ー第四章ーエンドロールは本性をさらして

『お前も俺と同じなんだろう?』

 夜の闇に染まる校舎裏は、昼とは違う顔で俺たちを見下ろしている。月明りのみが照らすのは、足元に転がるかつてウサギだったものたち。静寂が鼓膜を震わせびりびりと痛む。

『なぁ、お前も同じだろう?』

 あの日、ウサギ小屋での記憶の夢だ。小学6年生の俺は、田中と対峙している。

 ぼさぼさの長髪でうつむきがちなこいつは、何を考えているかわからない。

 口が小さく動き、ぼそぼそと言葉が紡がれている。

『お前も同じだ』

 俺が、同じ。俺は、こいつとは違う。

『いいや、同じだ。認めろ』

 こいつとは違う。

『お前も、退屈だからここに来たんだろう?』

 退屈? わけがわからない。俺はあの日、どうしてここに来たのだろうか。

『ねぇ、なんでカメラを持ってるの?』

 田中の口元が、にやぁ、と邪悪な三日月を浮かべたと同時に、俺は目を覚ました。

「……退屈」

 小さくつぶやいて隣を見る。

 同じベッドで寝ているミサが、心地よい寝顔を浮かべていた。俺の嫌な夢と比べ物にならないくらい良い夢を見ているのだろうか。

「まだ6時か……」

 壁掛けの時計を見て、俺は立ち上がる。

 二度寝しようと思ったがそんな気分ではない。

 ミサを起こさないように俺はそっと寝室を出た。

「はぁ……」

 告白が成功してから1週間。

 彼女はまだ俺の家にいる。

 というのも事務所が俺の家と近いらしい。

 契約のための手続きの書類を持って行ったり、説明を受けに度々事務所へ行くため俺の家にいる。

 俺たちは恋人同士になった。だが実感はない。

 いつものように映画を見たり撮ったりの日々。

 あの日から真琴の連絡はない。こちらから連絡したが応答もない。

「はぁ……」

 俺はまたため息を吐いた。

 なぜだろうか。ここ最近退屈で仕方がない。

 彼女らと出会い、日常が非日常になった。

 けれど非日常が続けばそれが日常になる。

 俺はそれがたまらなく嫌だった。そのせいで嫌な記憶も夢で思い出すこととなる。

「……なんで肝心なところ、思い出せないかなぁ」

 いったい俺はあの日、どうしてあの場にいたのだろうか。

 夜の小学校に行く理由が思いつかない。

 だがどれだけ頭を回転させようが、無くしたものを思い出せるはずもなかった。

「とりあえず、飯にするか……」

 少し早いが朝食にする。

 朝のニュースを見ながら食パンをかじる。

『今朝のニュースです。またもH県で殺人事件です。殺害されたのは40代の女性と巡回にあたっていた警官で、犯人は警官の銃を奪い逃走した模様です』

「おいおい、巡回の警官が銃なんて取られていいのかよ……」

 まぁ相手は巷を騒がす連続殺人犯だ。丸腰で遭遇したらやばいと考えたのだろう。

 しかし今度は銃か。怖いな。

 完全に他人事の自分に驚く。こんな事件も、連続して起これば日常になってしまうのだ。

「ふわぁ……おはよう、彰」

「あぁ、おはよう、ミサ」

 ミサが起きてきたので彼女の分も食パンを焼く。

 ついでだから俺ももう一枚パンを焼いた。

「ねぇ彰。私、明日であのライブハウス、卒業するわ」

「また急だな……」

 パンをかじりながらミサは言う。

「私、来週からアイドルのトレーニングがあるの。練習を重ねて小さなライブハウスでライブして、顔を覚えてもらうのよ。けどトレーニングしながらいつも通りライブするのはきついと思うのよ」

「それに本物のアイドルがあんなやばいことしてたらまずいもんな。ってお前、もしこんなことしてたって事務所にばれたら……」

「確実にクビね。けどライブのお客さんは契約で他言無用だし、バックにも怖い人たちがいるのよ。ばらしそうになった瞬間に沈められるわ」

「うわっ……こわっ……」

 ヤバイ薬をばらまいている連中だ。結構怖い人たちなのだろうと容易に想像できる。

 『アウトレイジ』のたけしよりも怖そうだ。

「卒業するときにいくらかお金を渡して黙っててもらうつもりなの。だから多分バレないわ」

「それならいいんだけどな」

 俺はコーヒーカップに手を伸ばそうとしたが、それを落としてしまった。

 パリン、と大きな音を立てて破片が床一面に散らばる。

 生温いコーヒーが足裏に広がっていくのが分かった。

「大丈夫、彰!?」

「あぁ、大丈夫。ケガとかないし。ちょっとほうき持ってきてくれるか。このままじゃ俺歩けない」

「わかったわ」

 ミサが急いでほうきを取りに行く。

 俺はその間われたカップをずっと見つめていた。

 ばらばらに砕け散ったそれを見て、俺はどこか心地よい、まるで絶頂にも似た感覚を覚えていた。

 壊れているものが、妙に愛おしい。

 このままここに破片が散らばっていてもいいな、なんて思ったがミサがさっとそれを片付けてしまった。

「どうしたの、しょんぼりした顔して。もしかして、お気に入りのカップだったのかしら?」

「いや、100円のやつだ。けど、まぁちょっとは愛着あったかもな」

 とりあえず今日の予定は100円ショップへ行くことに決まった。


「コップの他に何か買うのあったかな?」

 ふらふらと店内を歩き回りめぼしいものをかごに入れていく。

 と、台所用品のコーナーで見覚えのある人物がいた。

「真琴……」

 少し距離があるせいか、向こうはまだ気づいていない。

 挨拶してもいいのだが、俺と真琴の間には距離ができてしまっている。

 しかもミサのこともあるため迂闊に話しかけないほうがよさそうだ。

 そう思い違うコーナーへと足を向けたのだが……

「彰君……」

 真琴に見つかってしまう。

「あ、あはは……真琴、久しぶり。奇遇だな、こんなところで会うなんて」

「そうだね……」

 真琴に違和感を覚える。

 彼女にいつものような元気はなく、少し顔がやつれているような気がした。

 いったい何があったのだろうか。

「なぁ、真琴。お前、顔色悪いぞ? 最近連絡なかったし風邪か?」

「……分かんないよ、そんなこと」

 元気のない真琴はまるで別人のようで、彼女の顔をした他人と話しているようでぞっとする。

 早く会話を切り上げようとしたが、彼女の言葉がそれを遮った。

「彰君。今から君の家、行くよ」

「え!? い、今から!?」

「……何かダメなこと、あるの?」

 ミサはもう事務所に行っているだろうから、家には誰もいない。

 だが彼女がいた痕跡は残っている。

「えっと……ほら、お前顔色悪いし、今日はやめておこうぜ」

 何とか理由を作ってみるが彼女は譲らなかった。

「ボクはいたって元気だよ。だから彰君、家に行くよ。それとも、彰君のほうに行けない理由があるとか?」

 真琴の冷たい視線が突き刺さった。

 彼女のこんな瞳は見たことない。少したじろいでしまう。

「……いや、そんなことはない」

「そう。それじゃあ今から行こうよ」

 真琴に引っ張られて無理やり俺の家に行くことに。

 自分の家にこんな風にして帰るなど、俺の人生で初めてだった。


「彰君。映画、見ようよ」

「……いきなりだな」

 俺の家に着くなり彼女はそんなことを言う。

 いったいどうしたのだろうか。疑いながらも俺は適当なディスクを選んで再生する。

「はい、ジュース」

 真琴が紙パックのオレンジジュースを差し出してきた。

「さっきボクが買ったやつ。飲もうよ」

「じゃあ……」

 いただきます、と俺はジュースを飲む。

 普通の甘酸っぱいオレンジジュースだ。果実感が乾いた喉に嬉しい。

「なぁ、真琴……お前、どうしたんだよ?」

 横に座った真琴に尋ねてみたが、彼女は画面から目を離さない。

 俺の言葉を無視するかの如く、映画を食い入るように見ている。

 だがその瞳に感情は映っておらず、本当に見ているのだろうか怪しくなる。

 ただ画面を眺めている、そんな感じだ。

「……だんまりかよ」

 結局彼女は何も言わないので俺も映画を見ることに。

 しかし今朝普段よりも早く起きたせいか、だんだんと眠たくなってくる。

 気が付けば俺は眠ってしまっており、次に目を覚ました時には別の映画が流れていた。

「……真琴?」

 隣にいたはずの真琴がおらず、俺はきょろきょろとあたりを見る。

 まさか俺が眠っている間に部屋を探られたのではないか、という不安がよぎる。

 だが俺の不安をよそに真琴はすぐに戻ってきた。

「ごめん、トイレに行ってた」

「そうか」

 戻ってきた真琴は少し顔色がよくなっていた気がした。

 多分お腹が痛かったのだろう、と自分で勝手に納得することに。

「ねぇ、彰君。ボク、彰君に渡したいものがあるの」

「俺に?」

 そういうと真琴は俺の手を掴み、その手をおもむろに自分の胸へと持って行ったのだ。

 俺の手に収まる彼女の柔らかな胸。

 低身長ながら大きなその胸は、もっちりとしていて手を離そうとしても吸い付いてくるよう。

「ま、真琴!?」

 急にどうしたのか、俺はたじろぐ。

 普段スキンシップが多い彼女だが、こんなことをする奴ではない。

「彰君。渡したいものはね、ボクの処女」

「は、はぁ!? おい、真琴、ほんとにどうした!?」

「……」

 真琴は俺の手を力強く掴み、逃げられないようにする。

 背伸びして俺の顔を下から覗き込んでくる。

 その瞳に映るたじろいだ俺。

 彼女の瞳には、まるで感情というものが見えない。

「ねぇ、ボクじゃダメかな? ボクじゃ、嫌なの?」

「嫌とかそういうのじゃなくてだな……もっと自分を大事にしろって」

「ボクは彰君に処女をもらってほしいんだよ。ほら、同意の上」

「同意だからってその……俺には、できないって……」

 そう、俺にはミサがいる。

 ここで真琴の誘いに乗ることは彼女を裏切ることだ。

 そんなこと、できるわけなかった。

「そう……わかったよ」

 真琴はそう言うと、俺の手を離した。

 彼女の柔らかな胸から俺の手が離れていく。

 手のひらにはまだ彼女の暖かなぬくもりが残っているよう。

「真琴……お前、ほんとにどうしたんだよ?」

 そういうと彼女はもう一度俺を見つめ、口の端だけを、にっ、と歪めた。

「冗談。ほんとはこっち」

 真琴が俺に長方形の紙を差し出した。何か見たことある形だ。

「秘密のライブのチケット。楽しそうでしょ?」

「……」

 そのチケットは、ミサのライブのモノだった。しかも明日、最後のライブのモノだ。

 真琴がどういう経路でこれを入手したのかわからないが、俺はこれを受け取るしかなかった。

 断るための言い訳が見つからないせいだ。

「先輩たちにも渡してるから、みんなで行こうよ」

「あ、あぁ……」

 それに彼女の大きな瞳がじっと俺を見据えて離さないのだ。

 まるで肉食獣が獲物を威嚇するような、そんな圧を感じるまなざし。

 断ればその場で殺されてしまいそう。

「よかった。それじゃあ明日。駅前でいいかな?」

「わかった……」

「今日はありがとね、彰君。バイバイ」

「あ、あぁ……またな」

 いったい彼女は何のために来たのだろうか。

 本当に映画を見に来ただけだったのだろうか。

 そんな俺の考えをよそに、家から出ていく彼女の後姿はどこか寂しそうに見えた。

 彼女の姿が見えなくなるまで、庭に繋がれたアインシュタインは吠え続けたのだった。


 その日はそれ以降何もなく過ぎていき、翌日の夕暮れ時。

 俺の不安は膨らみ続け破裂寸前。

 今日何かが起こりそうでドキドキしている。

「よぉ、彰。お前、顔色悪いぜ?」

「……ラムか」

 久しぶりにラムを家に呼んだ。

 彼といれば少しは落ち着けるかもと思ったが、逆に不快に感じている。

「お前は運命の選択をした。その選択は間違っちゃいねぇよ、自分で納得してるならな」

「……何が言いたい?」

「これから先待っているエンディングが、バッドエンディングだとしてもお前が納得してるならそれでハッピーエンドになるんじゃねぇかってことだ」

「……エンディングって、なんだよ」

 ラムは少し考えて答えた。

「俺と、お前の物語のだ」

「……どういうことだよ」

「そろそろお前もわかれよ。退屈を受け入れろ」

「……また、退屈か」

 俺の人生は退屈に飾られてきた。

 小学校のころ、勇吾が死んでから俺は退屈に囚われた。

 大切な人を亡くす痛みから逃げた結果、退屈だけが俺の友達となった。

 映画を見ることだけが、退屈を緩和する唯一の方法。

 ……本当に、唯一の方法だったのだろうか。

 自分の中で違和が膨らみ、自分がわからなくなる。

「今日で終わりにしよう。ミサがステージから降りて新しい場所へ飛び立つように、俺たちも一度ピリオドを打って、新しくいこうぜ」

「……ラム。今日のお前、おかしいよ。何言ってるか、全然わからない」

「お前が理解しようとしないだけだ。だが、それでもいいだろう。エンディングになれば、嫌でも理解するさ」

 その時、庭のアインシュタインが鳴き、インターフォンが響き渡った。

 玄関のカメラには真琴と、先輩たちが映っていた。

「行って来いよ」

「……あぁ、行ってくるよ、ラム」

 俺はラムに背を向けて玄関へ向かった。

 真琴らはどこか浮かれた風にそわそわと俺を待っていた。

 よっぽどライブが楽しみなのだろう。

 俺は軽く用意を済ませてから家を出た。

 いつの間にかラムはいなくなっていた。


 いつもの狭く、暑苦しいライブハウス。

 電車が上を走る振動が腹の底を響かせる。

 周りの連中のそわそわとした感じが伝播し、俺まで落ちつかない気分になる。

(そういや……ここに来る人数も増えたな)

 俺が初めて来た時から大体1カ月か。

 こんな短期間で初めの人数よりも2倍も3倍も客が増えていた。

 まぁ薬をばらまく怪しいライブのせいというのもあるが、彼女目当てのファンも増えたような気がする。

 その証拠に今日は周りのどこを見ても男だらけだ。

 あの日初めてミサに会い、キスをして、映画を撮りながら今に至る。

 ここまでの約一月が疾風の如く過ぎ去り、脳裏で一瞬の内に浮かんでは消えた。

 俺たちの軌跡を描いた映画ももう完成する。

「彰君。遠い目してたけど、大丈夫?」

「あ、あぁ……ちょっと考え事」

 真琴を適当にごまかして俺はステージに目を向けた。

 見慣れた小さなステージが、ミサがいないだけで大きく見える。

 パッとライブハウス内の明かりが消えて、ミサと楽器隊がステージに上がった。

 歓声が続々と上がり、会場のボルテージが一気に爆発する。

「さぁ、今宵も宴を始めましょう」

 かき鳴らされるギター。内臓を震わせるドラム。目がちかちかとするほどのライトが輝き、ミサの漆黒の姿を映し出す。

「私の、最後の姿を焼き付けなさい!」

 曲が始まると同時にミサは薬をばらまいた。

 まるで水族館のエサやり体験の魚たちのように薬に群がる観客。

 先輩二人もそれに群がっていたが、真琴はそれには加わらなかったようだ。

 あの日の俺のようにミサの姿を見ているだけ。

「あなたたちの欲望、全部ぶつけなさい! 私が、受け止めてあげるから!」

 薬で飛んだ奴らの暴力と凌辱の嵐が吹き荒れる。

 初めて見た時はあまりにも衝撃すぎたそれも今になっては当り前で、我を忘れ飛びかかってくる客を避けることなどたやすい。

「すげぇ! 周りがゾンビだらけだ!」

「俺にはサメが見えるぜ!」

 先輩たちはキメても脳内クソ映画のようで笑える。

 ここでは様々な人たちが欲望をぶつけあっていたことに気付く。

 それと同時に、俺はいったいここでどういう欲望をぶつけていたのか、疑問に思う。

 俺の欲望とは、なんだったのだろうか。

「おい!」

 と、考えているさなか、観客の一人がステージに向けて叫んだ。

「ミサちゃん! 最後なんだろ!? 俺たちの欲望を受け止めてくれるんだろ!? だったらヤらせろ!」

「そうだそうだ! いつもばらまくだけだとつまんないんだよ!」

 伝播した感情は、観客全てを巻き込んだ。

 ミサを引きずり降ろそうとする観客の群れがゾンビのように見える。

 ステージ上のミサは戸惑い顔を浮かべスタッフの助けを待っている。

 だがスタッフも観客に抑えられ、ついに一人がステージに上った。

「あ、あなたたち……ここでの約束は忘れてないでしょう? 演者に危害を加えてはならない」

「知ったことか。ミサちゃんがいなくなったこのステージに意味なんてない!」

「そうだ! 俺たちはミサちゃんを見に来てたんだ!」

 ミサが危ない。俺はステージに駆け寄ろうとしたが恰幅のいい男に抑えられてしまった。

「お、おい! 離せ!」

「お前だけミサちゃんといてずるいぞ!」

「は? 何言ってるんだよ」

「証拠はあるんだよ!」

 男はカバンから大量の写真をばらまいた。

 そこに映っているのは、俺とミサだ。一緒にコンビニから帰ってきている場面だ。

 それに俺の家に一緒に入る写真もある。

 いったいいつ、誰に撮られたものかわからない。

「ミサちゃんはこいつに騙されてたんだ!」

「ミサちゃんはこいつに穢されたんだ!」

「だから俺たちのもとにミサちゃんを取り戻す!」

「ミサちゃんを浄化するんだ!」

「お、お前ら……何を言ってるんだよ……」

「きゃっ!?」

 甲高い叫びが聞こえた瞬間、彼女の姿がステージ上から消えた。

 まるでダイブするかのように客の上を流されているミサ。

『ミサちゃん! ミサちゃん!』

 この空気は、異常だ。薬物で飛んでいるにしても異常すぎる。

 ミサの叫びが観客の怒声によってかき消される。

 俺も叫ぶが、やはりその言葉は届いていないようだ。

「さぁ、ミサちゃん……俺が浄化してあげるからね」

 裸の男がミサのもとへ向かう。

「ひっ!? い、嫌! 来ないで!」

「大丈夫。優しくするから」

「気持ち悪い! 近寄らないで!」

 ミサは恐怖に顔を歪めながら裸の男を蹴る。

 だが宙に持ち上げられた状態で、しかも女性の非力な力では男を止めることはできない。

「ミサちゃんは、俺のものだ!」

 だが横から別の男がミサの腕を掴み引っ張る。

「独り占めは許さないぞ! ミサちゃんは僕のものだ!」

「いいや! 俺だ!」

「髪だけでもいいから俺にもくれ!」

 ミサの体に触手のように這う無数の男の手。

 彼女の絶望と恐怖に染まった涙顔を無視するかのように、男たちは自らの欲望をむき出しにしてミサに襲い掛かった。

 俺を取り押さえていた男も、ミサの争奪戦に参加する。

 チャンスだと思い助けに向かうが、ミサはもう観客の群れに押し潰されてしまい俺の手すら届かない。

「や、やめて! そんなに引っ張ったら、腕、ちぎれるから! ひっ! い、痛い! 痛い! 助けて! 助けて、彰! あぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!」

 ミサの悲痛な叫びが、ステージに取り残されたマイクを通してスピーカーから広がった。

 その刹那、押し潰すように群れた肉の塊の中央から、赤い液体が、ぷしゅり、と噴出した。

 それはスプリンクラーのように俺たちの髪を、頬を濡らした。

「……血?」

 生暖かくてねっとりとしたそれを見た瞬間、俺の背筋がぞくりと震えた。

「ああぁぁぁぁぁぁあぁぁぁ!!! 腕! 腕がぁぁぁぁぁぁ!! 痛い! 痛いよぉぉぉぉ!!」

 鼓膜がびりびりと震えるくらい泣き叫ぶミサの声で確信した。

 彼女の腕が、引きちぎられたのだ。

「腕だ! やった! 俺のものだ!」

 叫びながら群衆の群れから飛び出た男。その手には、ミサの腕だったもの。

 男は愛おしそうに彼女の腕の断面を舐めながら、固まった指をへし折り自分のイチモツをしごき始めた。

 彼女の血で濡れた、恍惚な表情。

「はぁはぁ……ミサちゃん……ミサちゃん……あぁぁぁ!!!」

 彼の体が一瞬緊張し、震えた。

 絶頂に達して息を荒げる男。

 だが彼もまた、別の男に殴られミサの腕を奪われていた。

「足だ!」

「目だ!」

「髪だ!」

「腸だ!」

 血が噴き出し続け、世界が赤に染まる。

 彼女の絶叫が、電車の音に負けないほど広がる。

 だがその声も次第に薄れ、もう何も聞こえない。

 今聞こえるのは、男たちの荒い息遣いだけ。

 彼女は死んだのだろうか。それとも痛みで気を失っただけなのだろうか。

 確認するのが怖い。一歩を踏み出せない。

「ねぇ、彰君」

「……真琴」

 声をかけられてふりむいた。

 彼女は血で染まった顔で、にぃっと口角を吊り上げ笑っている。

 まるでこの惨状を楽しむみたいに。

「彰君の彼女、酷い目に遭ってたね」

「……真琴。どうして、知ってるんだ? ミサが俺の彼女だって」

「知ってるも何も、君たち見せつけてるみたいにいつもいつもボクの家の前を通って! ボクのことを無視して君たちはいつも幸せそう! 君は隠してるつもりだったけど、近所なんだから隠し通せるわけないでしょ? バカなの?」

「……」

「ま、そんなことはどうでもいいか。ねぇ、彰君。早くあっちでカメラ、回してきなよ」

「そんなこと、できるかよ……」

「そう言いながら、どうして君は今スマホでカメラ回してるのかな?」

 真琴に言われ、ハッとする。

 俺の手にはいつの間にかスマホが握られており、カメラが回っていたのだ。

 録画時間からして、男が俺の身柄を離した瞬間からずっと。

 この前もそうだ。猫の死体を前にした時も、俺は無意識にカメラを回していた。

「君はそうしないと退屈が解消できない。はっきり言って異常だよ」

「俺が……異常……?」

「そう。でも一番異常なのは、君の退屈しのぎに、ボクのお母さんが殺されたことだよ……」

「俺が……殺した?」

 いったいいつ? 俺が人を殺した?

 わからない。

「連続殺人事件の犯人は、君なんでしょ? 君の家を探して、証拠も見つけたんだ」

 彼女がポケットからメモリーカードを取り出して、カバンから取り出したハンディカメラに突き刺した。

「これ、君の家にあったよ。カードケースの中に」

「っ!」

 昨日、やはり真琴は家の中を荒らしていたのか。

 ちゃんと確認すればよかった。

 だが、俺はカードケースの中のメモリーカードなんて知らない。

 ……知らない、はずだ。

「これ、見て」

 映像は暗くあまり見えないが、どうやら犬が映っているようだ。

『それじゃ、解体しちゃいますか』

「この声、彰君でしょ?」

「……確かに、俺の声だ」

 スピーカーから響く俺の声に、俺自身驚く。

 俺はこんなこと知らない。何も知らない。

(本当にそうなのか……?)

『ごめんな、そうしないと俺の主様が退屈で死んじまうんだよ』

 犬の腹にナイフが突き刺さった瞬間、噴き出した血でレンズが汚れた。

『あ~あ……汚してくれるなよ? 大事なものなんだから』

 レンズが拭かれ、確認のためだろうか、カメラの持ち主の顔が映った瞬間、真琴は映像を一時停止して俺に突き付けた。

「ねぇ、ここに映ってるの、彰君でしょ」

「……ラムだ」

 だが、そこに映っていたのはラムだ。

 サングラスとぼさぼさの髪。

 暗がりで見えにくいが、特徴は一致している。

「ラム? 誰それ? 彰君でしょ? ごまかさないでよ。サングラスをとれば絶対彰君だよ」

「いいや、こいつは俺の友達だ。レッド・ラムっていう」

「レッド・ラム……REDRUM……MURDER殺人鬼。『シャイニング』で使われてた言葉遊び……」

「シャイニング……」

 そのタイトルを聞いた刹那、俺の記憶の封印が解けた。

 そうだ、俺はこの映画を見て、ホラーが苦手になった。

 初めて見たのは6歳くらいのとき。親と一緒に見たのだが、ものすごい形相をしたおっさんに追いかけられる子供が他人のように思えず、トラウマになったのだ。

 そう、前に真琴の家で映画を選んでいた時にも引っかかった感情はこれだ。

 だが、これに何の意味があるんだ。

「彰君と同じ声と顔……殺人鬼……彰君の様子だととぼけてる風じゃない……となると……彰君、二重人格、でしょ?」

「俺が、二重人格……?」

 頭が痛む。

 俺の中の何かがガタガタと音を立てて壊れていく。

「そうだよ! ラムは彰君が殺人を犯すときの人格なんだ! じゃないと記憶がないことにも説明がつかないよ!」

 ラムが、本当は俺自身。

(そうだ。彰。思い出せ、本当のお前を)

 ラムが頭の中でささやく。

 俺は、退屈していた。

 勇吾が死んでから人が怖くなり、退屈を押し付けられた。

 そんな俺のそばにいつの間にかいたラムは、俺の退屈を癒してくれた。

 そんな都合のいい存在が、ラム……

(あぁ。お前はファイトクラブを見て、俺を作り上げた。もう一人の都合のいい自分)

 そんなことは……

 ないと言い切れるほど、今の俺の記憶は頼りにならなかった。

 バラバラと剥がれ落ちる記憶に、ラムの姿はもうない。

 俺はその場に力なくへたり込んだ。

 その瞬間、いまだに興奮が冷めない観客の一人にぶつかられ、カバンの中身をぶちまけてしまう。

 地面に転がる、サングラス。

 ラムがいつも着けていたものだ。

「これ。カメラの中の君と同じものだよね? 彰君、君はやっぱり……」

「俺は……俺は……!!!」

 自我が壊れそうだ。

 今まで築き上げたものが嘘で、現実はただの俺の自演で。

 いったい何を信じればいいのか。

「ほんとは君があの女となにしたのか探るために家に入ったのに、こんなことになるなんてね……彰君、先週お母さん、殺したんでしょ?」

「俺は……そんなこと……してない……」

「嘘吐かないでよ……ボクが彰君に電話したあの日! 彰君はお母さんを殺した! それにボクのことも無視した! お母さんが死んで悲しくて、彰君に助けてほしかったのに……」

 電話があった日とは、ミサと水族館に行ったときだろうか。

 いや、あの記憶は本当に俺のモノだったのだろうか。

 俺と真琴、どちらが正しいのかわからない。

「ボク、彰君のことが好きだったのに……本気で、好きだったのに……だから、ボクの邪魔をしたあの女を殺させた! ここの人たちを使って!」

「……」

「お母さんを殺した彰君の仕返しに! あの女を殺すよう、ボクが仕向けた! 毎日ここに通ってファンの人たちを味方にして!」

 真琴の手からカメラを奪い、俺は逃げ出すようにその場を後にした。

 俺のスマホのカメラを止めることすら、忘れて。


「はぁはぁはぁ……!」

 夜の公園、人がいない方へと自然と足が動いてたどり着いた場所だ。

 あるのは街灯の小さな明かりのみ。

 人はおらず、闇に照らされた遊具だけが悲しそうにそこに鎮座するだけ。

「俺は……なんなんだよ……」

「彰、もうお前もわかってるんだろう? 逃げるのは、やめようぜ」

「……ラム」

 いつの間にか俺の隣にいたラム。いや、俺が作り出したと言えばいいのか。

「いつまで俺に頼る? お前は現実と向き合え。退屈から目を背けるな」

「けど……俺は殺したんだ……」

 真琴から奪ったハンディカメラで録画された映像を再生する。

 画面の中の俺は、動物や鳥を殺しては楽しんでいるようだ。

 記憶はないが、手は覚えている。腹を裂いた時のねっとりと柔らかな感触を。

「殺したのは俺だ。お前じゃない」

「でも、ラムを利用したのは俺だ。俺が悪い……」

「あぁ、確かにな。でも俺は小悪党さ。結局、人を殺すなんてできなかった。殺すのはいつも力のない動物だけ……」

「おい、ラム……それってどういうことだ?」

 その瞬間、カメラの映像がひときわ古いものに変わった。

 一番新しい映像が終わり、一番古い映像が再生されたのだろう。

 映像はざらついており、滑らかさに欠けている。

 このカメラで撮ったものではない。たぶんどこからかデータを移動させたのだろう。

 その映像は、小学校を映していた。

「この映像……」

 夜の小学校にウサギ小屋。そして

『お前も俺と同じなんだろ?』

 夢の中で聞いた、あの日の言葉。

けれど、その言葉を発しているのは、俺自身だった。

「ようやく思い出したのか、黒咲」

 ざくり、と土を踏む音。

 誰だ、と身構えてそちらを向くと、そこにいたのはいつも行くコンビニにいる、気だるい態度の店員だった。

 いや、俺はこいつを知っている。

 こいつは……

「あぁ、思い出したよ……田中」

 小学校時代、いじめられていた田中。あの日、俺とウサギ小屋にいた田中だ。

「小学校ぶりだな、黒咲」

「……いつも会ってただろうが」

「気づいてないからノーカンだ。って、思い出話や世間話をする気はねぇんだ。死んでくれよ、黒咲」

 田中は懐から小さなピストルを取り出して、躊躇なく引き金を引いた。

 風を切る感触が俺の頬すれすれを走った。

 ビリリ、とした焼けるような痛みが走り、ジワリ、と頬が熱くなる。

「あれ? かすっただけ? おかしいなぁ……ゲーセンじゃ100発100中なんだけどな」

「お前……なんでそんなもの……」

 俺は彼に尋ねた。だが、俺自身その答えは知っているはずだ。

「なんでって……殺してたのは俺だからだよ、黒咲」

 そうだ。こいつが、巷を騒がせていた連続殺人の犯人。

「退屈だったから、殺したんだ。動物しか殺せないお前と違って人も動物も、何もかもな」

 ラムは動物しか殺していないと言った。ならばこいつが、真琴の母親を殺したのだろう。

「だがな、それはお前が教えてくれたんだぜ、黒咲? それに、俺はお前が小学校の時にしたことを忘れない……だから、仕返しをしたんだ」

 ハンディカメラの映像は、ひたすら田中を映していた。

 怯える田中が、地面に落ちた包丁を拾い上げたところだった。

「そう。お前がこの日、俺をウサギ小屋に呼び出した。そこでお前はウサギを殺して見せ、その罪を俺に着せた。そのせいで俺は転校先の学校でもいじめられた……お前のせいで友達も一人もできなくて、孤独で退屈な日々を送った」

 現実の田中が俺を怒りの籠った瞳で見る。

 だがその奥に、少しの羨望が見て取れた。

「けどな、お前が教えてくれたんだ。退屈はこうして解消するんだってな。だから俺は、殺したんだ。黒咲、全部全部、お前が悪いんだぜ?」

「……俺の、せいか」

 俺は何もかも忘れていた。いや、忘れようとしていた。

 都合の悪いことはラムに押し付け、田中にも押し付けていた。

 そしてのうのうと生きてきたツケが、今日この日というわけだ。

「通り魔に殺されるって……あいにくだが俺は膵臓の病気でもないぜ」

「は?」

「映画の話だよ。でも、殺しを選び実行したのはお前だ。お前が悪い」

「……何言ってんだよ。お前のせいだろ……何もかも全部! 殺してる間は退屈を忘れられる! けどそれ以外の時は退屈でしょうがない! 俺はもう殺しなしじゃ生きていけないんだよ! そんな体にしたのは、黒咲、お前だ!」

「……」

「けどな、今日でそれも終わりだ……黒咲、お前を殺して、俺はこの呪縛から解放される」

 田中が撃鉄を下ろした。かちゃり、とリボルバー部分が回転する音が闇に響く。

 冷たい狂気を孕んだ銃口が俺を見ている。

 俺を、憎悪の対象として見ている。

「だから、死んでくれよ、黒咲」

「ダメ、彰君は、殺させないよ」

「だ、誰だ!?」

 ふと暗闇から姿を現したのは、真琴だった。

 俺を追いかけてきた後、隠れて会話を聞いていたのだろう。

 その顔には憎悪と恨みと、涙が交じりあっていた。

「田中君……お母さんの仇!」

 真琴は銃口にも怯えず田中の懐に飛び込むと、三本指を突き立てて彼の喉仏を思い切り刺した。

「がはっ! げほげほっ!」

 呼吸が一瞬止まったせいか、田中の体が揺らいだ。

 その隙を見逃さず、真琴はまた喉を突き刺し、腕の関節を捻じ曲げて銃を奪い取った。

 そのまま彼女は関節技を決め、田中を地面に押さえつける。

「今日のボクにはブルース・リーが宿ってるんだよ! なんてったって『燃えよドラゴン』を見てきたからね!」

 喉突きや関節技は果たしてカンフーと関係あるのかはさておき、俺は真琴に助けられてしまったわけだ。

「……彰君。ごめんね、疑って……それに、あの人にもひどいことして……ごめん、なんて言葉じゃ許してもらえないだろうけど……」

「……いいよ、真琴。もう、いいんだ」

 俺は真琴から銃を奪い取ると、その場から駆け出した。

 途中パトカーとすれ違う。銃声を聞いた誰かが通報したのだろう。

 だが俺にはもう関係ない。

 俺はまた、ライブハウスへと向かった。


「ミサ……あぁ……ミサ……」

 ライブハウスに、もう人はいなかった。

 彼らは捕まったのだろうか。いや、そこら中に散乱した血肉を見れば、ミサに飽きて帰ったのだと推測できる。

 ステージの中央には、かつてミサだったものが集められていた。

 四肢が千切れ、千切れたそれもバラバラにされている。

 柔らかな腹からは内臓が飛び出し、てらてらと輝いていた。

 彼女の顔は自身の汗と涙と血と、男どもの欲望でべっとりと汚れ、かろうじてミサだとわかる程度だ。

「全部……俺のせいなんだ……ごめん……ミサ……うわぁぁぁ」

 ミサがこうなったのも、俺が逃げ続けたせい。

 俺の瞳から涙が零れ落ち、ミサだったものを濡らす。

 ごめんという言葉も、許してくれという言葉も、もうミサには届かない。

 すべてすべて、俺が招いた結果であり、逃げ続けていたせいなのだ。

「ミサ……俺も、すぐに行くからな」

 俺は銃口を自らの頭に向け、撃鉄を下ろした。

 かちり、という死の音が耳元で響いたが、俺にはやけに遠くに聞こえた。

「彰君、ダメ!」

 ライブハウスに飛び込んできたのは真琴だ。

 彼女は顔を汗でびしょびしょに濡らし、涙交じりで俺を見ていた。

「死んでも何も解決しないよ! 逃げるなよ!」

「真琴。俺は逃げないよ。今から、ミサに謝りに行くんだ」

 俺は最後、にやりと口角を上げて笑んだ。

 あの日、真琴と一緒に見たソナチネのたけしのように。

 笑いながら、自分の頭をぶち抜いた。

「彰君!」

 視界が赤く染まり、何も聞こえなくなり、意識がブラックアウトする。

 世界と俺の接点が次第に薄まり、俺の意識は空気と混じりあう。

 これが、死ぬという感覚なのか。

「彰」

 薄れゆく意識の中、ふとミサの声が聞こえた気がした。


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