前々日(6)

 アスマはエアリエル王国の第一王子であるが、それ以上に馬鹿である。ベルはそのことを良く理解していたはずなのだが、それでも泥棒を探すために剣の稽古を抜け出したことで、その後、危うく漏らすところだったという話を聞いた時は、あまりの馬鹿馬鹿しさに頭が痛くなった。

 アスマの馬鹿さはどうやら、ベルが簡単に想像できる領域を超えているらしい。


「そういえば、ベルの全財産はどうなったの?見つかったの?」

「いや、恐らく見つからないらしいんだが、ただ王国が補償してくれるらしい。私の全財産も返ってくるみたいだ」

「それは良かったけど、見つからないってことは泥棒が捕まらないってこと?」

「そういうことだな。見つけるのは難しいそうだ」

「やっぱり、探偵アスマの出番なんじゃない?」

「そいつの出番は永遠に来ない」

「そんなことないよ。俺が調べたら、すぐに犯人を見つけるって」


 アスマがルーペを覗き込むような構えをしながら、ベルの顔を覗き見てきたところで、不意に何かを思い出した顔をする。


「そうだ。パロールから伝言があったんだ」

「ん?パロールから?」

「そう。祭り前に身体を調べておきたいから、明日検査するって」

「ああ、そうか。分かったってお前に言っても意味ないな」

「まあ、大体いつもくらいの時間に行けばいいと思うよ」

「長めの昼休みだな」


 ベルはそこでアスマがどこか悲しげな表情をしたように見えた。それはとても小さな変化で、気のせいだと言われたら、気のせいだと思うしかないくらいの変化だ。


「どうした?」

「ん?何が?」


 そう聞いてくるアスマの表情はいつものもので、ベルはやはり気のせいかと思うことしかできない。


「いや、何でもない」

「そうだ。竜王祭で思い出したけど、ベルはどうなったの?一緒に回れるの?」

「ああ、そのことか。何か、普通に三日間、休みになった」

「普通に?」

「普通に。特に何かを頼む前に。当たり前だろ、みたいなニュアンスで休みが取れた」

「ちょっと意味が分からない」

「私も同じだ」


 王都の大通りには人が多く、ベルとアスマはその隙間を縫うように歩いていた。今日もアスマの存在に気づく人はいるが、そのことを騒ぐ人は誰もいない。アスマはやはり、王都の街並みの一部になっているようだ。


 そうしていると、あまりに一部になり過ぎていたのか、アスマは前方から走ってきた子供とぶつかった。アスラと同じくらいの年齢に見える少年だ。

 アスマは倒れ込みそうになる少年を支えながら、咄嗟に謝罪の言葉を口にしている。


「ごめんね!!大丈夫!?」


 少年はアスマを一瞥して、何も言うことなく再び走り出してしまう。アスマはそれを呆然とした様子で見送っている。


「余程急いでいたんだな」


 ベルがアスマに近づいていくと、アスマは照れたように小さく頭を掻いていた。


「悪いことしちゃったなぁ」

「私達も急ごうか」

「そうだね」


 アスマの隣に並んで再び歩き始めたところで、ベルはパンテラに向かう前に確認しておかなければいけないことを思い出した。ベルの懐はいつもより軽い。


「そうだ。私はまだ金が返ってきてないから、何も払えないんだが、借りられるか?」

「ああ、それなら、安心してよ。そんなことだろうと思って、ちゃんと多めに持ってきたから」


 そう言ってアスマは自慢するように、自分の胸元に手を突っ込んで、そこに入っている金貨の入った袋を取り出そうとしている。

 取り出そうとしているのだが、そこから一切手が出てこない。袋を握って出てくるはずの手が一切見えない。


「どうした?」

「いや…えっと…あれ?」


 アスマの間抜けな声に、ベルは猛烈に嫌な予感がしていた。



   ☆   ★   ☆   ★



 男は王都の大通りを俯きがちに歩いていた。祭りを二日後に控えて、活気に満ちている街の中では、その姿は異質と言える。その暗さは同時に存在感の薄さも招いていて、誰も目を向けていないが、気づけば心配して声をかけてしまいそうなくらいに、男は俯いている。

 男は仕事に関する大きな悩みを抱えていた。その悩みは簡単に解消できるものではなく、ただ俯いて考えているだけで解決に近づけるものではない。


 しかし、だからと言って、深刻に考えたところで答えの出ない悩みでもあったので、結局男にできることは悩むことしかなかった。

 悩んで悩んで悩んで、とにかく悩んで、そこに納得できる答えが見つかるまで待つしかない。


 大通りを歩いているのも、特に目的があるわけではなかった。その納得できる答えが見つかる瞬間まで考え込むとするなら、歩いている方がそうしやすいと思っただけだ。大通りという場所も、ただ歩いていたら辿りついただけで、大通りを歩かなければいけなかったわけではなかった。


 この先に何か目的地があるわけでもないので、男は俯いたまま、だんだんと悩みと並行して、どのように来た道を帰るかということまで考え始める。振り返って戻ってもいいが、別の道を検討するのも悪くない。その考えは男の中で膨らんでいき、やがて本題の悩みの方よりも白熱し始める。

 男はこの辺りの地理について、特別詳しいわけではなかった。大通りから路地に入ったところで、どの道に出るのかということを詳しく覚えていないので、そこから迷子になる可能性も十分にある。

 つまり、ここでの選択が男を殺す可能性すらあるのだ。


 道に詳しくない理由にも繋がるのだが、男は部屋に籠っていることが多かったので、長時間歩くだけの体力があるかも不安だった。考え込む必要は十分にあるのだが、あまりに考え込み過ぎて、疲れ果てて帰れなくなる可能性も考えられる。

 そろそろ、男は考えをまとめるべきだと思い始めていた。それは道のこともそうだが、歩き始めた理由のところである悩みについてもそうだ。男は一定の答えを導き出さなければいけないところまで来ている。


 そう思い始めたところで、男は衝撃に襲われた。突然の衝撃は男の身体を吹き飛ばし、地面に身体を投げ出す結果となる。

 何があったのかと顔を上げてみると、そこでは小さな少年が同じように倒れ込んでいた。


 どうやら、少年とぶつかったようだ。男は俯いていて、前方から走ってくる少年に気づかなかっただけでなく、少年の方も歩いている男の存在に気づかなかったらしい。男を見る少年は少しばかり驚いた顔をしていた。

 男は反射的に謝罪の言葉を口にしていた。身体を起こしながら、少年に手を伸ばす。


「ごめんなさい!!大丈夫ですか!?」


 男のその問いに少年は何も答えなかった。男に軽く目を寄越してから、すぐに立ち上がって、その場から走り去ってしまう。

 男はその姿をただ呆然と眺めていた。自分の発した言葉だけが宙に浮かんでいるようだ。


 数秒後、男は我に返って、ゆっくりと立ち上がろうとする。そこで男の前にさっきまでなかった物が現れていることに気づいた。

 成人男性の拳より少し大きいくらいの袋に、全体を金で作ったように輝いている鍵が落ちている。さっきまでなかったそれらは、誰かに探される様子もなく、そこに二つ並んでいる。

 もちろん、男の持ち物に袋と鍵はない。それらが男の落とした物なのなら、すぐに拾っている。


 少し悩んでから、男は袋に手を伸ばした。持ち主が誰か分かるか、中身から確認しようとする。

 しかし、中身はただの金貨ばかりで、持ち主が分かりそうな物はない。


「金貨!?」


 思わず叫んでから、男は自分の口を押さえた。さっと袋と鍵を懐に隠し、周囲に目を配る。幸いにも、誰も男の声を聞いていなかったようだ。

 もう一度袋を取り出し、中身を確認してみるが、その中はやはり金貨ばかりだった。どれくらい入っているか分からないが、平均的な市民が簡単に持てる額ではないはずだ。


 男はさっきぶつかった少年のことを思い出した。もしも少年がこの袋を落としたのなら、かなり困るはずだ。すぐに届けなければいけない。

 そう思って立ち上がった瞬間、前方から叫び声が聞こえてきた。


「袋がない!?何で!?どうして!?」

「まさか、お前忘れたのか?」

「そんなはずないよ!!ちゃんと金貨を入れて懐に入れたんだよ!!」

「金貨とか叫ぶな!!」


 周囲の目を集めるほどに騒がしい二人組の声から、男は自分の手の中にある袋について考えていた。金貨の入れた袋がここにあり、前方でそれをなくしたと騒ぐ少年がいる。金貨の入れた袋がそうそうあるはずもなく、二つ以上あることの方が珍しい。

 もしかしたら。男は一つの考えに行きつき、袋と鍵を持ったまま、前方の騒がしい二人組に近づいていった。必死に自分の身体を探している少年に向かって声をかける。


「あの~。これ、落としませんでしたか?」


 男の声に反応して振り返ったその少年は、どこか見覚えのある少年だった。

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