前々々日(5)

 国家魔術師は総じて魔術に関する知識が豊富であるが、その中でもテレンスは同じ国家魔術師に語られるほどの知識を有していた。その豊富な知識の出所が、テレンスの大量に所有する資料の数々である。

 テレンスの書庫と言えば、魔術師にとって垂涎ものの貴重な場所として、国家魔術師でなくとも王城に住む者であれば知っているほどだった。


 その書庫の鍵を手に持ち、廊下を歩いているのは、テレンスと同じ国家魔術師のパロールだ。かつて史上最年少で国家魔術師となり、天才と呼ばれた少女だったが、それから起きたにより塞ぎ込み、つい最近まで魔術と関わらない生活を送っていた。


 それが今はテレンスの書庫に出入りしており、テレンスに鍵を返すためにテレンスを探しているところだった。

 王城の裏手まで歩いたところで、パロールはテレンスの姿を見つけて声をかける。


「こんにちは」


 パロールの声に気づいたテレンスが、それまでの作業を止め、パロールのところまで歩いてくる。


「こんにちは」

「鍵を返しに来ました」

「何か分かりましたか?」

「んー、難しいですね」

の方ですか?」

「そっちは終わりました。後はだけなんですけど、やっぱり今までにないことみたいですから」

「そうですよね」


 パロールが書庫の鍵をテレンスに渡したところで、パロールはテレンスがさっきまで立っていた方に目を向けた。そこには塞ぎ込んでいたパロールの知らないものが置かれている。


「あれが二日目に使う奴ですか?」

「そうです」

「思っていたより大きいですね」

「実物を見るのは初めてですか?」

「はい。私が参加しなくなってから使われ始めたので」


 そう言いながら、パロールは数ヶ月前までの自分を懐かしい気持ちで思い出す。

 その時はずっと最悪な気分だったが、今から思うとその時の経験も悪くないものだったのかもしれない。少なくとも今はそう思えている。

 その時の暗い経験があったからこそ、パロールの今は驚くほどに充実している。


「本番で見ると更に凄いですよ」

「楽しみです」


 パロールが目を輝かせて、そこに置かれているものを見ていたためか、テレンスが小さく笑って不意に呟く。


「明るくなりましたね」

「そ、そうですかね?」

「今は楽しいですか?」

「そうですね。ベルさんのことは何も分からないですけど、久しぶりに魔術と深く関われて、とても楽しいです」

「それは良かったです」


 テレンスに書庫の鍵を渡したこともあり、パロールはそろそろ次の目的地に向かおうと考え始める。


「それでは、私はそろそろ」

「何か予定が?」

「師匠に付き添って、アスマ殿下のお勉強の時間です」

「ああ、もうそろそろ、そんな時間ですか」

「それでは、失礼します」

「はい」


 パロールはテレンスと別れて、ラングの部屋に向かって歩き出す。ここからの時間も、この数ヶ月で変わった時間の一つである。

 パロールは浮き浮きとした気持ちを隠せず、小さな笑みを浮かべるのだった。



   ☆   ★   ☆   ★



 身体を動かすことに対して、アスマは頭を働かせることがとても苦手なようで、ラングを師として行う魔術学の勉強は大変な苦痛の時間だった。並べられた教科書を眺めてみるが、読めるはずの言葉でさえ、アスマの知っている言葉と同じ意味なのかと疑わしい気持ちになってくる。

 ついには教科書を投げ飛ばして、アスマはテーブルに項垂れた。


「分からないよー!!」

「殿下?ここは基礎中の基礎ですよ?」

「そうは言われても、良く分からないんだもん」

「どこが分からないんですか?」

「どこが分からないか分からないくらい分からない」


 開き直ったアスマの態度に、ラングは大きな溜め息をついた。


 アスマが今学んでいるのは、今までに数度教わっている魔術の基本的な知識に関することだ。『魔術は術式を展開して、精霊の力を借り受ける技術のことである』とか、『術式の大きさ、種類、枚数によって効果が変わる』とか、そんな魔術師にとって当たり前の知識である。

 しかし、その当たり前もアスマからすると、当たり前に思えなかった。


「この精霊って何?どんな姿なの?」

「精霊は目に見えない存在なので、姿があるのかも分かりません」

「そんな存在、本当にいるの?」

「いなければ魔術は使えません」

「それが良く分からないよ」


 頭を抱えるアスマと違って、ラングの隣に座っているパロールは面白そうに笑っていた。アスマは自分の無知さが笑われているようで、あまりいい気はしない。


「パロールは何で笑ってるの?これとか分かるの?」

「それはもちろん、国家魔術師ですから」

「そうなる前は分からなかったでしょ?」

「私はそれらをで覚えましたよ?」

「ええ~、絶対嘘だよ」


 アスマとパロールがそんなやり取りをしたところで、ラングが再び溜め息を漏らす。


「そうやって、誤魔化すのはもういいですよ」


 ラングがそう言いたくなるのは、このアスマとパロールのやり取りが今までに何度も行われているからだ。少なくとも、この数ヶ月の間で片手の指が足りなくなるくらいには行われている。

 最初こそ、変わったパロールとのやり取りをラングは微笑ましい様子で眺めていたが、今ではアスマに冷たい視線を送ってくるくらいだ。


「最初はラングも嬉しそうだったのに…」

「殿下も最初は素直でしたよね」


 アスマが何を言ったところで、ラングと言い争えるわけもなく、アスマはいつも黙らされることになる。それを見てパロールがまた笑って、アスマの気分は更に悪くなる。

 それを察したのか、ラングはそうなったところで、決まって落ちついた口調で話し始める。


「殿下は魔術師としての素質だけで言うと、誰にも負けないものを持っているんです。それは確かな知識があって、ようやく生きること。ですから、ここで知識を得ることは大切なんですよ」

「それは何度も言われたから分かってるけど難しいんだよ。理解しようとしても理解できないことってあるでしょ?」

「それは…ないとも言えませんが」

「それに俺の素質だって、本当に凄いの?」

「それはもちろん」

「エルより?」

「はい。何と言っても、殿下はですから」


 ラングにそう言われて、アスマはあまり悪い気がしなかった。アスマもエルの凄さは知っているので、それよりも凄いと言われれば自然と嬉しくなる。

 実際、アスマの魔力は凄まじかった。常人と比べることも憚られるほどの魔力を有しており、そのあまりの魔力量から、生まれながらにして鍛えられた大人に匹敵するほどの膂力も得ているほどだ。


 それもそのはずアスマはただの人間ではなく、と呼ばれる特別な存在だった。それはと呼ばれるドラゴンの最強個体と並び、を有していると言われる存在だ。

 それほどの存在であるアスマが、ここでしっかりとした知識を手に入れれば、それこそ世界を支配できるほどの力を有するはずだ。


 しかし、当のアスマはからっきしであり、宝の持ち腐れにもほどがある。そう思って、ラングは何度も言い聞かせてきたのだが、当のアスマは未だにちゃんと分かっていなかった。

 それどころか、話の方を自分のモチベーションを何とか終わりまで維持する活力剤のようにしている。


「まあ、そこまで言われたら、ちゃんと覚えるよ」


 そう言って、アスマは再び教科書を向かい始めるが、モチベーションが維持できたところで、頭の方に変化は何もなく、分からないことは依然として分からないままだ。


 そもそも、アスマは分からないというところで分からないことを放置しており、そこから分かろうとする気概をあまり持っていなかった。もっと面白いことがあることを知っており、それらを更に深く知ろうとすると、こういう知識は自然と頭から抜け出してしまう。

 それなら、最初から知らなくても同じではないのかと思っているところがある。


 結局、今日もアスマの勉強の時間はラングやパロールとのやり取りだけを得て、知識を得ることもないまま終わる。

 アスマはエルに一向に近づく気配がなかった。

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