のことで、ベルは気のせいだと思った。それよりも、そこに描かれた記号に困惑しているように見えて、ベルは同情してしまう。

 この国の王子に、こんな意味の分からない記号を見せられて、どのように反応したらいいのか分からなくなっているはずだ。困惑しても仕方ないと言える。


 しかし、アスマは絶望的に空気を読む能力が欠けているのか、アサゴが困惑している様子に気づいてすらいないようだった。新聞の切り抜きに目を落としたアサゴを見て、目をキラキラと輝かせている。


「どう!?新聞記者なら、何か知らない!?」

「いや~、ちょっと分からないですね~。これは何ですか?」

「暗号なんだよ!!」

「暗号…?」


 意味の分からない新聞の記事に、意味の分からないアスマの発言が重なり、アサゴの困惑は更に深まったようだった。笑みにもならない苦笑を浮かべたまま、アスマの視線に動きを止められている。

 その様子は流石に可哀相と思うもので、ベルは助け船代わりの説明を始めることにした。


「この記号。ところどころ共通点があるだろう?恐らく、文字だと思うんだ」

「文字…」

「その読めない文字が新聞に載っていたから、ちょっと暗号って騒ぎ出した奴がいてな。それでアスマも、それが暗号だって言い張っているんだよ」

「言い張るじゃなくて暗号だよ!!」

「こんな感じで」

「ああ、そういうことなんですね」


 ベルのアスマに対する接し方を見て、アサゴは幾分硬さが解れたようで、少しだけ表情を緩めていた。アスマの発言をそこまで真剣に考える必要がないことに気づいたに違いない。


「何か知らなくても、これが読めたりしない?」


 アスマが今度はそう聞いてきても、無事にかぶりを振ることができていた。アスマはガッカリしていて、そのことに申し訳なさそうな顔をしているが、そもそも読めるはずがないので、申し訳なく思う必要がない。


「これで調査は振り出しに戻ったね」

「そもそも、そこから動いていないがな」

「調べて何か分かるんですか?」

「探偵アスマに解けない謎はないよ」

「探偵アスマ?」


 アスマの言葉に疑問を抱き、不思議そうな顔をしながらも、今度は明確にベルの方を見ながらそう聞いてきた。どうやら、アサゴもアスマに対する接し方を心得てきたようだ。適度な距離を保たないと、真面に接することができないのがアスマの厄介さだ。


「アーサーという作家が書いている探偵シャーロックシリーズと呼ばれる小説を知っているか?あれにハマっているんだよ、こいつは」

「たっ…!?探偵シャーロックシリーズですか…へぇ~」


 アサゴはベルの説明に少し驚いた顔を浮かべながら、アスマのことを見ていた。やはり、国の重要人物である王子が、市井で人気の小説を読んでいるとは思ってもみなかったのだろう。ベルもアスマのことを知らなければ、きっと同じ驚きがあるに違いないと思う。


「ま、まあ…は面白いですからね…」

「ホームズ?」


 探偵シャーロックシリーズの話をしていたはずなのに、聞き覚えのない名前が登場したことで、ベルやアスマがきょとんとした顔をしていると、アサゴは急にあたふたと慌て始めた。その様子に二人の疑問は深まるばかりだ。


「何だ、ホームズって?」

「いっ…!?いや!?何でもないんです!?そ、そういえば!!探偵シャーロック展が祭りの初日に出版社であるらしいですね!?」

「え?何それ?行かなきゃ」

「何だ、その使命感?」


 アサゴの余計な一言がアスマの好奇心に燃料を注ぐようで、ベルはつい睨むような形でアサゴに目を向けてしまった。その視線にアサゴは怯えたのか、一瞬表情を強張らせたかと思うと、ベルから逃れるように目を逸らしてしまう。


「アサゴ君は祭りの時にどうするの?」

「僕は仕事があるんで、あんまりですね」

「ああ、祭りの取材か」

「み、皆さんはどうなんですか?」

「俺はベルと一緒に回るよ」

「そういうことだ」

「私はこの店があるので手伝いですね」

「俺も仕事があるから、祭りは楽しめないな」

「そ、そうなんですね」


 そう言いながら、コーヒーを啜ったことで、アサゴのカップが空になったようだった。それをベネオラは見逃さない。


「アサゴさん、おかわりはいかがですか?」

「え?あ、ど、どうしましょうかね」

「遠慮なく言ってください」


 本当に遠慮なく言ってしまうと、恐らく泣き出すだろうと全員が思った。何とか話を逸らす方向で頼むように、ベネオラ以外の全員の目がアサゴに向くと、アサゴは困惑を隠すことなく表情に出した。

 ベネオラの期待の眼差しに晒されながら、アサゴは必死に何かを考えて、苦し紛れの一言を導き出す。


「そういえば、この店の店主ってどんな人なんですか?」

「え?お父さんですか?お父さんはじゅ…」


 ベネオラがそこまで言った瞬間、アスマとオーランドの連係プレーにより、ベネオラの口が封じられた。その一連の動きを見ていて、ベルはつい呆れた顔をしてしまう。またロクでもないことを考えているようだ。


「お父さん?ベネオラさんのお父さん何ですか?」

「そうそう。ベネオラちゃんのお父さんで、それでえーと…」

「デカい!!凄く身体がデカい!!」

「そ、そうなんだよ!!とにかく、大きい!!」


「あと毛深いな」

『ちょっ…!?』


 ベルが呟いた一言に、アスマとオーランドは動揺を隠し切れていなかった。ベルは思わず笑いだしそうになってしまうが、幸いなことにアサゴは気づく気配がない。


「大きくて毛深い…どれくらい毛深いんですか?」

「えーと…どれくらいだろう?」

「俺ですか!?その~、思っているより…?」

「プフッ!!」


 ベルはついに我慢できなくなって思わず吹き出していた。アスマとオーランドが動揺と怒りの混ざった目をベルに向けてくるが、ベルの笑いはその程度では止まらない。


「どうしたんですか?」


 その中でアサゴとベネオラだけ不思議そうな顔をしていて、そのことがベルの笑いに新たな燃料として注がれるのだった。

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