ー第一章ー彼女たちとの出会い

 7月序盤、世間が夏の暑さに不満を漏らし始めたころ、俺は今日もエアコンの効いた部屋で映画を見ていた。

「やっぱ夏はサメ映画だよなぁ。早く海に行きたくなるぜ」

 もちろんラムも一緒だ。

「海ねぇ……俺は遠慮したいな。暑いし焼けるし、サメに襲われる」

「日本の海じゃサメはいねぇよ、彰」

「あ、それ死亡フラグ。絶対ラムは序盤で死ぬタイプ」

「うっせぇな。とにかく日本じゃサメは出ない、断言してやる」

「いいや、サメは出る。『シャクトパス』みたいな改造されたサメが。もしくはサメが嵐に乗ってやってくる」

 なんて言いながら俺たちはいつも通り、映画のバカ話で盛り上がっていた。

 なんだかんだラムと話していると楽しくなる。普段感じている退屈もラムといれば収まっている気がした。

「まぁ海云々は放っておいてもさ、お前、外に出たほうがいいぜ? いつまで引きこもり続ける気だよ」

「いや、ちゃんと外に出てるよ」

「コンビニと家の往復だけだろうが。もしくは映画館か」

「大学も単位ぎりぎりのラインで行ってる」

「青春とは程遠いぜ。だから俺が面白いところに連れて行ってやるぜ」

 そう言って彼は机の上にチケットを投げた。

「これは?」

「ライブのチケットだ。秘密のな」

「……怪しい」

「フフッ、行けばわかるさ、行けば、な」

 たとえラムでもこんな怪しい誘いは断るべきだ。何か理由を見つけなければ。

「開場が18時半、ライブ開始が19時ってことは……今日の金曜ロードショーに間に合わないじゃないか!」

「あ? どうせ夏のアニメ祭りとか言って毎年のごとく『サマーウォーズ』とか『となりのトトロ』とかだろ? 毎年毎年、正直飽きたろ」

「いいや、サマーウォーズもトトロも、何回見ても名作なんだ!」

「俺はお腹いっぱいだし、別にわざわざテレビで見る必要ないだろ。また借りてこい」

「それにしても、トトロとかは名作だけど、どうせやるなら『AKIRA』とか『楽園追放』とかやってほしいよな。みんな知ってる名作はもう飽きたしな」

「わかるぜ。あと『パプリカ』とかも名作だから……って俺の気をそらそうとしても駄目だぜ?」

「……ばれたか」

 そして、気が付けば俺は電車に乗り繁華街のほうへ来ていた。

「暑い……ファッキンホット!」

「文句言うな。夏だから暑いに決まってるだろう」

「オーストラリアの夏は寒いけど?」

「屁理屈垂れずに来い」

 なんて言われ時間潰しにと駅前のショッピング街を回ることになり、やがて18時半を迎えた。

「ほら、ここが会場だ。月とライオン」

「……変な名前だ」

 連れてこられたのは電車が通る高架橋の下。

 装飾だろうか、ツタが絡まるウッド柄の壁、一見するとぼろい小さなライブハウス。

 入り口前の看板には様々なバンドのサインなどが飾られている。案外大きなバンドがいることに驚く。

「立地は悪いが、なかなかファンがいるライブハウスなんだぜ?」

「そうみたいだね」

 俺はそう言ってライブハウスへ入った。

「まずこちらにサインを」

 と、入り口で黒服の男から紙を渡され目を通す。

「一つ、ここであったことは誰にも話してはいけない、二つ、ここであったことは絶対に誰にも話してはいけない。『ファイトクラブ』かよ」

「お前ファイトクラブ好きだろ? こういう遊び心のある文章、楽しいよな」

「それに他の項目もなんだよ……ここで取得したものを持ち帰ってはいけない、演者に危害を加えてはいけない……どういう意味だ?」

「文面通りだって。まぁいいからサインしてろ」

「……もし破ったら?」

「その場合は死ぬよりもつらい罰が与えられるでしょう」

 俺の問いにラムの代わりに黒服の男が答えた。

 俺はライブには疎いが、これは明らかにおかしいとわかる。

 だがラムの勢いに押されてサインしてしまう。

 黒服に通された中も想像通り、狭苦しく空調もあまり効いていないのか暑い。

 ステージと客席の間もほぼ0に等しく、手を伸ばせば届きそう。

 それに電車が上を通るたびにガタガタと振動と轟音が響き渡るのだ。

 とてもじゃないがライブをするにはあまりいい場所とは思えない。

「ほんとにこんなところでライブなんてあるのか?」

 俺はラムに尋ねたが、彼はニタニタと笑いながらうなずくだけだ。

「初めて来た奴はみんなそう言う。だが始まったら案外気にならないもんだ」

 そういうものなのか、と疑問に思いながらもとりあえず頷いておくことに。

 開始10分前、俺はぐるりとあたりを見回した。

 人はまばらでざっと20~30人くらい。

 集まっている年代は若い人間が多いが、40代くらいの人間もちらほらと見れる。

 どちらかといえば男が多いイメージだ。

「なぁ、ラム。そろそろ何のライブか教えてくれてもいいだろう?」

「まぁ、アイドルだな」

「アイドル?」

「あぁ。まぁ48人もいないけどな」

「でんぱ組っぽい感じ?」

「アキバ系かって意味なら違う。地下アイドルってとこなら同じ。人数はソロだ。つか見ればすぐにわかんだから、楽しみにしてろ」

 それっきりラムは俺には構わずじっとステージのほうを見つめる。

 俺も手持無沙汰なので、彼に倣ってステージを見ていた。

 開始時間が刻一刻と近づいてくるごとに、周りの空気が張り詰めていく。

 それに伴って俺の気持ちも次第に高ぶっていくのを感じた。

「さぁ、始まるぜ」

 ラムのその言葉とともに場内の照明が一気に落ちた。

 そしてステージ上にぼんやりとした青いライトが灯ると同時に、轟音。

 かっこいいEDMの音楽とともにバックで演奏するメンバーが現れ、歓声が起こる。

 やがて待ちに待ったとでもいわんとばかりの大歓声にまみれながら、女性が一人壇上に上がった。

 暗くてあまり見えないが、まず目に入ったのはその女性の眩い銀色の髪。動きやすいようにか、短めに整えられているが、彼女が動くたびになびくそれは、まるでクリスタルの輝きを帯びたかのように闇の中でも見えた。

 すらりとした立ち姿のシルエットが映し出されるが、顔はまだ見えない。

 客が静まり返り、彼女の歌声を待ちわびている。

 会場一帯が異様な静けさを帯び、俺はゴクリ、と固唾をのんだ。

 そして、一転。

 ステージにパッと閃光が走った。

 その瞬間に見えた、彼女の表情。

「……キレイだ」

 俺は思わずつぶやいていた。

 彼女の右目は眼帯で隠れていたが、もう片方の青い目が俺を貫いたかのように鋭く向けられている。

 勝気な表情で、俺が知っているアイドルのイメージとはかけ離れたクールで冷たい印象を受ける。

 何物にも媚びないとでもいう、孤高なオオカミのような印象を与える彼女に、俺は一瞬で心を射抜かれてしまったのだ。

「ショータイム」

 冷徹な彼女の印象に似合う、力強く、透き通るような声音が喉から零れ落ちた。

 かき鳴らすギターサウンド、ベースの重低音、全身全霊を込めたドラムのビート、そして観客の歓声。

 それを後押しするような圧巻の彼女のパフォーマンス。

 すべてのことが初めてで、俺は圧倒されてその場でぽかん、と立ち尽くすしかできなかった。

「♪夕闇になびく鳥 あなたはいったいどこへ向かうのだろうか 私は闇夜でただ一人 行き場を無くして歩いていく♪」

 彼女の声が俺の脳を揺さぶった。

 びりびりと鼓膜が震え、血液がビートを刻むように沸き立っている。

 けれど内部で起こっていることに処理が追い付かず、体はまだ棒立ちのままだ。

「♪私は闇 何物にも染められない漆黒 過去も未来も何もかも真っ黒 ねぇ教えて 私の進む道に黒じゃないものはあるの?♪」

 曲が、サビに突入した。

「♪あぁ、黒に染まれ すべてすべて黒に染まれ 未来も何もかも、白を飲み込む黒の閃光を 私が染めるわ、何もかもを 永遠の黒に♪」

 正直何を言っているか理解できない歌詞だ。中二病っぽいし、痛々しい。

 けれどそれを彼女が歌うから、とても破壊力のある歌となる。俺の心に刺さる歌となる。

 何が刺さっているかわからないけれど、彼女の思いが俺に向けられているよう。

最上もがみミサ、私があなたたちを黒く染め上げるわ」

 曲が終わり決めポーズとともにそんな口上を上げた彼女に、俺は完全に魅了されていた。

 アイドルなんてあまり興味がなかった俺が、こんなに魅了されるなんて自分自身でも驚きだ。

 まるで『バック・トゥ・ザ・フューチャー』を初めて見た時のようなわくわく感と興奮が、俺の中で渦巻いている。

 なんて呆けている間に次の曲のイントロが始まる。

「さぁ、あなたたち、エサの時間よ」

 その声とともに観客はステージに殺到した。

 俺は何が何やらわからずただそれを眺めるのみだ。

 激しい曲調に沸く観客。だが観客の視線はある一点のみに注がれていた。

 それは、振り上げられたミサの手。

 いや、その手に握られた大量の何か。

 遠くでは何かわからないそれを、ミサは客席へ放り投げた。

 まるで鯉がエサを奪い合うかのように我先にとそれに手を伸ばす人々。

 そしてそれを手にするなり歓喜の声とともにそれを口に運ぶ。

「食べ物、なのか……?」

「まぁ見てなよ」

 にやにやと笑うラムに言われるがままに俺はそれを見ていた。

 すると観客の中にある変化が生まれた。

 彼らがおもむろに奇声を上げ始めたのだ。

 まるで原人のように叫びながら、落ちた何かをひたすら口に運ぶ。

 口いっぱいに頬張り、口の端からは唾液が零れ落ちているが気にしてない様子だ。

 しかも服を脱ぎ始めた人までいる。

 はっきり言って状況が異常だ。

「な、なんだよ、これ……」

 俺があんぐりと口を開けている間にも、場が凄惨に変わっていく。

 殴り合いを始める人、唐突に泣きわめく人、あまつさえ性行為に及ぶ人さえ現れた。

「さぁ、黒ミサの始まりよ。すべてすべて、あなたたちの黒い部分を吐き出せばいいわ!」

 曲に合わせて狂気に染まる人々。

 この狭い会場で、俺だけが正気。

 激しいロックのサウンドに合わせて、人を殴る音や喘ぎ声が混じり混沌と化す。

 いったい何がそうさせているのか。

 疑問に思っている俺の足元に何かが転がってきた。

 それはミサが投げつけた何か。

「これ、ドラッグか?」

 錠剤にカプセル、それを見た瞬間やばいものだと本能が叫んだ。

 一般人である自分が手にしてはいけない領域だ。

 無意識に一歩後ろに下がった俺の前を、裸の女が床に転がったドラッグを奪い横切った。

 だがその女は別の女に殴られドラッグを奪い取られる。

「なんだよ……何が、どうなってんだよ……」

 俺は今、狂っているのだろうか。

 狂気なことが、今この場では正気なのだろうか。

 正気であることが、狂気なのだろうか。

 あたりを見渡す。

 男を裸にし、ぼこぼこに殴る女がいる。男は抵抗もせず、へらへらと笑いながらそれを受け止めていた。

 が、殴っていた女が屈強な男たちに殴られ、服を脱がされ犯されている。しかし一切抵抗していない。

 まるでここではこうすることが当たり前であるかのように。

 犯罪的なこの光景が、ここでは合法的であるかのように。

 そんな光景を目の当たりにして俺は震えた。

「あなた、こっちを見て」

「!?」

 自分が呼ばれたような気がして、俺は顔を上げた。

 そこで、ステージで凛々しく佇むミサと目が合った。

 彼女の鋭く、それでいてどこか濡れた瞳が俺のとぼけた視線と交錯する。

 射貫かれたように体が動かない。

 彼女の黒い衣装と背後の眩い真っ白なライトが、その姿を堕天使のように見せる。

「あなたも、黒に染まりなさい」

 こちらにミサが歩み寄ってくる。

 体が動かないうえに、呼吸もできない。

 息の仕方を忘れたかのように苦しく、体が酸素を求めている。

「はぁ……はぁ……」

 俺は何とか息をしようと空気を吸うが、空回り酸素がうまく取り込めない。

 その間も彼女はこちらへゆっくりと歩いてくる。しかも、俺からずっと目を離さずに。

 蛇に睨まれた蛙、まさにそんな気分だ。

「はぁ……はぁ……」

「あなた、息ができないのね。口を開けなさい」

 俺の真正面にやってきたミサの言葉通り、口を開いた。

 その刹那だった。

 俺とミサの距離が、0になった。

「――っ!?」

 脳内にスパークが広がり、現実がとろけていく感覚に陥る。

 それに遅れるように思考がフル回転し、ミサがキスをしてきたということを理解した。そして口内に広がるフルーツのような甘い味。

 なぜ、どうして、なんていうことはすでに頭の中にない。

 俺はただただ、ミサの柔らかな唇と、甘美的な痺れを楽しむしかできなかった。

「むぐっ!?」

 さらなる痺れ。彼女の舌が俺の口内へ差し込まれた。

 ねっとりと蠢く舌が俺の舌と絡まり、体の奥底から、かぁ、と熱くなる。

 ぶよぶよとした舌の感触を味わっていると、彼女から唾液が送り込まれてきた。

 そして

ゴクリ―。

俺の喉奥に何かを流し込まれた。

「んぐっ!? げほげほっ!」

 俺は思わず彼女との唇を離した。一生離れないと思っていた唇も、湧き上がってきた嗚咽には勝てなかったようだ。

 俺は必死に咳込み、飲まされた何かを吐き出そうとする。が、喉奥に流されたそれはすでに腹の中に納まってしまったようだ。

「何を、飲ませた……?」

 フフッ、と小さく笑ったミサは、べぇ、と舌を出した。

 その上には、小さな錠剤が乗っている。

 それを見た瞬間俺の体が奥深くから熱くなってくるのを感じた。まるでマグマが噴出するようだ。

「あなたも欲望に溺れなさい」

 ミサはそう言うとステージに帰ってしまった。

 取り残された俺は、沸き上がった熱を発散させるかのように、音に合わせ騒ぎ散らすしかなかった。

 犯罪だとか狂っているとか、今はどうでもいい。俺は本能の赴くまま、まるで獣のように騒ぎ散らした。


「彰、楽しかっただろ?」

 いつの間にか熱狂は過ぎ去った。

 会場の外に出て感じたのは、心地よい夏の初めの宵の涼しさだった。

 終わってみると、ライブ前に感じていた会場の狭さや、こもった熱気なんてものも吹き飛んでいた。

 後に残ったのは騒いだ後の気だるさと、喧騒の残り香だけ。

 不思議と罪の意識は感じなかった。

「ま、聞くだけ野暮だったか。その表情、見ればわかるぜ」

「俺、どんな顔してる?」

「すっきりしてるぜ。普段より3割増しで顔色がいい」

 自分ではわからないがラムが言うなら確かだろう。

 こいつは正体不明だが、嘘は吐かない人間だ。長年の付き合いで知っている。

「たまには外に出るのもありだろ?」

「……まぁな」

 だが果たしてこの感覚は久々に騒いだせいなのか、それともあの時飲まされたドラッグのせいなのか、判別はつかないが。

「さて、飯食って帰るか。この辺に旨辛いラーメン屋があるんだよ」

「あ、俺、もうちょっとここにいる」

「出待ちか? ま、好きにしろよ」

 ラムはそう言って街の明かりの中に消えていく。

 俺はというと明かりもない高架橋の下で、フェンスに持たれながらミサがライブハウスから出てくるのを待った。

 なぜ俺はこうして待っているのか。

 俺自身でもよくわからない。よくわからないが、彼女の何かに惹かれたのは事実だ。

 甘美な罪の世界に誘ってくれた感謝か、それとも文句か。

 俺の中に生まれたもやもやとしたなにかは、もう一度彼女に会えばたぶん解決されるはずだ。

 街のネオンはすでに煌々と輝き、人々の喧騒が響き渡っている。

 だが大通りから少し離れたこの場所はまるで隔離されたように暗く、静かだ。

 たまに車が通るくらいで明かりなんてほとんどない。

 俺は退屈しのぎに缶コーヒーを買い、フェンスに持たれながら飲む。

「こんな感じにコーヒー飲むと映画みたいだな」

 なんてうぬぼれた独り言が自然とこぼれた。

「そういや昔シュワちゃんがコーヒーのCMに出てたな」

なんて変なことを呟くのも、ライブのせいでテンションが高くなったせいだろうか。

 俺は改めてライブを思い出す。ミサが登場して会場が沸き立って、ドラッグがばらまかれ、そして、ミサが俺にキスをして……

「そういや俺、あれが初めての……」

 あの時のキスの甘さは幻。この瞬間味わうコーヒーの苦みは現実。

「お疲れさまでした」

 と、声がして俺は視線をライブハウスに移した。

 ちょうどミサが会場から出てきたところだ。

 彼女はステージ上とは違い、地味な黒いパーカーにジーンズだった。しかし特徴的な銀髪と右目の眼帯がどうしても彼女の存在感を強調している。

「あ、あの……!」

 俺はコーヒーを急いで飲み干し、空になったそれを放り投げ、急いで彼女のもとへ駆け寄る。

 俺の声に気付いたのか、彼女は立ち止まってこちらを見ていた。

 しかしあの時ステージで見せた射抜くような視線ではなく、敵を見るような疑いの目。

 それに気圧された俺は思わず、うっ、とたじろいでしまうが、何とか言葉を紡ごうと口を動かす。

「あ、あの……えっと……」

「何? サインならお断りよ。そもそも出待ちなんて感心しないわね」

 彼女の冷たい声が耳をくすぐる。よく透る美しい声だ。けれど俺にはそれを堪能している余裕はない。

「あの……サインとか、じゃなくて……その……出待ちは謝るというかなんというか……」

「……」

 彼女の冷たい視線が痛い。早く何か言わなければ。このままでは蛇に睨まれた蛙のまま終わってしまう。彼女との接点が途切れてしまう。

「あの……!」

 俺は思い切り力を入れて言葉を絞り出すことに。

「アーノルド・シュワルツェネッガーとシルベスター・スタローン、どっちが好きですか!?」

「は……?」

 俺は言い終わって気が付いた。しまった、と。

 俺が聞きたかったのはこんなことではないはずなのに。プレッシャーに押されて思わず出た言葉を撤回しようと口を動かすが言葉が出ない。

 ラムとはいつも話していたが、彼以外の他人と話すなんて久々すぎて緊張しているせいだ。と思いたい。

「そうね……」

 しかもミサは真剣に考え始めてしまったではないか。

 俺の中で不安が渦巻く。かつてこの質問を何人かにしたが、スタローンと答えた奴に碌な奴はいなかった、ラムを筆頭に。もし彼女がスタローンと答えた瞬間、俺の中で彼女との接点は消えるだろう。

 やがて結論が出たのか、彼女は俺を見つめて話し始めた。

「私はやっぱりシュワね。筋骨隆々なたくましい体が魅力的ね。けど彼の一番の魅力は笑顔だと私は思うわ。普段は凛々しい彼が笑顔を浮かべるだけでこっちまで嬉しくなってくるような、そんな笑顔ね。スタローンの不器用な笑顔もいいのだけれど、シュワの笑顔は愛に溢れてるって感じがして好きよ」

「……」

 俺は彼女の言葉に圧倒されたように、脳がフリーズした。

 しかし……

「わかる! シュワちゃんの笑顔はいいよね! 優しいお父さん、とかそんな感じがして俺も好きだな。お父さんにしたいハリウッド俳優ナンバーワンかもしれない」

 凍り付いた脳が溶け出し、雪解け水が滝を下るかのごとく言葉が一気に溢れ出した。

「あっ……」

 思わず小さく漏れたそれも、先ほどの言葉も飲み込むにはもう遅すぎた。

「へぇ。あなたも映画、好きなのね」

 だが、俺が思った以上に彼女は俺に好意の目を向けてくれていた。

 先ほどまでの敵意は消え去り、表情が少し柔らかくなった気がする。

 シュワちゃんのおかげだ。

「私も結構映画好きなのよ。で、私と映画の話がしたいからこうして出待ちしてたわけ?」

「いや、違う……」

 彼女の柔らかな笑みに俺もほだされ、今度は自然と言葉が溢れ出した。そう、俺の本音が。

「俺と一緒に、映画を撮ってくれませんか? 俺のヒロインに、なってください」

 これが俺とミサの長くて短い映画的な夏の始まりの日となった。


 俺の将来の夢は映画監督になることだ。それは最初にも話したから知っていると思う。

 だが、大学の映研では映画を撮るやる気はなかった。

 しかも、俺自身ヒロインになれる存在を見つけていなかった。

 だから無意識のうちに映画を撮ることを諦めていたのだが、俺の制作意欲というか本能的な何かが彼女をヒロインに抜擢したようだ。

「その……俺、映画が好きで、自分でも撮りたいなぁって思ってて……」

 が、彼女はぽかんとした表情のまま動かない。まるで氷漬けにされたみたいに固まっている。

「あの……やっぱり急にそんなこと言われたら……嫌、ですよね……ごめんなさい」

「ヒロインってことは、主役よね?」

「……? えぇ、もちろん」

 何を当たり前のことを、と思わず思ってしまったが、口には出さなかったようだ。緊張のせいだろうか。

「その映画って、完成したらどこかに出すのかしら?」

「えぇ。配給会社がやってるコンテストに」

「コンテストに通れば、どうなるの?」

 質問が多いな、と失礼にも思ってしまったが相手はずぶの素人だ。自分から誘ってしまったので答える義務はある。

「そりゃ、賞金が出ますよ」

「公開は?」

「全国ってわけにはいかないけれど、小さな劇場でされる可能性はあります」

「そう……」

 彼女は、う~ん、と考える素振りを見せ、やがてもう一度俺の目を見た。

 今度はあの時と同じ、俺を見射抜くような鋭い瞳で。

「いいわ。あなたの映画に出てあげる」

「ですよね。やっぱりダメ……え? いいんですか?」

「何お決まりのボケかましてるのよ」

 彼女の鋭い瞳がふっと柔らかくなった。

 とても優しそうで、愛らしい。

 相反する二つを秘めた彼女に、俺はまたヒロインとして魅かれることとなる。

「ただし、脚本を見せてもらうわ。それを見て私が満足すれば出てあげるわ」

「もし満足できなかったら……?」

「その時はそうね……あなたを薬漬けにして海外に売り払うってのはどうかしら?」

 と、彼女が言った瞬間俺の脳裏には、あの時のキスがフラッシュバックした。

 思わず顔がカッと熱くなるのを感じる。

 彼女は俺の奥を見透かしたかのように口角を、にやり、と釣り上げた。

「あなた、さっきのこと、思い浮かべてたでしょう? 赤くなってるわよ、夜でもわかるくらいに真っ赤」

「うっ……っていうかそのことだけど」

 俺は気恥ずかしさから話題を少しそらすことに。

 彼女のからかうような、狐のような可愛らしい顔をもっと見ていたかったけれども。

「なんで俺に薬を飲ませたのか、気になるんだけど」

「薬?」

「君がステージでばらまいてたのはドラッグだろ? 観客の反応を見ればわかる」

「ドラッグとは失礼ね。一応違法物質は使ってないわよ」

「じゃあ脱法ってことか……」

「ま、そういうことね」

 何も悪びれもなく、しかも子供がいたずらをばれたかのように言うミサ。

 俺はそこに正義感のせいか、わずかな憤りを感じた。

「そんなに怒った顔しないでよ。あれは必要なことなの」

「必要なこと?」

「そう。あの人たちは心の開放を求めていた。何かを発散しなければ押し潰されてしまいそうなほどに切迫した、ね。だから私が息抜きの手伝いをしてあげてるのよ」

「じゃあ、俺はどうなる……? 俺は別に何かに押しつぶされそうだとか、感じてない」

「ま、手を出してみればわかるわよ」

 そう言うと彼女はポケットから小さな容器を取り出した。

 早く、とでも言いたげに顎をしゃくった彼女に、俺は手を差し出した。

 その上に小さな錠剤が二つ転がる。

「二つ出ちゃったわね。じゃあ一つは私がもらうわ」

 そう言うとミサは俺の手に転がった錠剤を一つつまみ、口に運んだ。

「ほら、あなたも」

 俺は、ゴクリ、と息を飲み、えい、とそれを口に放り込んだ。

 口に入った瞬間フルーツのような甘い香りが漂い、あの時のキスの味が蘇る。

 いや、そうではない。この味がキスの味なのだ。

「これ……」

「そう。ミントタブレットの甘いやつ。フルーツ味ね。もし私が直にドラッグをあなたに飲ませれば犯罪よ。あくまで私はドラッグをばらまいてるだけ。飲むことを選んだのは観客よ」

「……騙された」

 じゃあ俺が感じた高揚感も、頭が痺れるような刺激も、全て嘘。

 いや、嘘にしては現実すぎる刺激。

 現実はドラッグではなく彼女のキスと、場の雰囲気に酔いしれていたようだ。

「でもわざわざ口移しでやらなくても……」

「秘密」

「え?」

「理由は秘密よ。全部しゃべっちゃうと面白くないじゃない。それに、少し秘密がある女のほうがミステリアスでいいでしょう?」

 そう言ってにやりと笑う彼女は、メギツネと呼ぶにふさわしいほどの表情だ。

 俺は多分、彼女に化かされ、ほだされている。

「そうね、脚本を見せてもらうにはまた会わないといけないわね。連絡先……っと、その前にあなたの名前を教えてもらえるかしら」

「黒咲彰」

「……それ、本名?」

「両親が映画好きなんだ……」

「そうなのね。私は最上ミサ。これからよろしく、彰」

「いきなり呼び捨てなんだね……」

「だから彰も私のことはミサと呼んで。それに妙な敬語も何もいらないから」

「……分かったよ、ミサ」

 自分でも自然と彼女の名を呼べたことに驚いた。

 俺はやはり彼女に魅了されてしまっているのだろうか。

 お互いにSNSのIDを交換して、俺たちは別れることに。

 帰り道、ずっと俺の口内では甘い味が残っていた。


「へぇ。ということはあのアイドルと仲良くなれたんだな、すげぇよ。『ワイスピ』のドミニクにもアイドルのダチなんていねぇぜ」

「ま、ミサと仲良くなるにはまず脚本見せなくちゃいけないんだけどな。つかワイスピの世界にアイドルなんて出ねぇだろ」

 俺は久々に大学を訪れていた。

 時刻は12時手前。

 学生は授業中。授業が無い学生も、食堂で席を取りに行っているだろう。

 だから今、外には人が少ない。

 誰にも会わずに脚本を映研の部室から拝借しようと、こうやってこそこそしているのだ。

 まぁ俺には友達と呼べる奴はラム以外にいないが、映研の連中に見つかると厄介だ。

「そこに行くまでに映研に見つからなければいいんだけど……」

「見つかったらどうなるんだ?」

「……クソ映画鑑賞会に参加させられる」

 映研には俺を含め部員が4人いる。

『俺のことはウェスカーと呼んでくれ。実はアンブレラという会社を経営していてな……』

 なんて自己紹介の時に思い切り大嘘を吐いていたのが鹿羽根しかばね先輩。語らずもゾンビ映画好き。

『俺はフィンだ。チェーンソーがあれば完璧だったんだがな』

 これまた嘘の自己紹介をしたのが鮫谷さめたに先輩。わかっていると思うがサメ映画好き。

 この二人が部の活動をクソ映画鑑賞会に変えた張本人だ。

「ゾンビ映画かサメ映画、どっちを見せられても大抵がクソ映画なんだよなぁ」

「お前ゾンビもサメも好きだろ?」

「好きだけど自主的に見るのと無理に見せられるのは違うだろう? サメとかゾンビが見たい気分とかあるんだよ。それ以外の時に見せられるのは苦痛だって」

「……まぁ確かに、お前の言い分もわかるな。けどサメ映画はともかくゾンビ映画ならB級でも名作あるだろ。『ゾンビランド』とか『28日後……』とか」

「いや、あの人は狙ってZ級のゾンビ映画流すから。いきなり『アルマゲドン・オブ・ザ・デッド』とか頭おかしいって」

 なんて雑談をしながら部室に向かうとふと背後から声をかけられた。

「あれ? 彰君?」

 俺はそれにびくり、と肩を震わせた。

「あ、やっぱり彰君だ」

 それが本人であると証明してしまったようで、背後から見なくてもわかるほどの嬉々とした空気をまとい彼女がやってきた。

「こんにちは、彰君」

「あ、あぁ……。こんにちは、大森」

 俺の顔を覗き込んできた彼女は大森真琴おおもりまこと、俺と同じ学年で、残り1人の映研部員だ。

「もう、ボクのことは真琴って呼んでって言ってるでしょ?」

 150あるかどうかの低身長に人懐っこい笑み、まるで子犬のような彼女は、またずいっと俺に顔を近づけてきた。

 あどけなさが残る子供っぽい表情が、屈託もなく近づく。それと同時に漂ってくる大人っぽいシャンプーの香りが俺の脳裏をくらくらと揺らす。

「い、いや……親しくない女の子を呼び捨てにするのはちょっと……」

「ボクたち同じ映研でしょ? 親しくないわけないよね」

 またまた距離が縮まる。彼女の低身長に似合わない大きな胸が当たりそうで、俺は助けを求めるようにラムのほうに顔を向けた。

 だがすでにラムはいない。

(くそう! 逃げたか!)

 俺の心のベネットが怒っている。

「ねぇ、聞いてる?」

「あ、あぁ……聞いてるよ、おおも」

「ま・こ・と」

「……真琴」

「うん、それでいい!」

 こいつは映研に入った時の歓迎会から、妙に俺に懐いていた。同学年だからという理由だけではすまされないほどにべったりと。

 一番会いたくない相手だ。

「で、彰君は見てくれたのかな?」

「な、何を……?」

 知っているくせに、といわんばかりに満面の笑みをこぼす真琴。俺が彼女に一番合いたくない理由は、俺に妙にくっついてくることではなかった。

「実写版『デビルマン』」

 そう、何を隠そう彼女は超が付くほどの邦画好き。しかも実写化作品がメインだったりする。

 あろうことか、あの悪名高い実写版デビルマンを笑顔で薦めてくる時点で頭がおかしいに違いない。

「み、見てない……」

「そっかぁ……アキラ君が大活躍するのに」

 こいつが俺に近づいてきたのはデビルマンの主人公と同じ彰という名前だからか、と思ってしまうほどだ。

「じゃあ『食人族』は? 『シックスセンス』は?」

「ホラーもスプラッターも苦手だっていつか言っただろう……?」

「え? でもゾンビ好きなんでしょ? 『ウォーキング・デッド』も全シリーズ見たんでしょ?」

「ゾンビはホラーでもスプラッターでもない。ゾンビってジャンルだ」

 しかも彼女の洋画の趣味は俺とは真逆。

 話が合わないにもほどがある。

「とにかく食人族はほんとボクのおすすめだから見てよ!」

「あ? ただの人喰う部族のグロ映画だろ?」

「違うよ! 食人族は自分たちとは違う異質な存在を通じて人間の本質や野蛮性を問う超名作映画なんだよ!」

「……分かったよ」

 彼女の映画愛は相当なものだ。もし趣味が合っていれば友達になれただろう。

 だがどれだけ嘆いても現実は変わらず、俺の中でうざい奴評価を下した彼女は、嬉々として俺についてきていた。

「……なんで俺についてくるんだよ?」

「う~ん……なんとなく? ボク、今暇だし」

「そうか……」

 振り払うのも面倒で彼女を連れたまま歩いているが、背後からのプレッシャーがすさまじい。

 彼女の、かまってほしい、という子犬のような視線が痛いほど俺に刺さる。それを無視できるほど鈍感にできていなかった。

「……そういやお前にはしてなかったな、この質問」

「なになに!?」

「シュワちゃんとスタローン、どっちが好きだ?」

「……」

 真琴は黙って考える。こいつも考えるときは黙るのか。

「ボクは星野源が好きかな」

「……」

 俺は予想外の答えに顎が地面にくっつくかと思うくらい、口があんぐりと開いて閉まらなかった。

「ボクは星野源が好きかな!」

 なぜ二回も言った。

「ボクは星野源が」

「わかった! わかったからもう言うな、黙れ」

 こいつとは話が通じないことが分かった。

 だってシュワかスタローンかと聞いて星野源と答えるなんて。

 ポテチのうすしおかコンソメどっちが好きかと聞いて、プリングルズのサワークリーム味が好きと答えるようなものだ。

「まぁ確かに星野源はいいかもしれない。『地獄でなぜ悪い』の星野源は特に好きだけどさ」

「わかるよ! ボクもあれは好き。日本刀が頭に刺さったまま愛する人のもとへ向かうシーンが最高だよね! ボクもあんな風に来てほしいけどなぁ」

「……頭の日本刀はいらないけどな。って話がそれてる。俺はシュワかスタローンかを聞いたのにどうして星野源になる!?」

「ボク、ホラーとスプラッター以外あんまり洋画見ないし……」

「まさか……お前シュワちゃんは『ターミネーター』しか知らない口か」

「悪かったね、見てなくて。けどボクはその分邦画見てるもん。邦画の知識なら彰にも負けないよ!」

「……まぁ確かにそうかも」

「じゃあ逆にボクが聞くけど、彰は山崎賢人と佐藤健どっちが好きなの?」

「究極の二択!」

 どっちも実写映画でおなじみだが、はまり役を見たことがない。演技もいいし、悪くはないんだけれど、実写化だしとりあえずどっちか起用していればいいんじゃない、というスタンスが見え見えのような……

「よし、この話はなかったことにしよう。お互い傷つくだけだ」

「そう? あ、ちなみにボクはね」

「言うな。それ以上言っちゃいけない」

 俺は真琴の口を封じながらなんとか部室に到着した。

「そういえば彰君は何で部室に?」

「……映画の脚本を取りに。まぁまだ初期段階で手直しが必要だけれどな」

 言わなければうるさいと思ったのでしぶしぶ答える。すると真琴は案の定、見せて、と瞳を輝かせた。

「確かこの辺に……あったあった」

 映研セレクションのクソ映画の山を掘り進め、ようやく見つけた脚本。真琴は俺が手渡す前にそれを奪い取り、何の遠慮もなく読み始めた。

「ふ~ん……『最後はみんな地獄行』ねぇ……」

 最後はみんな地獄行、は俺の映画の仮タイトルだ。

 映画監督を目指す主人公が殺人鬼のヒロインと出会う話。そこでヒロインと接するうちに殺人欲求がわいてきた主人公は、やがて大虐殺を起こすという話だ。

「へぇ……なるほどなるほど……あ、ここでそう来るのか」

 人に読まれるとなるとどこかこそばゆい。

 しかもいちいちリアクションを取られながらだと、さらに背中がぞわぞわとするくらいの恥ずかしさがある。

 10分くらい後、彼女はふぅ、と息をつき本を閉じた。

 そしていつものまぶしいばかりの瞳を俺に向けて叫ぶ。

「ボク、この映画のヒロインになる!」

「……」

「ボク、この映画の」

「あぁ、わかったわかった!」

 ここで断ることができない、いや、断ることができない雰囲気を持つのが真琴だ。

 断れば面倒なまでに絡まれるというのは目に見えている。

 仕方ないのでわかった、と言ったがミサがヒロイン役で決まっている。

 それを理由に断るとまた面倒なことが起こりそうでたまらない。こいつとの面倒ごとは本当にごめんだ。

「それじゃ食堂でシナリオについて話そうか」

「……は?」

「まだ完成じゃないんでしょ? ならボクが手伝ってあげる、ヒロインとして!」

「……邦画好きのお前が手伝うとカオスにならないか?」

「ひどいなぁ。ボクの邦画の知識と彰君の洋画の知識が交われば最強だと思わない?」

 真琴のわりに一理ある言葉で俺は食堂まで連れていかれることに。


 俺は度肝を抜かされた。

 彼女が真剣な表情で俺の脚本と向き合ってくれていることに。

「主人公はどうして人を殺したいと思ったの?」

「映画の参考に殺しの現場について行ったときに思ったんだ。ほら、やっちゃいけないことに惹かれる、とかそういう感じ。」

「ならその時ヒロインが殺し損ねた相手を思わず殺したってことにすればどう? 主人公はヒロインみたいに変な過去もないし、殺したいと思っても殺せないと思うよ」

「なるほど。一回殺しを味わえばまたしたいと思えるか」

 飯そっちのけで俺たちは話した。彼女の映画に向き合う姿勢は真剣すぎて、俺は聞かずにはいれなかった。

「なぁ、どうしてそんなに真剣なんだ? 映画好きってだけでここまで付き合ってくれないだろう」

「ん? ボク、将来映画に出たいって思っててね、脚本もやりたいし、独学で勉強してるんだ」

「映画に出たい、か……」

 映画に対する熱意は俺と似ているところがある。今まで趣味が違うと避けてきたが、目指す部分は同じじゃないのだろうか。

「そういえば彰君とこうして真剣に話し合うのって初めてかも」

「まぁ、そうだな」

「ふふ、ボクたち、トモダチ」

 そう言って真琴は俺に人差し指を差し出してきた。

「ト・モ・ダ・チ」

「……」

「もう! 彰君ってばノリ悪いなぁ。『E.T.』だよ、知らないの?」

 そういうことか、と思わず漏れ出る溜め息を押さえることができなかった。

「E.T.知らないのお前だろ。確かにパッケージでは指を合わせるシーンがあるし、指と指を合わせてトモダチってネタにされることはよくある。けど実際そんなシーンは映画の中ではないんだ」

「……ほんと?」

「あぁ。ったく……E.T.も見てないのか」

「だって古いし、有名すぎてみた気になっちゃってるし。てかそうやってボクのことバカにしてるけど、彰君だってデビルマン見てないじゃん。ボクのことバカにする資格、ある?」

 むすっとした顔で真琴はそう言った。

 核心を突かれたようで俺の胸はチクり、と痛んだ。

「デビルマンも鋼の錬金術師もキャシャーンも見てない彰君がボクのことバカにできるの!? デビルマンをバカにできるの!?」

「……確かにその通りだ。俺は印象で作品をバカにしてたのかもしれない……だからそんな俺に真琴を否定することは……」

「ならこの部分だけどもっとデビルマンっぽくして」

「それはダメだ」

 一瞬見直した俺がやっぱりバカだったか……


「ミサ、お疲れ様。台本持ってきたぞ」

「昨日の今日で早いわね。ありがとう」

 夜、俺はライブ会場の外でミサと待ち合わせていた。

 彼女はこの前と同じ、右目の眼帯越しに俺を見据えていた。

 今日も彼女のライブで散々盛り上がった後だ。もちろんドラッグは無しで。

「しっかり見たいから私の行きつけのお店にでも行きましょう」

 というわけでライブハウスから徒歩3分。

「へぇ。居酒屋」

「結構穴場なのよ。人が少なくて料理もおいしい。ちょっとした隠れ家的なお店ね」

「なるほど……」

 俺たちは店に入る。確かに店内は人もまばらで少し殺風景だ。

 だが悪くない雰囲気だ。焼き鳥の香ばしい匂いが店内に立ち込めている。

 席に案内され、ミサは慣れた手つきでメニューを開いた。

「彰は何を飲むの?」

「俺は……コーラで。ゼロカロリーの」

 ミサはまた慣れた風に店員を呼び出すと注文を言い始めた。

「コーラのゼロカロリーと、生ビール」

「……え?」

「で、とりあえず枝豆とたこわさと……ポテトフライで」

「……今、なんて?」

 俺はあんぐりと開いた口が塞がらない。

 ミサはそんな俺にかまわずメニューを置くと、ポケットから小さな箱を取り出した。

「火、ある?」

「……ない」

 俺がそう言うと彼女はポケットをまさぐりライターを出す。

 そして箱に入っていたタバコに火をつけて思いきりふかし始めたではないか。

「……何見てるの?」

「いや、おかしいだろ……」

「おかしい? ポテトフライにお酒は案外あうのよ」

「そこじゃない! アイドルが生!? それにタバコ!?」

 ミサは大きくタバコを吸い込むと、はぁ、とため息交じりに紫煙を吐き出した。

 あまりに濃いそれに、俺は思わず咳き込む。

「あのね、彰。アイドルだって女よ、人よ? トイレにも行くしご飯も食べる。お酒も飲むしタバコだって吸うしオナニーだってするわよ」

「え……」

「顔、赤くなってるわよ。まさか思春期でもないのに、興奮しちゃったわけ?」

 俺は人と同じ青春を謳歌していない。俺の青春は映画とともにあった。だから少し、そういうことに恥ずかしさを覚えたりする。

「図星、なのかしら?」

「そ、そういうわけじゃ……」

「また赤くなってるわよ。やっぱり子供ね」

 気恥ずかしさでちらちらと彼女の顔をうかがう。先ほどまでは気付かなかったけれど、彼女の頬がやけに上気している気がする。

「もしかして……もう酔ってる?」

「酔ってないわよ。ただ、スタッフの差し入れで一杯飲んだだけ」

「……やっぱり酔ってるじゃないか」

「お待たせしました、生ビールとコーラですね」

 困惑する俺に割り込むように店員がやってきた。ベストタイミングで思わず心の中でぐっと親指を立てる。

「それじゃ乾杯しましょうか」

「……何に対して?」

「私たちの出会い、かしら? ま、細かいことは無しよ、せっかくの飲みの席ではね」

 俺たちは乾杯を交わしてゴクリ、と飲み物を喉に流し込む。

 ミサは一口で半分ほども飲んでいて、俺は思わず目を疑った。

「何よ、その目は」

「いや、よく飲むなぁって……」

「だから言ったでしょ? アイドルだって人よ」

「わかったわかった……」

 店員が枝豆を持ってくるころには、彼女はすでにジョッキを一つ、空にしていた。

 そこから大体20分後。

「彰。もっとヒロインにもスポットを当てた方がいいわ。何せヒロインなのだから、もっと目立たなくちゃいけないわ。人を殺すだけの過去をもっと丁寧かつ凄惨に描いてあげないと。それに私が演じるのよ? もっと魅力的なキャラに仕立てくれないと」

 ミサは脚本を読みながらいろいろアドバイスをしてくれるが、その顔は真っ赤だ。

 彼女の前にはすでに空になったジョッキが6つ。

 今7つ目のジョッキを半分ほど空にしている。

「そうよ、私が演じるのだからもっともっといいキャラづくりをしないと。じゃないと目立たないわ」

「そんなに目立ちたいのか?」

 俺は唐揚げを一口かじり、彼女に尋ねる。

「えぇ。脚本自体は面白いし、これなら上位に残るかもしれない。けどヒロインが魅力的じゃないから私が目立たないの。目立たなくちゃこの映画に出る意味なんてないわ。だって私はここからアイドルロードを駆けあがるからよ!」

 ばん! とジョッキを机に叩きつけて彼女は叫ぶ。

「そう! 私は演技もできるクール系ブラックアイドルを目指すのよ! そして私をバカにしたあいつらを見返すの! 何が『クール系なんて受けない』よ! 『もっと明るい方がアイドルらしい』よ! そんなのわかってるわよ! けど私はこれしかできないの!」

「み、ミサ……?」

 今までのクールで落ち着いた印象の彼女からは想像もできない荒ぶった声。だが彼女の言葉はどこか呂律が回っていない。

 酔った勢いで今まで溜まっていた鬱憤が噴き出しているのだろう。

「もともと私はあんまり明るい子じゃないし、けど目立ちたいって思ってたし、どうすればいいか悩んだ結果のキャラ付けよ! そうよ! 今はアイドルが多すぎるの! 安易なキャラをつければ他と被るのよ! ねぇそう思うでしょ彰!?」

「……そうだな。とりあえず、水飲め」

 俺は彼女に水を飲ませる。

 少しクールダウンしたのか言葉は落ち着いたが、ゆらゆらと宙を漂う視線はまだ何か言いたそうにしている。

「そうよ……私は好きでドラッグをばらまいたりしてるわけじゃないのよ……けど、それしか私を見てもらう方法なんて、ないのよ……」

「ミサ……」

 彼女にも抱えているものがあるのだ。改めてそれを知った俺だが、彼女にさらに踏み込もうとは思えなかった。

 酔った勢いで本音を話す彼女だが、そんな勢いだけで俺に全部聞かれたくはないだろうし、俺も彼女の黒いものは見たくない。彼女のアイドルイメージが壊れてしまうからだ。

 といってももう半分以上壊れているのだが。

 彼女の秘密や抱えているものを知れば、最後の一線を越えてしまうだろうと思ったからだ。それを知れば俺たちは、今と違う関係になってしまう。

 俺は言葉では言い表せないこの奇妙であり、特別な関係のままでいたいと思っているからだ。

「まぁいろいろあるけど、そういうのって誰にでもあると思うしさ。俺だって自分が分からないって思うとき、あるし……」

 俺がそう言っている間彼女の頭はこくりこくり、と傾き、やがて机に突っ伏してしまった。

「おい、寝るな、酔っ払い」

「寝てない……うん、寝てない……ぐぅ……」

「寝てるじゃねぇかよ。ほら、もう一杯水飲んで帰るぞ」

「は~い……」

 酔っ払いを担いで俺は立ち上がる。ミサの軽く、柔らかい体に驚きながらも、彼女の酒臭さが本来感じるだろうドキドキを消し去っていた。

「お金は私が出すわ……いっぱい飲んだもの……」

 ガサゴソとカバンを探る彼女は、頭にクエスチョンを浮かべた。

「財布……無い……ライブハウスに忘れたかも……」

「はぁ……俺が払うよ」

「あざ~す……」

「キャラぶれてるぞ、酔っ払い」

 諭吉さんが飛んでいって俺の財布は驚くほどに軽くなってしまった。あとでこいつに請求しないと。

「で、ミサの家は?」

「あっち」

「それじゃわかんないって。住所は?」

「あっち」

「はぁ……」

 俺はため息を吐くしかなかった。

 こんな状態の彼女をどうすればいいのか。

 一人で帰らせるには危うい酔い方だ。タクシーで帰らせるにしても住所がわからなければ乗せられない。あいにく住所を示すものも多分忘れた財布の中だろう。

「……俺の家しか、ないよなぁ……」

 道端に女の子一人捨てて帰るわけにもいかない。俺は彼女を背負い、家路についた。


「ただいま」

 誰に言うわけでもないその言葉が真っ暗な廊下にこだまする。廊下の明かりを点けるといつもの日常が俺を出迎えてくれる。

 俺の横にべろべろの酔っぱらいがいなければ、このまま日常を抱きしめていただろう。

「うっぷ……気持ち悪い……」

「調子に乗って飲みすぎるからだ」

「暑い……着替えたい……」

「は!?」

「彰ぁ……暑いぃ……」

「わ、わかったからくっつくな! 酒臭い!」

 普段なら嬉しくなるはずのスキンシップも酒の臭いで台無し。

 こっちまで気分が悪くなってきそうなので、急いで彼女をベッドに投げ入れた。

「彰の匂いぃ……」

「匂い嗅ぐなよ、恥ずかしい」

 残念ながら俺の家には他人を招き入れる用意などない。故にベッドは一つだし、着替えだって俺のモノしかない。

 仕方ないので適当にジャージを見つけ彼女の前まで来た。

「彰ぁ……脱がせてぇ……」

「着替えぐらい一人でしろ」

「ダメ……これ以上動けないのぉ」

 だが俺は女の子の着替えなど一度も目の当たりにしたことがない。あいにく俺は女兄妹もいないし、抗体があるはずがなかった。

 てかこれってよく考えたらお持ち帰りじゃないか。

「早くぅ……」

 俺はぐっと意思を固め、ミサを見た。

 上気した赤い頬、涙で濡れた左目、少し緩んだ眼帯、服もはだけて健康的な肌が見えている。しかも、そこから見える谷間……。

 俺の意思は一瞬で、ぼきり、とへし折られてしまった。

「彰ぁ……」

「ごめん、俺、やっぱりむ……」

「おげぇぇぇぇぇ!」

 俺の衣服に何か生暖かいものが張り付いた。

 それが彼女の吐瀉物だと気づいたのは、それから5秒立ったくらい。その間俺は明らかに思考停止していた。

「……なんで吐くまで飲むんだよ!」

 汚れてしまった彼女の服を俺は手早く着替えさせた。

 もちろん、彼女の下着を楽しむ、なんてこともできず。

 何の色気もなく、ただただ酒臭い吐瀉物の臭いに耐えるだけだった。

「……ようやく片付いたか」

 彼女を着替えさせ、吐瀉物にまみれた服を洗濯機にかけ、ようやく俺は一息つく。

 少し心配でベッドにいるミサのもとに向かうが、彼女は虚ろな瞳でこちらを恥ずかしげに見ている。

 いつもとは違い、少し弱ったような瞳を見れただけで、今までの苦労が吹き飛んでしまいそうな単純な俺。

「ったく、吐くなら吐くって言ってくれよな」

「……ごめんなさい」

 吐き出して少し理性を取り戻したのか、彼女の顔は先ほどよりも落ち着いて見える。

「水、いるか?」

「えぇ、もらうわ」

 俺が水を入れて戻ると、彼女はすでにすぅすぅと寝息を立てていた。

「……自由な奴」

 俺はぽつり、そうつぶやいた。

 「うぅん」、と小さく呻き寝返りを打つ彼女。その手が俺の体に触れた。

 俺は思わずその手をそっと握る。無意識だろうが、彼女もその手を握り返してくれた。

 案外小さくて、温かな手のひらだ。

「……ほんと、わかんないよな」

 俺は幸せそうに眠る彼女を見た。

 普段はクールで大人びているミサ。けれどお酒を飲むと大声で叫んでしまうミサ。酔っ払った弱々しいミサ。そして、まるで子供のような笑みを浮かべ眠るミサ。

 いったいどれが本当の彼女なのか、俺にはさっぱり見当もつかない。

 けれどそれでいいのかもしれない。

 その全てが、ミサなのかもしれない。その全てがミサであり、俺はそこに惹かれたのかもしれない。

「俺も寝るか……」

 思わずせりあがってきたあくびをためらうことなく吐き出して、立ち上がろうとした。

 だが、握られた彼女の手にそれは阻まれる。

「……力、強くないか?」

 驚くほどの力で握られており、離れることができない。

 無理やり振りほどいて起こしてしまおうか、とも思ったが彼女の気持ちよさそうな寝顔が俺の良心にキリキリと食い込んだ。

「……俺、寝れないかも」

 手のひらから伝わる彼女の熱と、間近で感じる吐息のせいで俺の鼓動はバクバクと高鳴る。

 頭の中でシュワちゃんを数える。

(シュワちゃんが一人……シュワちゃんが二人……シュワちゃんが三人……)

 シュワちゃんが一人、また一人増えていくごとに俺の頭の中がドンパチ賑やかになる。シュワちゃんが睡魔を殺していく。

結局寝付くのに3時間も要してしまうのだった。

最後に数えたシュワちゃんはいったい何人目だったのだろうか。


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