ー第三章ーメインヒロインはどっち

「っしゃいませ~」

 いつものコンビニ、いつもの男。夕飯を買いに来たついでに、暇つぶしのための雑誌を物色する。

 色とりどりの週刊誌にでかでかと本気かおふざけかわからない見出しがついている。

「これ、俺の住んでるところ……」

 週刊誌に『H県K市連続通り魔事件! 同市で頻発する動物虐殺事件の関係を図る!』と書かれている。

 隣のオカルト雑誌には『H県K市は呪われているのか!? 死にとりつかれた町の実態に迫る!』なんて書いてある始末だ。

「最近この町も物騒になったもんだな」

 俺は週刊誌を一冊かごに入れ、レジに向かった。

 例の男はだるそうにレジを打つが、週刊誌を手に取った瞬間、にやり、と笑う。

 気色悪いな、なんて思いながら俺はすぐに金を渡しコンビニを去った。

「雨、まだ降ってるな……」

 撮影を始めてから2週間が過ぎていた。

 撮影は順調そのもの。彼女らとの仲も深まり、俺の交友関係はまた蘇っていた。

 だが、脳裏にちらつく勇吾の面影が喪失の恐怖を思い出させている。

 にも関わらず俺は彼女らとの交流を求めている。矛盾していると思いつつ、俺は彼女らに無意識に惹かれていたのだ。

 真夏の台風が近づいている。

 アスファルトに染み込んだ雨の臭いが鼻をくすぐる。

 ドシャ降りになる前に早く帰ろう、と傘を開き家路を急ぐ。

 暗いうえに雨が降っているせいで視界が悪く、思わず水たまりを踏みそうになる。

「はぁ……憂鬱だな」

 なんてつぶやく一人の道。

「ヘイ、ジョージ」

 ふと、誰もいない路地で声が響いた。

 俺はあたりを見渡すが、誰もいない。

「ヘイ、ジョージ」

 だが俺はこの呼び声に覚えがある。

 『it』のペニー・ワイズだ。答えるとヤバイ。しかも俺はジョージではない。

 だから俺はそそくさとその場を去ろうとした。

「ヘイ、彰! 待てって!」

 ついに俺を名指しで呼び始めたか。

「彰、こっちだ。こっちを見ろ……」

「今度は『プレデター』のマネか……?」

 まさかと思い声のした方へ向かう。

 道路脇の排水路の金網の下。そこに案の定ラムがいた。

 どうやってそんなところに入ったのだろうか。

「ヘイ、彰」

「ラム、お前何してるんだ?」

「まぁ聞けよ。お前、最近女の子たちと仲いいよな」

「……まぁな」

 傍から誰かに言われると少し照れる。

 そんな照れをあざ笑うかのように、ラムがぐにゃりと顔を歪めた。

「クールで大人びているが天然。夢を追う熱い女の子、ミサ。明るく元気でお前にべったりな真琴。お前はどっちの女の子を選ぶんだ?」

「……どっちって……」

「お前、わかってるんだろ? お前はあの二人に惹かれ、惚れている」

 ぐさり、その言葉が俺の胸に刺さった。

 俺の鼓動が高鳴り、頬が熱くなるのが分かる。

「図星だな、お前」

 俺はそれに答えることができなかった。

 確かに俺は、彼女たちに惹かれている。

 だがそれが果たして恋なのかどうかは、わからないが。

「お前はまだ二人に他の女の子と映画を撮っていることを言っていない。それはどうしてだ? 彼女たち一人一人を、特別な存在と思っているからじゃないか?」

「……」

「まぁ黙るなよ。俺は責めてるわけじゃない。俺はお前の恋を応援してるんだぜ?」

 そう言うとラムは金網の隙間から長方形の紙を差し出してきた。

「映画の招待券だ。しかもペア。ただし1組だけ。使えるのは明日までだ。気になる方と行ってこい」

 俺はそれに手を伸ばしかけてやめた。

「だまされんぞ。どうせそう言って俺をそっちに引き込むんだろう? 俺は詳しいんだ」

「それは原作だけだろうが。大丈夫、俺は残酷なペニー・ワイズじゃねぇ。優しいレッド・ラムさんだぜ?」

「……じゃあ、もらう」

 ラムから映画の招待券を受け取り、濡れないようにカバンに突っ込んだ。

「何度も言うが、明日までだ。結局決めれずに一人で行くってことになれば……わかってるよな?」

「いったいどうなるんだ?」

「最後に殺すと言ったな。あれが嘘になる」

「……命綱なしバンジーってことか。つかそんなこと言われた覚えないけど」

 ラムなら本気でやりかねない。

 背筋がぞっとしたが、それはきっとそのせいだけではない。

 雨で気温が下がり、寒気を覚えた。

「寒いし、俺もう帰るな。ラムもそんなとこにいないで帰れよ」

 俺は家路を急ぐ。帰って暖かいラーメンだ。

「ヘイ、彰。頼むから出るの手伝ってくれよ」

「うぅ……寒っ……」

「彰? おーい、彰。帰ってこーい」

 背後のラムの声をあえて無視して急ぎ足で帰る。

 ありがた迷惑なものを押し付けてきた罰だ。


「さて、どうするか……」

 机の上に置いた映画の招待券とにらめっこして早20分。

 どちらを誘うか、いまだに迷い中だ。

 窓の外の雨音だけが静寂な部屋に反響している。

 もし放っておいたり、一人で行ってもラムにばれるだろう。昔からあいつにはなぜか隠し事が通用しないのだ。

「ほんと、迷惑なモノ押し付けやがって……」

 改めて考える。俺はどちらがいいのか、と。

 彼女たちは二人とも魅力的だ。どちらにも違う魅力がある。

「……どっちにするか」

 悩めば悩むほどドツボにはまっていく。

 そういえば俺は何かを一人で決断するということを今まで避けてきた気がする。

 シュワちゃんかスタローン、どちらかを選べと言われれば迷わず答えられるというのに。

「……ん? シュワちゃんかスタローン……?」

 思い出した。ミサはシュワちゃん派と言っていた。

 一方真琴は星野源派。

 どちらかといえば俺と同じ趣味のミサを誘えばいいわけだ。

 そうと決まれば電話をしなければ。

 俺はスマホに手を伸ばすが、一瞬ためらう。

 本当にそんな決め方でいいのだろうか。

「……」

 そんな葛藤をしていると、不意にスマホが着信音を鳴らし始めた。

 俺は伸ばした手ですぐにスマホを取り、着信ボタンを押す。

「もしもし?」

「あ、彰君。もしもし、ボクだよ」

「真琴か。どうした?」

「彰君、明日暇? 暇なら映画でもどう?」

 まさかの真琴からのお誘いに俺は1秒も待たずに即答する。

「ぜひ! 実は招待券を余らせててな」

 心の中ではラムに謝りつつ、俺はどうにかこの招待券を手放す約束をするのだった。


 翌日。13時、隣町の大型ショッピングモールの中の映画館。

 昨夜降っていた雨はとうにやみ、空には大きな太陽がぎらぎらと輝く。が、室内にいる俺にはそんな太陽の熱気など関係ない。

 冷房が効いた映画館で新作映画のフライヤーを物色しながら真琴を待つ。

 最近はあの二人と撮影続きで映画にも行けていない。見に行きたい映画のフライヤーをカバンに詰め込みながら、俺は彼女がいつ来るのかと待った。

 約束の13時を10分ほど過ぎた頃、ようやく彼女が現れた。

 俺は5分前には着くように来たというのに、彼女は悪びれる様子もなく笑っていた。

「やっほー、彰君」

「ったく、どんだけ待たせるんだよ……」

「たった10分じゃん。そんなに目くじら立てないでさ、早くチケット買おうよ。上映に間に合わないよ?」

「……」

 時間にルーズなくせに上映に間に合わないとはどの口が言うのか。文句を言いたいがぐっと喉奥に流し込む。

 ここで文句を言いケンカをすれば、本当に間に合わなくなる。

 それに彼女は悩む俺を誘ってくれた。俺にとっては救いの女神といえる彼女に俺は怒るに怒れない。

「それで何の実写化見るんだ?」

「せっかく彰君と見るんだから、二人が楽しめそうなのを選んだのに……もしかして彰君、実写化した奴見たいの?」

 真琴はそう言ってジャンプマンガの実写化映画のポスターを指さした。

 俺はとっさに首を横に振る。

「そんなに否定しなくても……ま、いいや。ボクが見ようと思ったのはこれ」

 真琴が指さしたのは『MARVEL』の新作映画だ。

 ど真ん中にでかでかとヒーローがかっこいいポーズで映っている。

「へぇ。真琴もマーベル系の見るんだ」

「うん。ほら、マーベルもある意味実写化だし?」

「まぁ確かにな……」

 実写だが、日本の下手な実写化作品とは比べ物にならないクオリティだ。日本も見習ってほしいところだ。

「それじゃチケット買おうか」

 そう言って俺たちは自動券売機に並ぶ。

「最近ってチケット売り場も自動になったよね。昔は窓口のお姉さんだったのにね」

「お姉さんかどうかはともかく、確かにな。長いタイトルとかちょっと恥ずかしいタイトルって言いづらかったよな」

「わかるわかる! あと一人で子供向けのアニメ映画に行くときとかもちょっと恥ずかしかったよね!」

「受付の人がおまけのおもちゃを渡すかどうかすっげぇ悩んでたよな」

 なんて話しながらだとあっという間に俺たちの番がやってきた。

 真琴は慣れた手つきでタッチパネルを操作して映画のチケットを二枚発券した。

「はい、これ、彰君の分」

「ありがとな。……って、字幕?」

「うん。その方が俳優さんの素の演技を楽しめるでしょ?」

「ま、まぁそうだが……」

「……もしかして彰君。吹き替え派?」

 俺はこくり、とうなずいた。

 よく映画好きは字幕で見るものだ、とネットでは多くの人が言っている。確かに俳優本来の演技を見るにはそれが一番だと思う。

 けれど映画好きが全員そうとは限らない、と俺は考えている。

 事実、俺はストーリーとか演出なんかを見たいわけで、字幕だと文字を目で追いながら画面も見なければいけないため、映像が頭に入ってきづらい。

「ごめんね! ちゃんと相談すればよかったね……てっきり彰君も字幕派とばかり」

「いや、いい。字幕でも見れないことはない。つか俺にとっちゃお前が字幕で見る方がびっくりだ。邦画ばかり見てるし吹き替え派だと思ってたよ」

「確かに邦画は好きだしよく見るけど……ボクの好きな映画はホラーとかスプラッターだよ? そういう作品ってマイナーが多いから吹き替えが付かなかったりすることが多くて……」

「わかる」

 俺はそれに深くうなずいた。

 ゾンビ映画やサメ映画でも多くの場合吹き替えが無かったりすることが多いし。

「ま、買っちまったものはしょうがないし、見るか」

「うん! と、その前にポップコーンを」

「お前、ポップコーン買うのか!?」

 ジュースは許せてもポップコーンはあまり許せない派の俺。

 隣でくちゃくちゃと食っていたり、カップルがいちゃつきながら食っている思い出しかなく、ポップコーンにはあまりいい印象がしない。

 むろんポップコーンに罪はないのだが、どこか敬遠したい俺がいる。

 ポップコーン食べるか論争を繰り広げた俺たちは、結局上映ぎりぎりにスクリーンに入ったのだった。

 ちなみにポップコーンは買わされた。


 新作の予告が始まりおなじみの映画泥棒が流れ、ようやく本編が始まった。

 のだが……

「……あの人、ずっとスマホ見てるね」

「あぁ……」

 小声で話す俺たちの目線の先には、上映中にスマホをいじる不届きな輩がいた。

 俺たちの5列ほど前、通路の一番端にいる男がスマホをいじっている。

 クチャラー、ポップコーンイチャイチャカップルを抜いてダントツに嫌いな奴が上映中にスマホいじるマンだ。

 奴らは自分が他人の迷惑になっていることに気付かず、平気でスマホをいじり始める。

 映画民度が低いったらありゃしない。

「あんなに頻繁に見なくてもいいのに……」

 ことあるごとにスマホを点けたり消したりする輩に、俺は怒りすら覚えていた。

 映画に飽きたなら寝ていればいいのに、時間を頻繁に確認する。

 連絡待ちなのかSNSを度々確認する。

「ボク、スマホ、へし折ってくる」

「……やめとけ」

 あぁいう奴こそ注意すれば逆切れして面倒なことになる。苛立つが関わらないほうが身のためだ。

 良い子のみんなは劇場内ではスマホの電源はオフに。マナーモードでもいいや、なんてことは無しだ。

「我慢できない! 注意してくる!」

 やめとけ、という俺の制止を振り切って真琴は席を離れてしまう。

 ここで真琴とスマホいじるマンがケンカになれば、より多くの人に迷惑をかけてしまう。

 ちゃんとお金を払って楽しんでいる人たちに迷惑をかけるのはさすがに気が引ける。

 だが真琴は止めても無駄だろう。

「おい、彰」

「……ラム?」

 後ろの席からの聞きなれた声。振り向かなくてもわかる、ラムだ。

「お前、どうして……」

「しっ。上映中はおしゃべり厳禁だ。お前、おしゃべりマンも嫌いだろう?」

「スマホいじるマンよりはましだよ」

「とにかくだ、俺に任せてろ。お前のコーラ、借りるぜ」

 ラムはそう言うと俺からコーラを奪い取り、すたすたと早足に歩いて行ってしまった。

 残された俺はというと、もう映画の内容すら頭に入ってこないほど緊張していた。

 何かやばいことが起こる気がする。一度気分を落ち着かせるためにトイレに立つことに。

 ついでにラムが何かやらかさないかチェックだ。

「あんたは下がってな」

 ラムが真琴を追い越した。スクリーンの明かりでラムの顔が照らされる。

 彼はどういうわけか、劇場内でもサングラスをかけていた。

 俺は真琴にばれないようにこっそりと反対側からラムをつけた。

 ラムはスマホをいじる男に近づくと、手に持っていたコーラを思い切り彼の服へとぶちまけたではないか。

「すいません」

 明らかに不機嫌な顔をした男に、へらへらとした態度で答えるラム。

「タオル貸しますから、いったん外に出てください。じゃないとどこが濡れてるか見えませんからね」

 ラムにしては丁寧な言葉。だが言葉の端々からは威圧的な何かが見え隠れしている。

 それに気づいたのか、男はしぶしぶと劇場を出る。

 俺もゆっくりとその背後に近づき劇場を出た。

「おい、てめぇ! 何上映中にスマホ見てるんだよ! あぁ!?」

 劇場の扉から一歩外に出た瞬間だった。ラムの表情と言葉が一変し、男の襟首をつかんでいた。

「スマホは切れって予告の時に流れてただろう!?」

「どうかしましたか?」

 ラムたちの様子を見てか係員が駆け寄ってくる。

 スマホを見ていた男はチャンスだと言わんばかりに係員に怒鳴りつけた。

「おい! お前のところはどうなってるんだ! こいつ、俺にコーラをぶちまけやがった!」

「こいつがスマホを見ていたからだ」

 係員はラムと男を交互に見て、男のほうを劇場外に引っ張っていった。

「お、おい! なにする!?」

「とりあえず服乾かしましょう。話はそれからです」

 ラムに向けて係員がウインクをする。どうやら係員はこちら側の人間のようだ。

「これで一段落だ。さ、映画に戻るぜ」

 そういうわけで、俺たちは何食わぬ顔で劇場に戻った。

「あれ? 彰君、どこ行ってたの?」

「トイレ」

「ふ~ん……あ、スマホの人、どっか行っちゃったよ」

「そりゃラッキーだな」

 どうやらラムのことはバレていないようで、俺はほっと一息つく。

 そこからは充実した映画タイムを楽しむことができた。


「ふぅ……いろいろあったけど面白かったね」

「あぁ、そうだな」

 興奮が冷めやらぬ客の群れに紛れ、劇場から出て一息つく。

 映画という虚構から現実に戻ってきたこの何とも言えない感覚が妙に心地よい。

「そう言えば誰だったんだろうね」

「何が?」

「スマホの人を追い出してくれた人。ちらっと見えたけど、なんだか彰君に似てた気がする」

「他人の空似だろう。ほら、世界には同じ顔が3人もいるっていうし」

 俺とラムはそんなに似ているだろうか。頭の中で照らし合わせるもどうもしっくりこない。

「そうだ、彰君! スイーツ、食べに行こうよ」

「……急だな」

「もう3時だしさ、おやつの時間だよ。それにちょっとお腹すいちゃったし」

「ま、いいか」

 どうせ家に帰っても何もすることがない。

 それに日頃頑張ってくれている演者へのねぎらいにもなろう。

 そういうわけで俺たちは映画館の階下にある飲食店街で、物静かな喫茶店に入った。

「落ち着いてていい雰囲気。こういう雰囲気、好き」

「お前には似合わないけどな」

「それ、どういうこと?」

 にんまりと笑って尋ねる真琴だが、目が笑っていない。

 俺はごまかすようにメニューを彼女の前で広げてみせた。

「どれにする?」

「チョコレートパフェ!」

「はいよ」

 一瞬で子供に戻る真琴に苦笑いしつつ注文を通す。

 やがてどっしりと大きな器に入った巨大なパフェが登場する。

「いただきます!」

 元気よくそう言うと彼女はパクパクと食べ始めた。

 5分もたたないうちにパフェが姿を消す。

「お前、よく食うな……」

「甘いもの大好きだからね」

「そうか……」

 好きにもほどがあるだろう。そう思いながら俺は頼んでいたホットコーヒーを一口すする。

「あ、そうだ。この前ね、小学校の卒業アルバム見てたんだけど」

 また小学校の思い出か。俺はあまり覚えてないから話せることは少ない。

「田中君って、どうしてるの?」

「……田中」

 その名前に、俺の奥底がじくり、と痛む。何か黒いものが零れ落ちた気がした。

「全然友達がいなくっていじめられてた田中君。覚えてない?」

「……あぁ、思い出したよ」

 根暗でいつも一人でいた田中。何を考えているかわからず不気味な奴だった。

「あの子、アルバムに載ってなかったんだけど、どうしたの?」

「転校したよ」

「転校?」

「あぁ。小6の頃、飼育小屋のウサギを皆殺しにしてな」

「……」

 さすがに真琴の顔から笑みが消えた。

 彼女にとっては何気ない世間話のつもりだったのだろうが、現実はそうではない。

 あいつはウサギを全部殺した、夜の校舎に忍び込んで、さぞ楽しそうに。

 ……そういえば、どうして俺はあいつが楽しそうにウサギを殺したのを知っているのだろうか。

 誰かからそんな話を聞いたのだっけ。

「ボクがいなくなってから、いろいろあったんだね……」

「ま、そんなもんだよ、学校って」

 何百、何千の生徒が集まる学校だ。何もない方がおかしいくらい。

 けれど学校で起こる何かも、世界を変えるほどの力はない。

 すぐに忘れ去られ、皆は日常に戻るのだ。

「……っと、すまん、電話だ」

 ぐっと重くなった空気を切り裂くようにスマホの着信が鳴り響く。

 相手も見ずに着信ボタンを押し、耳元にあてた。

「彰、こんにちは。私よ」

「あ、あぁ」

 ミサからだ。真琴といることはバレたくないし、真琴にもミサの存在をばらしたくない。

 俺は仕草でごめん、と真琴に謝り店の外に出た。

「ミサか、どうした?」

「今日の夜、空いてないかしら?」

「ライブか?」

「いいえ、映画に行きましょう」

 またか、と思わず漏らしそうになり喉元に流し込む。

「わかった、行こうか」

 ミサからの誘いだ。俺は二つ返事で答える。

 それに胸が何だかざわついている気がする。

「それじゃまたメッセージ送るわ。待ち合わせ場所と時間はそこに書いておくから」

 オッケー、と返事をして電話を切る。

 今夜はミサと映画。今から心臓がバクバクとなっている。

 どうしてだろうか、真琴と映画に行くことになった時には感じたことのない思いだ。

「彰君? もう電話終わった?」

「あ、あぁ。終わったよ」

 店から真琴が心配そうに出てきた。

 電話の相手は親だったと適当にごまかして、真琴と別れることに。

 家に帰るふりをして、俺はまた映画館のあるショッピングモールへ向かった。

 真琴をだました罪悪感は、不思議と湧き起こらなかった。


 ミサとのメッセージで約束した19時30分。スマホの時計アプリは19時10分を指している。

 そろそろかと思い映画館に向かい、時間を潰そうと売店へと足を運ぶ。

「あら、彰。早いじゃない」

 するとそこにはミサがいた。

 いつもの眼帯姿。服装もゴシック調で目立っている。

「そう言うミサこそ」

「私、時間にルーズな人、嫌いなの」

 俺もだ、とうなずきながら二人で券売機に並ぶ。

 俺にとっては本日二度目の券売機。

 さっきも真琴とした会話をミサともしながらようやく俺たちの番が来た。

「彰、MARVEL作品は見てるわよね」

「あ、あぁ……」

「じゃあこれ、見ましょう」

 ミサが選んだのは真琴と見た映画だ。まさか一日二回同じ映画を、しかも映画館で見るなんて思わなかった。

 もし券売機が窓口ならば、明らかに俺は変な映画好きとして顔を覚えられてしまっているだろう。

「あ、吹き替えなんだ」

「彰は字幕派なのかしら?」

「いいや、吹き替え派。文字を追いながらだと映像が頭に入ってきづらいからな」

「私も同じよ」

 そう言ってにこりと笑うミサ。俺はそれに妙な嬉しさと恥ずかしさを感じた。

「ポップコーンはどうする? 彰は食べる?」

「いいや、俺はポップコーン食べない派」

「奇遇ね。私も同じよ」

「また同じか」

 彼女と同じだけで、なぜか嬉しいという気持ちが沸き上がってくる。

 嬉しさと同時にドキドキして、気恥ずかしい気持ちにもなってくる。

「ジュースはオッケーよね」

「もちろん」

 俺たちはしばらく売店でお土産を物色しながら時間をつぶし、ジュースだけ買って劇場へ入る。

 レイトショーのせいなのか、人気作品でありながら人はまばらだ。

「このくらい少ない人のほうが映画って見やすいわよね。人が多い時ってたいていマナー悪い人が一人はいるから」

「わかる。特に上映中スマホ見る奴はな……」

 思わず今日のことを話してしまいそうで、俺はぎゅっと口をつぐんだ。

 彼女に他の女の子と会っていたのはバレたくない。

 何か話題をそらさなければ。

「そう言えばさ、映画館ってなんでポップコーン売ってるか知ってる?」

「言われてみれば、どうしてポップコーンを売ってるのかしら……手軽に食べられるからって理由だとほかの食べ物でもよさそうだし」

「ポップコーンって原価率がめっちゃ安いんだ。だからそれで映画で足りない分を儲けてるってわけ」

「そうなのね。それじゃあ映画館のためにもポップコーンは食べたほうがいいのかもしれないわけね」

「ジュースも原価率高くないし、ジュースだけでも大丈夫だろう」

 それにポップコーンはもううんざりだ。

 真琴と一緒に映画を見ている時に食べているから。

 ポップコーンって初めは美味しいんだけれど、あとになるほど飽きてきて、結局残してしまうのだ。

「っと、そろそろ始まるな」

 劇場の照明が落ち、映画の予告が始まる。

 映画泥棒も終わり、ようやく映画が始まった。

 この映画知ってるんだけどな、と思いつつも、面白い映画は何度見ても面白いもので、俺は最後まで食い入るようにスクリーンを見ていた。


「おもしろかったわね」

「あぁ、おもしろかったな」

 本日二度目の映画を終え、俺たちは数少ない客とともに劇場を後にする。

 館内の照明は半分ほど落ちていて、にぎやかな昼とは違う場所のように思える。

「面白かったけれど……」

「あぁ、面白かったけど……」

『吹き替え、棒読みすぎ』

 俺たちは顔を見合わせて苦笑いする。

「ヒロインの声、今売り出し中のアイドルだって」

「話題作りとか宣伝費カットのためだけに呼ぶなって感じだよ」

 俺たち吹き替え派が一番嫌っていること。

 それは若手の俳優やアイドルが吹き替えをすることだ。

 大御所俳優なんかでも抵抗感はあるが、若手は特にだ。

 棒読みがひどく、どうしようもない虚無感しかない。

 DVDが発売するころには違う人が吹き替えをしているようにと願うばかりだ。

「けれど叩かれてもいいから私は吹き替えとして映画に携わりたい」

「……まぁ、そうだな」

「でもここまでひどいと同業者としてもフォローしきれないな」

「これなら字幕のほうがいいな」

「……彰、字幕、見たの?」

 思わず口から「あっ」、と言葉が漏れた。

 俺は急いで訂正する。

「いや、その……そう! トレーラー! ネットのトレーラーで見たんだ、英語版の!」

「そう」

 ミサはそれ以上突っ込んでこなかったので少しホッとする。

 だが彼女に嘘を吐いた罪悪感は拭えるものではなかった。

「……とりあえず、もう遅いし解散しようか」

 下手すれば終電を逃しかねない。

 本心ではもっと彼女といたいが、いい男を見せるためにここはそう言う。

 だが……

「ううん。帰りたくない。もっと彰といたい」

「え!? お、俺と!?」

 思わず聞き返したが、どうやら聞き間違いではないみたいだ。

 彼女は小さく、こくり、頷いた。

「私、今日アイドルの最終オーディション受けてきたのよ。手応えは、正直に言うと結構あった。でも、不安なの……一人でいると、落ちてるんじゃないかってずっと考えて、気持ちが沈んでく。時間が流れるのがとても遅く感じる。だから、彰と一緒ならそんな不安も忘れられるかもって」

「それなら、存分に俺を頼ってくれよ。ってアイドルのオーディション受けるなんて俺、聞いてないぞ」

「言ってなかったからね」

「しかも最終って」

「この前私、記憶力がいいって言ったわよね。そのおかげ」

 ミサは台本をすぐに覚えていた。たぶんそのおかげで歌やダンスを覚えたのだろう。

「それに普段ライブで人前に立ってるから、審査員の前でも緊張しなかったわ」

「そうなのか。そうと言ってくれれば応援とかしたのに……」

「なら受かるように神頼みでもお願いしようかしら。今からお百度参りとかどう?」

「それは勘弁してくれ」

 なんて笑いながら俺は思う。

 ミサは夢への一歩を踏み出し続けている。

 俺も負けていられない。

 この映画を完成させてしまわなければ。

 けれど、俺はどちらの映画を賞に出せばいいのだろうか。

 冷酷で陰のある殺人鬼を演じたミサ、サイコパス的な狂気を孕んだ殺人鬼を演じた真琴。

 俺は果たして最後に、どちらに殺されるべきなのだろうか。

 考えても仕方がなく、そんな考えもミサとともに夏の夜風にあたっていれば自然と消え去ってしまった。


 涼しげな夜風が吹く帰り道。心地よい風にあたりながら、俺たちは静かに歩く。

 まるで夜に紛れるかのように。

「……ねぇ、彰」

「……何?」

 静寂にポツン、と響くミサの声はやけに大きく俺の耳に届いた。

「お菓子、買って帰らない? 彰の家で映画見ながら食べたい」

「いいよ」

 俺たちはいつものコンビニへと入る。

「いらっしゃいませ~」

 だがそこで出迎えてくれたのは、いつものあの男ではなかった。

 大学生だろうか、可愛らしい女の人がレジにいる。

 まぁ、そんなことどうでもいいか。無意識にあの男を日常に加えていた自分に驚きながら、ミサとともにお菓子をかごに入れていく。

「ジュースも買うか」

「お酒も欲しいわね」

「……ほどほどにな」

 ほどほどに、といいながら彼女は遠慮なしに酎ハイやら缶ビールをかごに入れていく。

 これでまた、この前のように酔っぱらうこと確定だ。

 俺は自分のゼロカロリーコーラをかごに入れて会計へ向かう。

 いい笑顔で接客してくれるのは気持ちがいい。

 俺は満足してコンビニを後にする。

 だが、そこから一分もしないうちにその心地よさも吹き飛ぶことになるのだが。

「……彰。あれ、何かしら?」

 ミサが指さしたのは家の塀と塀に挟まれた小さな路地。人が一人通れるくらいの狭さのそこに、何かが横たわっている。

 普段なら気にしない路地だが、その何かがあることでどうしようもない負のオーラが溢れだしていた。

「確認、してみようか」

 やめておいた方がいい、本能はそう叫ぶが野次馬精神が俺の足を路地へと導いた。

 背後にミサを連れ、ゆっくりとその何かへ向かい、スマホのライトでそれを照らす。

「……猫だ。死んでるがな」

 その何かは、猫の死体だった。

 だがどこか不自然だ。

 腹が割かれ、そこから赤黒い臓物が零れ落ちている。

 ライトの光に反射してぬめりぬめりと輝くそれは、まだ死んでから間もないのではと思わせる。

「事故にしては傷が少ないし、何か動物にやられたとしても傷口がきれいだ……」

「誰かに、殺されたのかしら……ほら、ニュースでやってる……」

 俺はこの前見た週刊誌を思い出した。

 最近この界隈で連続殺人とともに動物の虐殺事件も起こっている。

 もしかするとそいつが殺したのかもしれない。

「だとしたらここにずっといたらやばいな……」

 そう思うも、俺は猫の死体にくぎ付けにされ、離れることができない。

 まるで足が杭になり地面に刺さったかのように離れない。

「ねぇ、彰……本当にやばいと思ってるなら、どうしてカメラを回してるのかしら?」

「……え?」

 いつの間にかスマホのカメラアプリが起動しており、猫の死体を撮り続けていたようだ。

 ライトを点ける時にカメラが起動したのだろうか。

 だがどうしてだろうか。ミサに指摘されてからもカメラで猫の死体を撮ることを止められない。

 それどころか、得体のしれない何かが俺の腹の底で湧き上がっているではないか。

「とにかく、警察に連絡しましょう。ずっとこのままじゃかわいそうでしょう?」

「あ、あぁ……」

 ミサに引っ張られるようにして、ようやく俺は路地から出ることができた。

 警察が来て軽く事情を聴かれ、ようやく家に帰る。

 だが、家についても頭の中では猫の死体がぐるぐると渦巻き、俺の何かを刺激し続けていた。


「……ん、俺、寝てたのか?」

 俺は眠気眼をこすりぐっと伸びをする。

 ソファで寝ていたせいか身体が固まり、伸びをするとバキバキと関節が鳴る音がする。

 時刻は深夜3時。

 机の上にはお菓子やジュース、酒が空になって転がっている。

「映画見ながら寝てたのか……」

 ミサと帰ってきて映画を見ながら、どうやら俺は眠ってしまったらしい。

 といっても1時間ちょっとだが。

 俺はきょろきょろとミサを探すがどこにもいない。

 シャワーだろうかと思ったが、風呂場にも人がいる気配がない。

「風呂場にもトイレにもいない……帰ったってことはないよな」

 終電を逃しているのでさすがに帰れないはずだ。

 ではどこに、と思い俺は二階へ。

「この部屋か?」

 二階の勉強部屋に人の気配がある。

 扉を開けると案の定そこにはミサがいた。

「ミサ、何してるんだ?」

「ちょっと探検よ。私、あまり彰のこと知らないから」

 そう言いながら俺の勉強机をなでる彼女。

 その表情にはどこか寂しさが見て取れた。

「彰の机、ボロボロね」

「まぁな。小学校の頃からずっと使ってたから。愛着がわいて捨てるのためらっちゃってさ」

「私、モノを大事にする人、好きよ」

 好き、といわれて恥ずかしさと嬉しさから頬が熱くなるのを感じる。

 開けた窓から入ってくる涼しげな夜風がなければ、今頃顔は爆発しそうなほど熱くなっていただろう。

「あら? これは何かしら……カードケース?」

「触るなっ!」

 ミサが机に置かれたトレカのカードデッキケースを触ろうとした時、俺は思わず叫んでいた。

 先ほど感じた恥ずかしさも一瞬にしてどこかに吹き飛ぶ。

 びくり、と肩を震わせたミサ。きつく言い過ぎた、と思ったが時は巻き戻せない。

「……ごめん、それ、大事なものだから」

「私こそ、ごめんなさい……」

 お互いの間に気まずい沈黙が流れる。

 何か話さなければ、と口を開いたが……

『あの!』

 二人して言葉がかぶってしまう。

 また沈黙。

 お互いを敬遠しあいながら、ミサがゆっくりと口を開いた。

「よかったらだけれど、どうして大事なのか教えてもらえないかしら?」

「俺もなんで大事か話そうと思ってた」

 互いの間に張り詰めていた緊張の糸がほどけた気がした。

 俺はカードケースをなでる。掃除を怠っていたせいでほこりが積もっており、少し不快だ。

「これさ、俺の死んだ友達が最後にくれたものなんだよ。最後って言っても、死んだあとなんだけどな」

 その死んだ友達とはもちろん勇吾だ。

「些細なことでケンカしてさ、そのまま仲直りできずに事故で死んだんだ」

「……」

 ミサは黙って話を聞いてくれている。

 俺は今まで黙っていたことを、彼女にすべてぶちまけた。

 彼女なら受け入れてくれる、俺の罪を。

 何の根拠もないが、彼女なら許してくれると思った。

「でさ、その事故なんだけど、俺にこいつを持ってくる途中に車に轢かれたんだ。だから、勇吾が死んだのは俺のせい……」

「……」

「全部、俺が悪いんだ……」

「ねぇ、彰。聞いておいて悪いんだけど、あなたは私に何を求めてるの?」

「え……?」

 俺は彼女の顔を覗き、思わず目を背けた。

 彼女の瞳には、俺を侮蔑するような色がこもっていたから。

「あなたは私に自分は悪くない、って言ってほしいだけでしょう? けど、それを言うのは私の役目じゃない」

「……」

「あなたの罪は、あなたが背負うの。それにもう死んでるから許すとか許さないとか、関係ないと思う」

「……じゃあ、俺はどうしたらいいんだよ」

 俺は恐る恐るもう一度彼女を見た。

 彼女は聖母のような優しげな瞳で、俺を見ていた。

「忘れないことよ。何があっても、友達のことを忘れないであげて。あなたにはそれしかないから」

「……」

「けれど、どうしてもそれだけじゃだめだと思うなら、私も半分背負ってあげる」

「……え?」

 彼女がぎゅっと、俺に抱き着いてきた。

 もう何年も感じていない、他人の肌のぬくもり。

 柔らかくて暖かくて、母親のよう。

 けれど母親に感じることのない、酒臭さが彼女にはあったが。

「私のことを見てくれたあなたに、私も恩返しがしたいから……」

「……ミサ」

 俺も彼女に抱き着こうと腕を回したが、寸でのところで腕を下ろす。

 俺にはまだ、そんな度胸もなかった。

 映画の主人公のように、ここで彼女を抱きしめるには、まだ俺の決意は固まっていない。

 そうこうしている間にも彼女は離れていく。

 後に残るは、彼女自身の甘い、けれど酒臭いにおいだけだった。

「それじゃ下に行こうかしら。この部屋、ほこりっぽくて……くしゅん!」

「……また掃除しておくよ」

「また、じゃなくて明日ね。私も手伝ってあげるから」

「……明日もいる気かよ」

「だって不安だもの。彰といれば楽しいから時間も不安も、自分がアイドルだってことも忘れられるから……」

 彼女のその言葉にこたえられるほど、俺は恋愛経験を積んでいない。

 結局「うん」、と小さく答えるだけで精いっぱいだ。

 また二人で映画を見て、二人して眠ってしまい、朝を迎えることとなった。


 そこからさらに三日が経過した。

「なぁ、ミサ。お前、家に帰らなくてもいいのか?」

「……まぁね。帰っても誰もいないから。それにほら、一人でいると不安になるし」

 だからといって三日間、俺の家に泊まられても困る。

 食事とかそういう意味ではなく、精神的負担な意味で。

 彼女とともに買い物に行ったり食事を作ったり映画を見たり、時には撮影をしたり。

 何をするにも24時間彼女と一緒。

 まるでミサと同棲しているみたいでドキドキしたし、女の子との生活はデリカシーに繊細な注意を払わなければならず、そのせいで俺のいつもどおりは破綻していた。

「結果発表っていつなんだ?」

「遅くても1週間くらいみたいよ。早く決まったならその時に連絡が来るわ」

「そうか」

 この生活は後四日続くかもしれないということか。

 女の子と共に生活するなんて難しい。

 それに真琴のこともどうしようか考えなければならない。

 彼女からずっとメールは来ているのだが、体調がよくないと嘘の返信をしている。

 彼女の撮影の遅れもまた、どこかで取り返さなければならない重要事項だ。

 しかし一点集中でミサを撮り続けたおかげか、こちらは最終シーン以外ほぼ完成といっていい。

「そういやさ、ミサはどうしてアイドルになりたいんだ?」

「どうして……そうね、兄の影響かしら」

「お兄さん、いたのか」

「えぇ。まぁあんまり人に誇れる兄じゃないけれども」

 はぁ、とため息を吐くもミサは笑っている。

 大事な家族のことを思い出し、瞳がきらりと濡れている気がする。

「私が小学5年生くらいのころかしら、当時高校2年生だった兄がアイドルのライブに連れて行ってくれたのよ。ステージでキラキラと輝くアイドルはとても素敵で、私もあんな風にキラキラした特別な存在になりたいと思ったの」

「……特別な存在」

 そうか、と俺は納得する。

 人は誰しも特別な存在になりたがっているのだ。

 ミサも真琴も、俺も。

 そのために、俺たちは生きているのだろう。

「だから私は、あの日みたいにキラキラしたステージに立ちたいから、アイドルを目指すの。そのためなら手段は選ばないわ」

「薬ばらまいてもか?」

「えぇ。アイドルになるためなら、地獄にだって落ちてもいいし、神様に唾を吐いても構わないわ」

 真剣な眼差しの彼女。

 本当にアイドルに憧れているんだ、と俺は改めて思った。

「もし私がアイドルになったら、彰はマネージャーとして私をプロデュースしなさい」

「……俺、映画監督になりたいんだけど」

「映画監督兼マネージャーよ。彰は死ぬまで私主演の映画だけ撮ってなさい」

「……横暴だ」

 けれど、こんなにいとおしいミサを常に、俺だけがカメラに収められるのなら、それはそれで幸せなのかもしれない。

 と思いつつも少し悲しくなる。

 俺たちの関係は、もう少し近づいてもいいはずだ。いや、俺が近づきたいと思っている。

 だから俺は、ためらっていた一歩を踏み出すことにした。

「あ、あのさ……明日、水族館に行かないか?」

「……唐突ね。どうしたの? 映画の撮影?」

「いや……その……で、デート……」

 言葉を発した俺の顔は、きっと真っ赤に染まっていただろう。

 何せ自分で感じるほど、顔が熱い。

 彼女の言葉を待つ時間が怖くて、震えが止まらない。

「デート? ふふ、いいわ。私、デートに興味があったのよ。青春はアイドルの追っかけで潰したから男の子と遊んだことがなかったの」

 まさかの興味本位でしたか。

 しかしデートの誘いは成功した。この一歩は小さくとも、俺の人生の中では大きな一歩といえよう。

 心の中でガッツポーズしながら、嬉しさが顔に漏れ出ないように予定を立てる。

 だがどうしても嬉しさが、ダムが決壊したかのように溢れ出て顔がにやけてしまう。

 俺は、明日まで自分を保っていられるだろうか。


 翌日、天気は晴れ。雲一つない空、カンカンと照り付ける日差し。

 デートするにしては少し暑いが、いい天気だ。

「……少し早く来すぎたかもしれない」

 デートの雰囲気を楽しむためにミサには一度帰ってもらい、現地で合流することになっている。

 約束は午後1時。

 今は12時半。30分も早い到着が俺の心を表している。

「待つのもデートの楽しみ、って思っておくか」

 俺はスマホで新作映画のまとめサイトを見ながら待つ。

 普段なら、この映画おもしろそう、とか、見に行きたい、としか思わないが今は、ミサと行ってみたい、と考えてしまう。

 俺の生活のリズムに、ミサが入り込んでいる証拠だ。

 そんなことを考えながら待つこと約10分。

「お待たせ、彰。といっても、まだ待ち合わせより早いけどね」

 待ちに待ったミサが現れた。

 彼女はいつものアイドル衣装。だが、いつもよりめかしこんでいて可愛らしい。

 しかも真夏の太陽の煌きのせいで愛おしさ3割増しだ。

「……」

 俺は彼女の姿に見惚れるしかなかった。

「どうしたのかしら、彰君。黙り込んじゃって」

「いや、その……可愛いなって」

 自然とミサを称賛する言葉が口から零れていた。無意識でそう言ってしまえるほど彼女は可愛らしかったからだ。

「ふふ、私が可愛いのは当り前よ。何せアイドルになる女なんだから」

 そう言ってにっこりと笑うミサに、俺の心が高鳴る。

 デートはまだ始まっていないのにこの調子だと、最後まで体がもたない気がする。

 俺は理性をフル動員して心のざわつきを治めることに。

「それじゃあ行こうか」

 平静を装い彼女の先を行く。

「そうね、そうしましょう。少し暑いし、早く涼しい館内に行きましょう」

 よく見ると彼女の首筋には汗の球が浮かんでおり、つつぅと胸元に垂れていくではないか。

 とても扇情的で刺激的。だがここはぐっと抑えて彼女を冷房の効いた館内にエスコートした。


「私ってあんまり水族館、好きじゃないの」

「……え?」

 館内を回りながらふと、彼女がそうつぶやいた。

 薄暗い館内で、水のほのかな青に照らされた彼女の表情を確認しようとする。

 が、その瞬間水槽を横切る大きな魚影。

 彼女の表情が暗く染まりわからない。

「ここにいる魚たちはみんな水槽の中に囚われて見世物にされてる……」

 また明かりが戻り、彼女の表情が浮かび上がった。

 ミサは、ふっと小さく笑っている。

 まるで嘲るように。けれど、それが俺には悲しそうに見えた。

「子供のころの私はそれがひどく嫌いだった。けれどね」

 彼女が俺の顔を見据える。

 俺を見る強い眼差しが、水色の明かりに凛として照らされている。

「今はそう思わない。ここの魚たちは、アイドルそのものだから」

「……アイドル?」

「たとえ見世物として人に笑われたとしても、それで笑顔になってくれる人がいるのだったら、それってアイドルと同じじゃないかしら」

「言われてみればそうかもしれないな」

「だからここにいる魚たちは私の先輩ってことになるわね」

「魚が先輩、か。ハハ、じゃあ今日はその先輩たちにいろいろ学ばないとな」

「えぇ、そうね。それじゃあイルカショーでも行きましょうか。ほら、あと10分で始まるみたいだし」

 二人で回るとあっという間に時間が過ぎていく。

 いろいろなことを話して、いろいろな魚を見て、ショーも楽しんで、とても充実した時間。

 時間というものがこんなにあっという間に過ぎて、時間よ止まってくれ、と思ったのはきっと初めてのことだろう。

 だが時間は俺たちを置いてけぼりにして進んでいくわけではない。

 あっという間に時刻は19時を回り、空にはうっすらと星が浮かんでいた。

 俺たちは水族館の中央あたりにある広場のベンチに腰を下ろし、そよそよとした夜風に身をゆだねていた。

「ふぅ……久々に歩き疲れたわね。こんな日は帰ってからの一杯が美味しいのよ」

「はは、また酔っぱらうなよ」

「さすがに人さまの家で酔っぱらうほど図々しくないわ」

 楽しそうに笑う彼女。

 ライトに照らされたその横顔を見ているだけで、俺は幸せだ。

 そう思えるほど、彼女の笑みは俺の中で深い傷跡を残していた。

「……あら、電話ね。こんな時間に誰かしら」

 ごめん、と謝る仕草をしてミサは電話に出た。

 誰からの電話だろうか。どこか緊張している様子だ。

 けれどそれも一転、声色に嬉しさが混じっている。

 ミサは手早く電話を切ると俺の方を向いた。

 その顔はいつもの彼女からは想像もできないほどの満面な笑みで、しかも目には涙が浮かんでいた。

 いったいどうしたのか、と尋ねようとする前に俺のその言葉はさえぎられた。

 彼女の力強い抱擁によって。

「え!? み、ミサ!? どうしたんだよ!?」

「受かったわ!」

「え……?」

「アイドル! 私、オーディションに受かったの!」

「ということは……」

「えぇ! 私もアイドルの仲間入りよ!」

 彼女はまた俺に力強く抱き着いてきた。

 ぎりぎりと鈍い痛みが走るが、それほど彼女が嬉しかったということだろう。

 その痛みが、俺にも彼女の嬉しさを伝えているようで、こちらまで嬉しくなってくる。

「ほんと……良かった……ぐすっ」

 だが、彼女の嬉々とした声音に交じる涙。

 涙は嬉しさを飲み込むように次々と溢れ出し、彼女を飲み込んだ。

 抱き着かれていて彼女の表情は見えないが、きっと涙でぐちゃぐちゃなのだろう。

「ごめん……このまま、いさせて……涙、止まるまで……」

 俺は彼女の涙が引くまでずっと、か弱い彼女の体を抱きしめた。

 夢が現実に変わるその一瞬に、俺は立ち会うことができたのだ。

 けれど俺は、彼女の幸福を心の底から祝うことができなかった。

 これで俺と彼女の接点は、無くなってしまうのだから。


 数分後、彼女はようやく泣き止んだ。

 明かりに照らされた彼女の瞳がやや腫れていて、俺は思わず目をそらした。

「ほら、これ飲んで落ち着け」

「ありがと」

 彼女に缶コーヒーを渡す。

 受け取った彼女の温かな手のひらが触れ、思わずドキリと胸が高鳴る。

 俺はもう、我慢できるわけなかった。

 そろそろ俺も、新しい一歩を踏み出す番だ。

「これで私もアイドルなのね……お酒もタバコもやめなくちゃ」

「……」

「けど、最後に一本だけ」

 彼女がタバコを口に運ぶ前に、俺は彼女の唇を奪った。

 驚きで固まる彼女のことを無視して、強く唇を押し当てた。

 日頃から吸っているせいか、少しタバコの臭いが気になったが、とても甘くて官能的な味わいだ。

 あの日初めて彼女と会った時のキスとはまた違った感触に、脳が痺れだす。

「……ごめん」

 だが咄嗟に我に返り唇を離す。一歩を踏み出すと言っても強引すぎた。気持ちが逸りすぎたせいだ。

「彰。謝るなら、キスなんてしないで」

「……その、ごめ」

 俺の言葉を途中で遮るようにミサが言う。

「謝るより告白が先でしょう?」

「……」

「もしかして私から言ったほうがいいのかしら? それでも彰、男なの?」

 こんな安い挑発に乗ってしまうのが、男ってやつだ。

「俺、ミサのことが好きだ。初めて会った時からだんだん惹かれていって……だから、俺と付き合ってほしい」

「ごめんなさい」

「……え?」

 頭が言葉を理解できない。

 いや、理解しようとしない。

 機能停止した脳は、やがて俺の体の機能までも奪っていく。

 呼吸ができない。瞬きもできない。心臓も動いていないかもしれない。

「彰、アイドルに恋愛はご法度よ。スキャンダルは炎上の種なの」

「……」

「でも、私が本格的にアイドルになるまでなら、付き合ってあげる」

「それって……」

「えぇ、もちろんオッケーってことよ。あとのことはその時考えましょう。あなたが、スキャンダルにも負けないほど私を燃え上がらせてくれたら、その時は、ね?」

 彼女の言葉が柄にもないほどアメリカンなのは照れ隠しのせいだろうか。

 まぁそんなことどうでもいい。

 今、俺の体は一気に機能を取り戻してオーバーヒートしてしまいそう。

 簡単に言えば爆発寸前。

「彰」

「ミサ」

 導火線に火をつけるかのごとく、彼女と熱烈なキスを交わす。

 だが、そんな俺たちの間を引き裂くかのように、今度は俺のスマホの電話が鳴った。

「出ないで。今は、私だけを見て」

「もちろん」

 スマホの電源を落として、俺たちは熱いキスを交わしあう。

 嬉しさとか恥ずかしさとか幸福感とか、もう何もかもどうでもよくなる。

 今だけは彼女のことだけを、俺の奥底まで刻み込む。

 俺のすべては今、ミサに染まった。

 長いキスが終わり、俺たちは家に帰ることに。

 彼女となったミサとの初めての帰り道だ。

 改めて恋人になったと二人して笑いあい、気恥ずかしさで会話がなくなった。

 恥ずかしさをごまかすようにスマホの電源をつけると、真琴からのメールが1件あった。

 先ほどの電話も真琴からのようだ。

『今すぐ会いたい』

 メールにはこれだけ書かれていた。いつもハイテンションな文面を送ってくる真琴にしては簡素な文面。

 だが俺はもう一度スマホの電源を落とし、ミサと手を取り合いながら帰り路を歩く。

 真琴ではなく、ミサのほうが大切だ。

 だが、この選択が俺のラストシーンを左右するとは、今の幸福な俺には知る由もなかった。


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