前々日(7)

「いらっしゃいませ」


 その声はパンテラのドアベルのように、いつもと同じトーンで響き渡る。アスマやベルを始めとする店を訪れた客を出迎えるベネオラの声だ。それがパンテラの顔であり、その声とそこに広がる景色を見ると、ベルもアスマも落ちつくことができた。


 しかし、その日は少し違っていた。ベネオラの声まで同じだが、その先にある景色が違っている。


「あれ?グインは?」


 開口一番、アスマがそう切り出した。いつもなら、カウンターの向こうに納まっている巨大な身体が、今日はどこにも見当たらない。

 あの身体を仕舞うのは大変なはずなので、何か用事があって店の奥に引っ込んでいるのだろうかとベルは思ったが、ベネオラの返答はその考えとは違うものだった。


「お父さんは買い出し中です」


『え!?』


 それは珍しく、アスマとベルの声が揃った瞬間だった。隅の席でコーヒーを啜りながら、話をこっそり盗み聞きしていたオーランドが、その声の大きさに驚いたようで、コーヒーを吹き出しかけている。


 ベルがパンテラに通い始めてから、まだ二ヶ月程度しか経っていないが、店にグインがいないところを見たことがなかった。パンテラには常にグインがいて、カウンターの向こうでコーヒーを淹れている、そんなイメージだ。

 ベネオラのしていることと言えば、接客とグインに頼まれて、店の奥から何かを取ってくるくらいのものだ。ベネオラがカップを手に取り、コーヒーを淹れる素振りを見せたことも、それ以外の菓子類を作っているところも、ベルは一度も見たことがない。

 グインが料理を作り、ベネオラがそれを提供する。そのバランスがパンテラの一番の売りのはずだ。


 それなのに、今日はグインが買い出し中だとベネオラは言った。食事を提供するカフェで、その食事を作る創造主がいないとベネオラは言った。

 その衝撃たるや言葉が続かないほどだった。

 それはベルだけに止まらず、アスマも同じようだった。ベルの隣で驚いた顔のまま、次の言葉を紡げずに口をパクパクと動かしている。


「ちょっと二人何ですか!?」


 ベルとアスマの態度を見て、ベネオラは不満そうにプンプンと怒り出した。全身を使った怒りの表現に、ベルとアスマは普段なら困惑するところだが、今日はそれ以上に心配する気持ちが勝ってしまう。それくらいにグインがいないことは大きな出来事だった。


「ん??」


 ベルがそこに含まれた意味を汲み取り、ベネオラからオーランドに目線を移す。オーランドは驚いた時にコーヒーが変なところに入ったようで、小さく何度も噎せている。


「オーランドにも心配されたのか」

「え…?ん、まあ、そうだね…ゴホッ!!」


 オーランドは軽く噎せながらも、ベルの呟きに答えてくれた。その二人の当たり前という反応がベネオラの怒りに油を注いだようだ。ベルとアスマの前でベネオラは更に全身を使って、プンプンと怒り出している。


「何で、みんなそうなんですか!?私一人でも大丈夫ですよ!?」

「本当に?ベネオラちゃん一人で大丈夫なの?」

「ちゃんとコーヒーと紅茶くらい淹れられます!!」

「そういえば、オーランドもコーヒーを飲んでるな」


 ベルとアスマがオーランドを見ると、オーランドは二人に見せつけるようにカップを持ち上げた。まだ湯気が立っているのが分かるので、淹れてからあまり時間が経っていないはずだ。


「それもベネオラが?」

「もちろん」

「味はどうなの?」

「割引されるらしいから、そんなに悪い物でもないですよ」

「割引なかったら悪いみたいな言い方じゃないですか!?」


 オーランドの無慈悲な感想にベネオラがショックを受けたところで、オーランドはカップを置いて、ベルとアスマの後ろを指差してきた。そこには、さっきまでのベルやアスマとベネオラのやり取りを見て、困惑由来の苦笑を浮かべた男が立っている。


「殿下、その人は誰ですか?」

「ああ、この人はね…」


 そこまで言って、アスマはしばらく考えている。その様子を見てベルも思い出すが、まだそこに立っている男の名前を聞いていなかった。


「えーと、財布の恩人だよ」

「財布の恩人?命の恩人じゃなくて?」

「ある意味、命の恩人だね。俺の落とした財布を拾ってくれたんだから」

「ああ、そういうことですか。それで名前は?」

「名前は?」

「えっと、ア…アサゴです」

「アサゴ君だって」

「うん。殿下と同じタイミングで聞きましたよ?」


 グインが買い出し中で店にいないという衝撃によって忘れていたが、ベル達は入口前に立ったまま話し込んでいた。いつまでも立ったままだと疲れる上に、この場所に立っていては邪魔になる。ベルはアスマの背中を軽く押して、近くの席の方に歩かせた。


「ほら、そろそろ座るぞ」

「ああ、そうだね。アサゴ君もこっち」


 入口から最も近いテーブルに近づき、ベル達三人は腰を下ろす。着席と同時にベネオラが近づいてきて、プンプンと怒った様子ながらも、ベル達から注文を取ろうとしている。


「何を頼みますか!?」

「ベネオラちゃん、落ちついて。怒りが顔に出過ぎだよ?」

「そうだぞ。接客業なんだから、イライラしてもそこは繕わないと」

「わ、分かってますよ」


 不満そうに頬を膨らませながらも、ベネオラは納得したような態度を取っていた。そんなベネオラに向かって、アスマはコーヒーを、ベルは紅茶を頼む。

 それから、アスマはアサゴに何かを頼むように促すが、アサゴはメニューと顔を合わせたまま、困ったような顔をしているだけだ。さっきまでのやり取りを聞いて、何を頼めばいいのか分からなくて困っているようだ。


「えーと…おすすめは?」

「コーヒーだね」

「紅茶だな」

「どっちですか?」


 更に困惑するアサゴの前で、ベルとアスマは互いに睨み合っていた。普段は子供のアスマに付き合っても意味がないので、ベルは何かを譲ることが多いのだが、これだけは譲れない。


「絶対コーヒーだよ!!」

「いや、紅茶だ!!」

「あの~、その~…」

「コーヒー以外考えられないよ!!」

「紅茶だ!!これは譲れないな!!」

「えっと、僕はどうしたら…」


 ベルとアスマが睨み合っていても、この問題に結論が出ることはない。そのことを察したベルは第三者に結論を出してもらう必要があると思った。この店のメニューにある程度詳しく、店の関係者ではない第三者となると、この場所には一人しかいない。


「オーランド!!お前が決めてくれ!!」

「え?ちょっとベルさん?俺?」

「そうだね!!オーランドが決めてよ!!」

「殿下まで!?」


 ベルとアスマに挟まれて、オーランドは表情を歪めていた。コーヒーと紅茶のどちらが好きかというだけの話のはずだが、オーランドの表情を見ていると、この選択が人生に影響を及ぼすほどのものに見えてくる。


「えーと、そのー、素直な気持ちでいいですか?」

「もちろん」

「それ以外にないだろう?」

「そうですよね~。えーと…」


 そう言いながらも、オーランドはそれからまだ悩み続け、気づけばベネオラの怒りが綺麗に消えているくらいの時間が経過していた。散々悩んだ結果、オーランドは言葉より先に手元にあったカップを持ち上げる。


「コ、コーヒーで」

「ほら!!」

「何故だ!?」


 ベルは心底納得いかなかったが、この結論によって、無事にアサゴの注文が決定した。

 ベネオラがすぐにカウンターの向こうに移動して、覚束ない手つきでコーヒーと紅茶を淹れ始める。ベルやアスマはその様子を心配そうな目で見守っていた。アサゴもそれに釣られてか、ベルやアスマと同じようにベネオラを見守っている。


 ベネオラの手つきは心底心配になるほど覚束なかったが、それでも確かにコーヒーと紅茶を淹れることはできるようで、最終的に二杯のコーヒーと一杯の紅茶が誕生していた。

 淹れ終わった瞬間、満足そうな顔をしてから、ベネオラがコーヒーと紅茶を運んでくる。ベル達三人の前に、それぞれ頼んだ飲み物が入ったカップが置かれる。


「お待たせしました。自信作です」


 ベネオラは自信満々にそう言っていたが、ベルとアスマには不安しかなかった。カップを手に取ってみても、口に運ぶことを躊躇ってしまう。


「うん。良い香りだね」

「そうだな。香りはいいな」

「飲んでくださいよ!?」


 ベネオラの叫びに促され、仕方なくベルとアスマはカップを口に運んでいく。さっきも言った通り、香りは悪くないので、味の方もそこまで悪くないはず、そう信じて一口啜る。


「うん。不味くないね。不味くはない」

「そうだな。不味くはないな」

「でも、そこまで美味しいわけでもないね」

「そうだな。いつもの値段なら、ちょっと高いと思うくらいの味だな」

「二人共、感想が酷い!?」


 その後、アサゴも一口飲んでみたが、その感想はまとめると普通の一言以上のものはなく、結果的にベネオラの自信は粉々に砕け散ることになった。

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