前々々日(10)

 大通りに面した白と緑を基調とした建物に、パンテラと書かれた看板が掲げられていた。ここがベルと逢う以前からアスマが通っているカフェだ。アスマの好きなコーヒーが美味しいところも魅力であるが、アスマはもっと違うところを魅力だと感じている。

 それは店に入るとすぐに分かる。


「いらっしゃいませ」


 アスマが扉を開いた瞬間に、店の中にいた少女が声をかけてきた。アスマと同じくらいの年の少女で、緑を基調としたワンピースにエプロンをつけていて、アスマはベルの格好と似ていると思っている。

 少女の名前はベネオラと言った。その笑顔でパンテラを訪れた客を笑顔にする看板娘だ。


 彼女目当てで店を訪れる客も多くいるのだが、アスマの考えるパンテラの魅力は彼女ではない。その更に奥にいるこの店の店主の方だ。


「いらっしゃい」


 店の奥に設置されたカウンターの向こうから、とても野太い声が聞こえてくる。そこには、豹の頭に毛皮を持った大きな男が立っている。


 彼はこの店の店主で、名前をグインと言った。豹の獣人で、かつては獣人の国と呼ばれたセリアン王国で軍人をしていたそうだ。

 それから、エアリエル王国に来たグインは、十六年前にベネオラを拾って育て始めると、生活のためにこの店を始めたらしい。


 そしてこのグインこそが、アスマがパンテラに通い始めた理由だった。アスマは街中でグインを偶然目撃して、このパンテラの存在を知り、獣人であるグインに逢うためにパンテラに通い始めたのだ。


「アスマ君とベルさん。好きな席に座ってくださいね」


 入ってきたのが二人であることを知った途端、ベネオラは表情を和らげて、近くの席を手で示している。アスマとベルはいつもと同じように、入り口近くの席に腰を下ろした。


 店には他に二人の客がいた。アスマと同じように、この時間帯のこの店に通っている大工のラファエロとオーランドだ。二人も最初こそアスマに驚いていたが、今では他の王都の市民と同じように、アスマを日常にいる存在に思っているようで、こうして店に入ってきても何も言わない。


「じゃあ、俺はコーヒーね」

「私は紅茶を頼む」

「二人共、いつものだね。お父さん、いつもの」


 ベネオラがグインにオーダーを伝えると、グインは早速コーヒーと紅茶を淹れ始めていた。


「こんにちは。アスマ殿下とベルさん」


 アスマとベルが注文を終えたところで、オーランドがアスマ達に声をかけてきた。


「ラファエロとオーランド。二人は仕事終わり?」

「そうですよ。殿下はいつも通りですか?祭り前なのに何もすることがないんですか?」


 この竜王祭の主役はアスマであるはずなのに、アスマは何もすることがないのかとオーランドがアスマの状態を弄るような発言をしたところで、ベルはそのことに対する疑問を覚えたようだった。


「そういえばそうだな。お前は何もすることがないのか?主役なんだろ?」


 ベルのその発言を聞くなり、アスマだけでなく、オーランドやラファエロもきょとんとした顔をする。その顔にベルもきょとんとしたところで、オーランドが半ば笑いながら答える。


「何を言っているんですか、ベルさん。殿下に仕事を任せる人がいるわけないじゃないですか」

「間違ってないんだが、私が間違っているみたいに言われると、凄く腹が立つな」


 ベルは軽く不機嫌になったようで、眉間に皺を寄せている。それを見て、オーランドは純粋に笑っているが、ラファエロは困惑したように苦笑いを浮かべている。


「二人はやっぱり忙しいの?」

「ええ、もちろん。この時期は仕事が増えていますよ」

「そんな中でも、二人はパンテラに来るんだね」

「こいつがどうしても来たいって言うんですよ」


 ラファエロがオーランドを指差しながらそう言ったことで、オーランドは少し照れたように顔を赤らめていた。


「ここでコーヒーを飲んでいると、そこでようやく仕事のことを忘れて、プライベートに戻れる気がするんですよ」

「ああ、分かる。グインの淹れるコーヒーって落ちつくよね」

「お前は何の仕事も任されていないけどな」

「殿下は年中プライベートですね」

「俺だって忙しいんだよ」

「何が?」

「…………遊ぶのが…?」

「やっぱり、殿下ですね」


 オーランドのその納得が馬鹿にされたようで、アスマが憤慨しかけたところで、ベネオラが注文のコーヒーと紅茶を持ってきた。


「はい、お待たせしました。これがコーヒーで、こっちがミルクティーです」

「あっ、ありがとー」

「ちょうど良かった。ありがとう」

「どういたしまして」


 アスマは置かれたコーヒーカップを手に取り、軽く啜る。コーヒーも紅茶もグインの特製ブレンドで、その味わいはここでしか楽しめないものだ。アスマはこのコーヒーの風味が堪らなく好きだった。

 それを深く味わおうとしたところで、アスマとベルの前にカップを置いたベネオラが話の続きに参加する。


「今ってお祭りの話をしてた?」

「うん。お祭りなのに、俺が暇って話をしてた」

「みんなって、お祭りの間の予定は決まってるの?二人とか、あとはシドラスさんとか」


 少し顔を赤らめてベネオラが聞いたところで、ベルやオーランドは小さく笑って顔を見合わせていたが、それらの意味をアスマはいまいち分かっていなかった。ただ何となく、今朝に聞いたばかりのシドラスの予定のことを話す。


「シドラスは俺と一緒に回るみたいだよ。護衛だって言ってた」

「そ、そうなんだね。そうか、アスマ君と回るのか…」

「俺は普通で、ベルは…」


 そこまで言ったところで、アスマはシドラスから予定を聞いた時に思ったことを思い出す。


「そういえば、ベルは一緒に回れるの?」

「祭りの最中か?そういえば、皆は何か休みとか出していた気がするな。特に私は何も考えていなかったが」

「一緒に回らない?俺はベルと一緒に回りたいよ」


 アスマが素直にそう言うと、ベルは少し戸惑ったように離れてから、アスマから目を逸らした。そのまま、目を合わせることなく答える。


「…ん、分かった…」

「良かった」


 アスマは無事にベルも一緒に回れることになり、ホッとしながらコーヒーを啜った。その隣でベルがベネオラに予定を聞き返している。


「ベネオラはどうするんだ?」

「私はお店の手伝いがあるので」


 ベネオラがそう言ったところで、アスマ以外の三人の目がグインに向いた。グインはその視線を察知したのか、気まずそうな顔でこちらを見てくる。


「酷い父親だな」


 ベルがぼそりと呟いたことに、グインは苦笑いを浮かべるばかりで、何も言い返せない様子だった。ベルは心配するようにベネオラに目を向けている。


「ベネオラは大丈夫なのか?そんなにずっと店の手伝いばかりで」

「はい。私、この店が好きですから」

「凄くいい子だ。私の娘に欲しいくらいだ」

「マスターはいい娘を持ったね」

「うん、その少しずつ責められている感じが絶妙に辛いな」


 グインはついに白旗を掲げたようだった。流石にベルもそれ以上の追い打ちはしないようで、話をベネオラの心配に戻している。


「しかし、グインとベネオラだけなんだろう?二人で大丈夫なのか?祭りの最中に客が増えたりしないのか?」

「少しは増えるけど、店が回らなくなるほどではないんですよ。席には限りがあるし、それに入ってこないお客さんも多いですから」

「入ってこない?何故?」

「それは…」


 ベネオラが口ごもったところで、オーランドとラファエロが答えを教えるようにグインに目を向けていた。ベルは二人のその様子で納得したようで、黙って紅茶を啜っている。


「怖くて悪かったな」

「あ、気づいた?」

「はっきりこっちを見ておいて、気づかないわけがないだろう?」


 オーランドは笑っていたが、グインはどこか落ち込んだように溜め息をついていた。


「軍人だった頃は他の獣人の方が怖かったんだがな」

「グインより怖い獣人っているの?」

「もちろん、そっちの方が多いくらいだ」

「例えば?」

「例えば、虎とか狼とかプードルとか」

「いや、最後だけおかしいだろ?怖くない上に、やけに具体的だったんだが」

「犬、飼いたいな」

「今の流れでその感想?」


 アスマとベルのやり取りを見て、ベネオラがくつくつと笑い出している。パンテラで流れる時間の多くは、これくらいの雰囲気だった。

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