前々々日(1)

 朝と言っても早朝ではないくらいの時間のこと。外から聞こえてくるのは、軽やかな鳥の鳴き声とそれを掻き消す喧騒に近い声だ。

 気をつけているわけではないが、こっそりと忍び込むように音を立てることなく、一人の少女が扉を開けた。部屋の中にはベッドが置かれていて、その上では少年が毛布に包まっている。


 少女はとても幼い見た目をしていた。人によって細かい年齢は変わるかもしれないが、概ね十歳前後の年齢を想像するくらいに幼い。金色の髪は短く、肩ほどの高さでまとめられ、瞳は空を映したように青い。身にまとっている服装はメイドの着ていると同じだ。


 少女は足音を立てないように、ゆっくりとベッドに近づいていた。別に足音を立てないように意識しているわけではないのだが、これまでそういう歩き方をすることが多かったから癖になってしまっているみたいだ。

 ベッドの隣に立つと、毛布に包まった少年の身体を優しく揺さ振り始める。


「アスマ、起きろ」


 少年の名前を呼びながら、少女は軽く身体を揺さ振り続ける。


「おい、アスマ。早く起きろ」


 何度も声をかけながら、優しい手つきで身体を揺さ振っている。


「おい、アスマ?聞いているのか、おい?」


 根気強く声をかけながら、少女は押し出すように身体を揺さ振っている。


「おい、アスマ?そろそろ、いい加減にしないか?」


 ちょっとだけ声を強めながら、少女は全身を使って身体を揺さ振っている。


「アスマ…」


 ついに少女は揺さ振ることをやめて、少年の包まる毛布に手を伸ばした。


「早く起きろ!!」


 そのまま、毛布を広げるように両手を上げると、その中に包まっていた少年がごろりとベッドから転がり落ちた。大きな音を立てて身体を床に打ちつけてから、少年が身体を押さえながら起き上がっている。


「ちょっとベル!?いきなり酷いよ!?」

「何を言っているんだ?私は一体、何度チャンスをあげたと思う?そのチャンスを全て棒に振って、ベッドから転がり落ちる結果にしたのはお前だろうが!!」

「そうだからって、ここまで乱暴に起こす必要はないでしょ!?俺だって一応、なんだよ!?」


 ベッドから転がり落ちた際に打ちつけたのか、頭を押さえている少年の名前はアスマと言った。寝癖のついた黒い髪や寝巻の草臥れた感じから想像つかないが、その台詞にもある通り、エアリエル王国の第一王子である。

 彼の眠っているこの部屋は、エアリエル王国の王都にある王城の一室であり、彼の自室なのだ。


 その部屋を訪れ、アスマを起こした少女はベルフィーユと言った。その格好が示す通り、この王城に仕えるメイドの一人である。

 しかし、その力関係はその立場から考えられない方向に歴然としていた。


「そうか。なら、王子として命令したらどうだ?私はただのメイドだからな。お前から命令されると従わざるを得ない」

「うーわ…すぐそういうイジワル言う!!」


 アスマは不満そうに唇を尖らせて抗議する。それは紛れもなく子供の喧嘩であり、ベルは呆れしか湧いてこない。


「はいはい、分かったから。早く準備しろ。早くしないと今度はシドラスに怒られるぞ」


 そう言ったところで、ようやくアスマは朝であることを思い出したようで、草臥れた寝巻を脱ぎ始めている。

 今年で十七歳を迎えるアスマが一人で着替えをできないわけがなく、ベルは着替え始めたことを確認したところで、朝の仕事を終えたと判断して部屋を出ようとする。


「あ、そうだ。ベル」

「ん?何だ?」


 扉を開いて出ようとしたところで、アスマからそう声をかけられて、ベルは振り返ることになった。寝巻を半分脱いだアスマがベルを見て、ニコリと笑いかけてくる。


「おはよう」

「ん…ああ、おはよう」


 ぶっきらぼうに答えてから、ベルはアスマから顔を背ける。それから、部屋を後にするベルは恥ずかしそうに少し頬を紅潮させていた。



   ☆   ★   ☆   ★



 朝と昼の間になって、王城の中庭では木剣と木剣がぶつかる鈍い音が響き渡るようになっていた。朝食と呼ぶには遅く、昼食と呼ぶには早い食事を終えたアスマが、朝の日課である剣の稽古を開始した音だ。

 師となるのは、本来の職務としてはアスマの護衛を担当するシドラスだ。エアリエル王国全土の兵士の中から厳しい試験の末に選ばれる、王室守護を目的とした王国騎士団の騎士だ。

 そのシドラスとアスマは木剣を用いて簡易的な試合を行いながら、日々剣の腕を磨いていた。


 しかし、若くして騎士に選ばれたシドラスと、発展途上中のアスマでは剣の腕に大きな差がある。試合のような形式ではアスマに勝ち目などあるはずがない。

 毎日のようにアスマは負け続けており、予定調和のように今日も負けることになった。木剣を手から弾き飛ばされながら、アスマは地面に倒れ込む。


「まただ!!また負けた!!」

「殿下は隙があり過ぎるんですよ。のですから、もう少し意識を変えれば、このような結果にはならないはずです」

「そうは言われても難しいよ。そんなにいろいろ考えられないもん」

「堂々と馬鹿発言はやめてください」


 木剣のぶつかる音がなくなると、中庭には朝から聞こえている喧騒に近い声が飛び込んできた。指示を飛ばす声や軽快な槌の音を聞いていると、アスマは身体の底からワクワクしてくる。


「殿下。いつまでもそうしていないで、早くお立ちください。続けますよ」

「ああ、ごめんね」


 手から弾き飛ばされた木剣を拾い、アスマはシドラスの前に立つ。それでも、意識は音の方に向いてしまっていて、シドラスに溜め息をつかせることになってしまう。


「集中できていないのが、目に見えていますよ」

「ごめん。ついつい、気になって」

「そんなに楽しみなんですか?」

「うん!!」


 アスマは満面の笑みで答える。アスマが楽しみと言っているのは、開催が三日後に迫った祭りのことだ。と呼ばれる伝統的な祭りで、外から聞こえてくる音はその準備をしている音である。


「シドラスは祭りの間どうするの?」

「今年はイリスがいませんからね。私が殿下の護衛をする予定ですよ」

「じゃあ、一緒に回れるんだね」


 嬉しそうにそう言ってから、アスマは今朝起こしてくれたベルの顔を思い出していた。


「ベルも一緒に回れるのかな?」

「それは本人に聞いてください」

「そうだよね。後で聞こう」

「それよりも、早く集中してください。まだ稽古の時間は終わっていませんよ」


 木剣を構えるシドラスの姿を見て、アスマも木剣を構えようとしたところで、その向こうにある人影に気づいた。


「あ、アスラだ」


 そう言ってから、アスマが王城の渡り廊下に向かって声をかけながら手を振り出す。アスマの呼んだ名前を聞いてか、シドラスも流石に振り返って、そこに立っている人物に軽く会釈をしている。


 渡り廊下に立っていたのは、アスマよりも少し小さい少年だった。アスマほど快活な雰囲気はしていないが、優しい笑顔などの表情はとてもアスマと似ている少年だ。

 この少年の名前はアスラと言い、その表情の似ている様子から分かる通り、アスマの弟だった。

 つまり、エアリエル王国の第二王子ということだ。


 アスラの後ろには二人の護衛が立っているのが見えた。シドラスと同じ騎士である二人だ。

 アスラが立ち止まって、アスマに答えるように手を振ってくると、二人もアスマに気づいたようで、軽く会釈をしてくる。一人は恭しく、もう一人は軽々しく、アスマに頭を下げている。


 それを見たアスマが更に声をかけようとしたところで、シドラスの木剣に頭を小突かれた。


「殿下」

「あっ、ごめん」


 申し訳なさそうに軽く笑ってから、アスマは再び木剣を握った。

 中庭に再び鈍い音が響き始めるのは、そのすぐ後のことだった。

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