前々々日(6)
自室にて準備と言っても、エルが持ち出したのは小さなルーペ一つだった。ルーペと言っても、ただのルーペではなく、覗くことで魔力の痕跡を見ることができる、特殊なルーペだ。
エルがこれだけを持ち出したのは、スージーの話にあった幽霊らしき人影に魔術が関わっている可能性が非常に高かったからだ。
そこに問題があるかどうかは別として、非日常的な出来事の多くは魔術的側面から見ると、ただの日常でしかないことが多くある。今回もその類に可能性が非常に高かった。
スージーから仕入れた情報を頼りに、エルは幽霊らしき人影の目撃場所に向かう。そこは使用人の居住棟がある方で、エルが普段は近寄らない場所だ。
そんな場所に向かっている途中だから、名前も分かってある程度話したことのある人とは逢わないとエルは思っていたのだが、その予想に反して、前方には見知った顔が立っていた。
「おーと、これはエル様。珍しい」
そう言って、芝居がかった動きで礼をしてきたのは、騎士の一人であるヴィンセントだった。エアリエル王国軍の現在の最高司令官であるグスタフと同期であり、現役最年長の騎士である。
それくらいに長い間、騎士をしていると自分の後輩が上司になることもあり、現在の騎士団長もその一人なのだが、当の本人は非常に軽い性格で、あまり真面目ではないこともあってか、そのことを気にしている様子がない。
「ヴィンセントさんこそ、珍しいというか、こんなところにいるんですね」
「使用人の居住棟も近いからね。それはたくさんのメイドちゃんがこの辺りにはいるんだよ」
「ヴィンセントさんは欲求に素直で、そういうところ嫌いじゃないよ」
「ありがとう。エル様は何をしているところ?」
エルはお返しとばかりに芝居がかった動きで、ヴィンセントの顔をルーペで見る。
「幽霊の正体を見に行くところ」
「幽霊?」
エルが興味を持つほどの聞き慣れない言葉の登場は、ヴィンセントにも驚きのようだった。首を傾げてルーペ越しにエルの目を見てくる。
「メイドの一人が見たって言っていてね。窓の向こうに人影があったんだけど、一瞬で消えたから、あれは幽霊に違いないって」
「窓の向こうの人影?」
恐らく、そのフレーズだけでエルが考えていることをヴィンセントは察したはずだ。長年騎士をやっているだけあって、その剣の腕や思慮深さは並大抵のものではない。魔術に関する知識の差をなくせば、エルの思いつく程度のことはヴィンセントも思いつくことだろう。
「なるほど。それでエル様が調査か。それで、そのルーペは魔術に関する道具?」
「そうそう。これで見ると、本来は見えないはずの魔力が見えるんだよ」
「ふ~ん、これでね」
ヴィンセントはルーペをまじまじと見ていたが、ルーペに変わったところは見当たらないはずだった。
このルーペの秘密はガラス部分にある。このガラスを加工する際に、薄らと目に見えないくらいの溝が彫られていて、それが術式となって魔力を可視化する魔術を発動しているのだ。
魔力自体は誰もが持っているもので、その誰もが持っている程度の魔力があれば、この魔術は発動するので、このルーペさえ手に入れば、誰でも魔力の痕跡を探せるということになる。
ただ一つだけ問題なのが、ルーペの値段だ。ガラスを加工する技術は同じ魔術が用いられており、ルーペ自体は誰でも使えるが、作れるのは魔術師しかいないというある意味で、魔術師が専門的に関わる道具なので、その値段が普通のルーペからは考えられない値段になる。
覗いてみたいと言い出したヴィンセントに、その値段を伝えたところ、触れることすら嫌がるほどに、その値段は高い。
「そんな物をそんな簡単に持つなんて凄いなあ」
「何だって専門的な仕事に就く人は、仕事道具の値段を惜しまないだけだよ」
「まあ、それは分かる。俺も女の子に対する出費は惜しまないし」
「ハハッ。ヴィンセントさんはそれが原因で死にそうだね」
「腹上死ってこと?」
「ああ~、まあ、そんなところかな?」
ルーペ一つでヴィンセントの死因まで決まったところで、エルはそろそろ目的地に向かおうかと考え始めていた。ヴィンセントの立ち話も悪くはないが、悪くはないところが悪いところでもある。
時間の浪費は凄まじく、気づけば死体になっていてもおかしくないほどだ。
「じゃあ、俺はそろそろ行くよ。またね、ヴィンセントさん」
「ちょっと待ってくれ、エル様。俺も一緒に行くよ」
「え?ヴィンセントさんも?幽霊は女と決まったわけじゃないよ?」
「そんなに飢えてると思われてる?」
エルが否定することなくうなずきながら、話を聞く姿勢を見せると、ヴィンセントは真面目な雰囲気を作ってから答える。
「確かに飢えてる」
「そこじゃないね。俺が聞きたいのはそこじゃないね、ヴィンセントさん」
「あっ、行く理由の方?」
「そっちだね。そっちしかないよね」
「いや、だって、悪い予想が当たったら、俺がいた方がスムーズでしょう?」
「割と真面目な理由でガッカリだよ」
そう言いながらも、エルはヴィンセントの同行を拒否することなく、二人は揃って幽霊らしき人影の目撃場所に向かうことになった。
☆ ★ ☆ ★
当たり前のことなのだが、幽霊らしき人影の目撃場所は普通の場所だった。面した建物は廊下が出っ張っているところであり、窓の向こうに見える廊下の上には、二階ではなく屋根がある以外に、その場所に他の場所との違いは見当たらない。
夜間ならともかく、昼間であればある程度の人通りのある場所で、この場所を見ているだけでは幽霊のイメージは湧いてこない。
エルとヴィンセントの二人も、そのあまりの平凡さに驚き、固まっていた。
「割と普通な場所でガッカリだよ」
ヴィンセントがぽつりと呟く。それはエルも同感だった。
もしかしたら、と思っていたところがなかったわけではないので、その可能性が潰えたような気がして、エルのテンションは露骨に下がってしまう。
「取り敢えず、魔力の痕跡を調べてみるよ」
エルはルーペ片手に、その場所の端から端まで歩きながら、魔力の痕跡がないか探し始めた。幽霊らしき人影の正体に魔術が関わっているのなら、これで何かが見つかるはずだ。
その間、ヴィンセントは一人で暇になるからか、エルがルーペを覗きながら、その場所を歩いている隣について、ヴィンセントも同じように歩き始める。
それに気づいたところで、エルは一度立ち止まった。
「ちょっと待って。何でヴィンセントさんもついてきてるの?」
「いや、暇だから」
「気になるからさ。やめてよ、そういうの」
「でも、暇だし」
「暇は勝手に持て余しててよ」
「別にエル様の邪魔してるわけじゃないしさ。ちょっとくらい、いいじゃない?」
「精神的には邪魔されてるけどね」
「物理じゃないからセーフ」
「そのセーフかどうかのラインは、こっちが決めたいけどね」
エルが小言を並べたところで、ヴィンセントを説得するには時間がかかりそうだった。その時間を作るくらいなら、ヴィンセントを意識しない方が簡単だ。
エルはできるだけ、ヴィンセントの存在を気にしないようにしながら、再びルーペを覗き始めた。
そして、しばらく歩いたところで、エルは足を止めることになる。いつのまにか、ヴィンセントは飽きてしまったのか、エルについてくることもやめて、遠くを歩いているメイドに手を振っている。
「何もないなー」
独り言のようにエルが呟いたところで、ヴィンセントはエルが一通り見終えたことに気づいたようだった。
「あれ?一周した?」
「そうだね。何もなかったよ」
「じゃあ、その人影は魔術絡みじゃないってことだ」
「そういうことになるから、これはちょっと怪しくなってきたね」
「本物の幽霊か、それとも、本物の…」
そう言いながら、ヴィンセントが顔を上げたところで、「あ」と声を漏らしていた。エルは何かを見つけたのかと思い、その視線の先を追ってみる。
「そこの壁崩れてる」
「何だ、そんなことか」
「この辺りはあまり変わってないからなー。そろそろ、古くなってきたのか?」
「修復案件だね」
「後で報告しておくよ」
そこから、エルはヴィンセントの気まぐれのような手伝いも得ながら、もう少しその場所を調べてみたが、何かがその場所にいたような痕跡や、急に人影が消えた絡繰りになりそうなものは何もなかった。
結局、エルとヴィンセントは程好い疲労感だけを得たことになった。
「何も見つからないなー。どうするの?」
「んー、取り敢えず、監視用の魔術だけ設置して、あとは待ってみるよ。もう一度、その幽霊が現れないとも限らないし」
「今回はここまでか。俺は壁の崩れだけ報告しとくか」
「それはお願いするよ」
エルがルーペを仕舞ったところで、エルとヴィンセントは揃って、来た道を帰り始める。その道中にヴィンセントがしてきたのは、アスマの話だった。
「そういえばさ。今回みたいな話って、アスマ殿下とか好きそうじゃない?」
「殿下が?」
「そうそう。最近何たらっていう探偵が出てくる小説にハマってるって」
「あー、シャーロックか。そういえば、そんなことを言っていたね。確かに、幽霊の正体を見破ってやるとか言いそうかも」
「アスマ殿下はアスラ殿下と比べて、未だに子供っぽいところがあるからな」
「まあ、確かにそうだけど、そうでもないところもあるよ」
「エル様、何か知ってる系?」
「まあ、そんなところだね」
エルは詳細を話さなかったが、それが二ヶ月前の出来事に関係しているとヴィンセントはすぐに察してくれたようで、それ以上の質問はなかった。
それから、ヴィンセントと出逢ったところで、エルはヴィンセントと別れて、再び自室に戻っていく。頭の中では自室にある魔術の在庫を思い出していた。
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