晩夏の盃
@fukk
夢か現か
大学生アルバイター菊森は夏休み中、家とバイト先のスーパー、時々友達の家を往復しやる気も何もかもなくし腐りかけていた。部屋の冷房はガンガンにつけ、布団に丸まり携帯を眺める。そのうち瞼が閉じかけていたらしく、頭ががくんと落ち涎が画面にたれる。あっと思ったのも束の間、そのまま枕に突っ伏した。
ガハハハッと豪快な笑い声が聞こえる。
「最後の夏やもしれん。大いに楽しめ」
野太い声が部屋中に響き渡り、大勢の話声と酒の匂いが充満していた。
「くさっ」
酒の匂いではなく誰かの足の臭いだ。慌てて顔を上げると酒を飲んだ時のような眩暈が襲った。いつの間にか、どこで飲んでたんだろう俺。机の下での誰かの足元で倒れていたらしく、机の中からいそいそとはい出した。かなりの足の数だ。悲しいがこんなに知り合いはいないはずだ。それに長靴や黒い革靴など制服も統一されているようだった。誰かの飲み会に参加してしまったのかもしれない。
「しっかし、この緊張感は嫌なもんですな。露西亜と戦争となれば日本はどうなることやら」
「いや、もう確実だろうな。その為の資金が問題だ。どうひねり出せばよいものか。国民も貧困で疲れ切っている」
「伊藤さんは臆病すぎる。ここでズバッと決断してくれんものかのう」
思い思いに意見を述べる男たちの中、ひたすらに酒を飲み続ける男が一人いた。楽しそうに話を聞き、それよりも飲むことに集中している。四つん這いになったままその男に近づいた。
「おう、お前も飲みたいのか」
そういうと、机に並べてあった皿の一つを取り酒を入れ地面に置いた。
「いや、酒はいらないんですけど」
聞こえているのか聞こえてないのか数人の男たちが近寄ってきた。吐き気も同時に襲ってきたため、ぐったりと横になる。きもちわる。
「おお、なんか喋ってるぞ。どこから来たんですかねえ、この猫」
猫、猫?話している男の方を見ると確かに目が合った。え、俺猫?
酒を飲む男をもう一度見る。もうこちらを見ていなかった。
「嘉右衛門、こいつは何て言ってんだ」
酒飲みの男が言う。
「さすがに動物の言葉は分からんでしょう」
「酒はいらないんだとさ」
俺は嘉右衛門と言われる人物の方を見た。真っ直ぐと俺を見るはげおやじ。
「おお、すごいな嘉右衛門」
とちらほらと声が聞こえる。
「どこから来たんだい」
「にゃあ(東京)」
「ここじゃないかい」
「にゃにゃ(だが2020年だ)」
「2020だと?」
その言葉にどよどよとする周り。服装や言葉遣いからしてどうみても現代ではなかった。猫の時点でタイムスリップしてしまった可能性がある。酒飲みはふっくらとした頬を赤く染め笑っている。
「1902年8月5日だ」
最近それぐらいの日付だった気がする。この時代は夜は割ともう涼しい。やはり地球温暖化は進んでいるのか。
「今はこの通り日清戦争が終わり、日露戦争が起こるかもしれない状況だ。勝敗は置いとく。しかし、そうだな…その時代のお前は幸せかい?」
いつの間にか全員が僕と嘉右衛門を取り囲んでいた。勝敗聞けよーという声は無視し嘉右衛門は優しく問いかける。
「にゃ(まあね)。にゃあにゃにゃにゃにゃん(けど今はコロナっていう感染症で世界が力を合わせて頑張ってるよ)」
「ほう」
嘉右衛門は目を嬉しそうに細めた。なんて言ったんだ、と外野。ニコニコと笑う酒飲み。
「未来も大変そうだ。わははは」
皆不思議そうに顔を見合わせる。酒飲みだけは察したのか「そりゃ結構」と一緒になって笑っている。
「彼、もう戻るみたいだね」
自分ではそんな気はしないが、嘉右衛門は静かに言った。
酒のみが再び口を開いた。
「ほら、酒を飲め。今宵は楽しかった。死んだあとが楽しみだ」
「縁起悪いこと言わないでくださいよ、秋山さん」
酒を少し舐める。ピリリと舌先がしびれた。するとぐわんと世界がひっくり返った。視界もぼやけ、ガハハハッという陽気な笑い声が遠くなっていく。
次に目覚めた時、クーラーで冷えきったいつもの部屋だった。携帯の画面の涎をぬぐい、「酒豪 秋山」と検索した。秋山好古、コサック騎兵隊を破った陸軍大将。あれから二年後に日露戦争が起きる。偉大な人物は名前が分からなくてもわかるものだなあ。秋山のふくふくとした笑い方を思い出す。それにしてもタイムスリップだったのか夢だったのかがわからない。暫く考え込むが、証拠も何もない。結局、記憶を手繰り寄せた夢だったのだろうと結論付けた。
もう一度携帯を見る。8月6日AM8:30。8時半か、8時半だと?!深く眠り込んだらしく、いつの間にか翌日だ。アルバイターというからにはほぼ毎日出勤だ。あと30分しかない。服の臭いをかぐと汗と酒の匂いがする。
「やばいやばい」
急いで風呂へと駆け込んだ。
晩夏の盃 @fukk
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