ハリウッド・オブ・ザ・デッド
木根間鉄男
ー第一章ー映画みたいな非日常がやってきた
「はぁ……映画、出たいなぁ……」
映画の聖地、ハリウッドに大きなため息が零れ落ちた。
多くの夢とドラマを輩出してきたこの地には似つかわしくないそれは、あっという間に空気と混じり消えていく。
この大きなため息の持ち主、榛名康介(はるなこうすけ)、18歳。若いころの高橋一生に似た、どこか頼りなげで幼さの抜けきらない顔つき。星野源のような人畜無害な雰囲気を醸し出す少年だ。
彼はバイト先兼居候先のスシ屋「はりうっどどりぃむ」のカウンター席に座り、もう一度ため息をついた。
「康介、さぼるなよ。3番テーブルのスシ上がったぞ」
「わかったよ、おじさん」
遠藤憲一似の少し厳つめな男、渋沢(しぶさわ)タカシ。
康介が日本からはるばるこの地にやってきたのは、店主である伯父の渋沢タカシの協力があったからだ。
映画が好きな康介は、自分も映画俳優になると意気込みお金を貯め、渡米。
しかしその後のことを何も考えていなかった。高校レベルの英語しか話せなかった彼は3日ほど放浪し、思い出したかのようにこの店にたどり着いた。
事情を聴いた伯父はバイトとして彼を雇い、住ませてやっているというわけだ。
しかも伯父は家庭教師を雇い、彼の英語の勉強まで面倒を見てくれたのだ。アクセントや発音はまだ微妙だが、日常会話を問題なくこなせるレベルまで成長した。
伯父には感謝してもしきれない。自分の突飛な行動を受け入れてくれた恩を返すべく、こうして彼は今日もテーブルにスシを運ぶ。
ハリウッドを意識してか、映画のBGMを流すスシ屋ということでそこそこ人気を博し、満席とは言わないが繁盛しているため康介の手伝いは非常に助かっている。
「お待たせいたしました。……って、マリナ、ボブ、お前らかよ」
「ヤッホー、コースケ。元気してる?」
そう言って彼の顔を覗き込んだのはマリナ・ローザ、19歳。
父親がアメリカ人、母親が日本人のハーフだ。
アン・ハサウェイのようなぱっちりとした瞳と整った顔立ちに、アメリカ人特有の赤く焼けた頬が特徴的だ。髪は天海祐希のように艶やか。黒が基調だがところどころに差した金色が目を引く。
はっきり言うと美人だ。
こんな美人と知り合いになれたと常日頃から康介は天に感謝していた。
「うん。まぁまぁかな」
「どう? オーディションのほうは?」
「最近全然だよ。落ちまくっててさ、今は充電中。そっちは?」
「この前いい線まで行ったけど駄目だったな」
マリナもコースケと同じく、映画の道に進みたいと思っている。
それゆえ出会いもオーディション現場だ。
何度もオーディションに参加していた二人は顔なじみになり、彼女がたまたまこの店にやってきたことが始まりだった。
二人は映画の話で意気投合し、今のように仲良くなった。
しかし役者としては、自分と同じで芽が出るのはまだ先のよう。
「おい、コースケ! いいから早くスシくれよ! この店は客をどれだけ待たせるんだ?」
「っと、すまんな、ボブ」
スシが待ちきれないと急かすのはボブ・リックハート、18歳。
彼も康介と同じ、映画俳優志望だ。
普段は下手なコスプレをして、ハリウッドの観光客相手に写真を撮り、金を巻き上げるケチなことをしている。
康介もそれに引っ掛かりいざこざがあったものの、今はこうして仲良くなっている。
自称小太りのウィル・スミス。
だが日本人の康介の目には、ウィル・スミスもエディ・マーフィーもサミュエル・ジャクソンもほぼ同じように映っている。
ぱっと顔が思い浮かぶ黒人なんてモーガン・フリーマンしかいないよなぁ、なんて思いながらテーブルにスシを並べていく。
「待ちに待ったぜ、俺のサーモンちゃん」
ボブはサーモンを太い指でつまむと、しょうゆにべったりと浸からせ、うまそうに口に運んだ。
そしてとどめにドクペをぐびっと飲む。
「毎回思うんだけどさ、スシとドクペは合わないだろ」
「いや、そんなことないぜ。なかなか合うんだよ。なぁ、マリナ?」
「ごめん、私そんな変な組み合わせ、無理」
そういうマリナはスシとマウンテン・デュー。
人のこと言えないじゃないか、という言葉はとっさに喉奥に飲み込んだ。
「あ、そうだ、コースケ」
ボブは口いっぱいに頬張っていたスシをドクペで流し込み言った。
「俺さ、前にシュワちゃんとスタローン、どっちが強いか考えとけって言ったよな? そろそろ答え、聞かせてもらうぜ」
「シュワちゃんだな」
康介は即答する。
「あの衰えない筋肉量こそその証拠だよな。年とってもパンパンじゃないか。それにカリスマ性も抜群。州知事に選ばれるほどの人気だぜ? ま、そのカリスマ性はあの個性的でコメディ感満載、だけど頼れる熱い男ってキャラクター性にあるよな。もうたまんなく惚れちまうぜ」
シュワルツェネッガーの話をする康介は、まるで恋する乙女のようだ。
次々と彼のいいところを挙げてはうっとりとした瞳でそれを想像する。
「シュワちゃんになら抱かれてもいいかも……」
なんてとんでもないことを口に出してしまうくらい、彼のシュワ愛はすごいのだ。
もちろんその理由は一つだ。彼が初めて真剣に見た映画『ターミネーター2』で主演を張ったシュワルツェネッガーに憧れて、この業界を目指したのだから。
「お、おう……もういいや、コースケ。マリナはどう思う?」
「シュワちゃんもスタローンも私に言わせればまだまだ2流よ。一番強いのはジャッキー・チェンって相場が決まってるでしょ!」
『……そうなのか?』
康介とボブは顔を見合わせて言葉を吐く。
クエスチョンマークを浮かべる彼らに、マリナは立ち上がってジャッキー・チェンについて語り始める。
「確かにシュワちゃんもスタローンも強いかもしれない。けどそれはただ単純に筋肉の強さであって、ジャッキーは技が強いのよ。カンフー、わかるよね? 小柄なジャッキーがカンフーを使ってアメリカの大男をバッタバッタとなぎ倒していく。最高じゃない? とにかくジャッキーは技で天辺をとるから」
彼女の言葉もまるで恋する乙女だ。
今、頭の中ではジャッキーの様々な姿が渦巻いているのだろう。
「なんか口が寂しいわね」
と、ミントタブレットを掌に出してから、ひょいっと口に放り込んだ。
ジャッキーがよくやっている食べ方だ。
「ほら、出たよ。ジャッキー食い」
これほどまでのジャッキー熱のせいで美人な彼女に人が寄り付かないのだ。
「ジャッキーのためなら私、木人になるわ……」
「木人……?」
「カンフー映画の修行シーンでよくあるでしょ? 筒型の木に腕みたいなのが何本か刺さってる奴」
なんとなく理解できた、と康介は小さくうなずいた。
「でも私が言ってる木人はジャッキーの『少林寺木人拳』のやつで」
「わかったわかった! でも、ジャッキーって……」
「あぁ、顔がね……」
「何よ、ブサイクだっていうの?」
『顔がいつも違う』
その瞬間、マリナは力なく椅子に崩れ落ちた。
「確かにそのとおりよ……私だって映画のポスター見て「これジャッキーだったの?」って驚くことあるわよ……」
ジャッキーの映画は見るたびに髪型が変わったり、老けていたりで少しわかりづらいのだ。
「……この話はやめにしよう。傷つくだけだ」
「そうだな……」
よよよ、と泣くふりをするマリナをなだめながら、康介たちは2度とこの話をしないと誓った。
だがその誓いは過去何度も立てては破ってきたもの。
今回のそれもきっと1週間もすれば破られる。
どの俳優が一番か、それは映画好きにとっては避けては通れない道なのだから。
「それより新しいゾンビ映画の話でもしようぜ!」
「ほんとコースケってゾンビ映画好きね。あれってほとんど内容同じじゃない」
「わかってねぇなぁ……ゾンビ映画ってのはな」
康介の自慢気な声は、店の奥から響いた怒声にかき消される。
「おい、康介! 解体の準備さっさとはじめろ!」
「わかった! というわけでまたあとでな」
康介はさっと奥へ引くと、冷凍庫から巨大なマグロを取出し台車に乗せる。
それをホールへ運び終えるころ、伯父は日本刀を持ってやってきた。
いつものパフォーマンスの時間だ、と喜んで客たちはマグロの周りにたかりだす。
「きえぇぇぇぇ!!!」
周囲の目を確認した後、伯父は奇声を上げて刀を振り下ろした。
まさに一瞬の出来事。カチカチの冷凍マグロの頭があっけなく地面へ転がり落ちたのだ。
「オミゴト!」
「ワザマエ!」
客の掛け声に応えるように、伯父は一気に日本刀でマグロを捌きあげた。
「相変わらずタイショーの技はすごいわね」
「伯父さんがすごいのか刀がすごいのかわかんねぇけどな」
「確かあの刀ってワカンダ王国でビブラニウムをもらって」
「あぁ、沖縄の服部半蔵に刀を打ってもらったらしい。ムラマサって名前だったはず」
「思ったんだがタイショー、映画の見すぎじゃないか?」
ボブの言葉に確かにそう思う、とうなずく康介。
ワカンダ王国は『ブラックパンサー』の故郷、ビブラニウムは『キャプテン・アメリカ』の盾の素材。
沖縄の服部半蔵に至っては『キル・ビル』のキャラクターだ。
これが映画の見すぎでなくてなんという。
「真偽は伯父さんのみ知るってやつだな」
「いや、完全に嘘だと思うけど……」
「康介! 早く握れ! ネタは鮮度が命だ!」
「わかったよ」
一度冷凍しておいて何が鮮度だ、と思うが口には出さない。
余計なことは口に出さないのが彼の主義なのだ。
今日も一日、彼はスシを握っては出してを繰り返しすぎていく。
日に日にオーディションに対する熱意が減っていることもしらずに。
そして、この日常が終わりを迎えることも知らず、ハリウッドは彼を置き去りにしていくのだ。
「はぁ……映画に出たいなぁ……」
今日も今日とて彼はいつものように仲間たちの前でそうつぶやく。
「オーディション受けないと出れるわけないでしょ?」
「でもまだ英語の発音とか自信ないんだよ。この前厳しく言われたし……」
「この前って2か月も前でしょ?」
「2か月もあれば充分だろう?」
「そんなことねぇって。俺は完璧にマスターしてあいつらを見返したいんだ」
「あっそ」
今まで康介の話を聞いていたマリナだが、ついにそっぽを向いてしまった。
彼女はつまらなさそうにストローでジュースをすする。
だがカップに残されたジュースは残り少なく、ずぞぞっ、と音を立てる。彼女はさらにつまらなさそうに口を尖らせた。
「おい、康介! ゴミ出し忘れてるぞ!」
「いっけね」
「コースケ、お前ほんとタイショーに怒鳴られっぱなしだな」
「おじさんが俺をこき使いすぎるだけだよ」
「聞こえてるぞ、康介!」
小さく肩をすくめた彼はそそくさとゴミ出しへ。
ゴミ捨て場に両手いっぱいのごみを放り捨てる。
だがその後、店に戻らずコンビニへ。
ゴミ出しの日は彼のチェックしている映画誌の発売日なのだ。
「あったあった」
雑誌コーナーの映画雑誌をぺらぺらとめくり新作の映画をチェック。
巻頭のインタビューには、話題の最新作で主演を張った新人俳優。
その俳優は康介と同年代。
彼は小さく舌打ちをしてそのページをわざと読み飛ばす。
「悔しいかい、君?」
「……誰ですか」
背後からかかった男の声に振り向かずに答える。
いや、振り向けなかったのだ。背後の男の視線が、前を向いていても鋭いと感じられたのだから。
雑誌を読むふりをしながらちらり、と窓ガラスを覗きその姿を確認した。
40代くらいで、ややしわが目立つ男だ。口元にはひげを蓄えている。スタンリー・キューブリックに似ていなくもない。
面識のない男だ、康介は思う。
「同い年くらいの男に主演を取られ、悔しいんだろう? わざわざ日本からやってきたというのに、自分はスシ屋でくすぶっているたまじゃない、そう思ってるんだろう?」
「……」
何もかも見透かされている、この見ず知らずの男に。
康介は自分の足が震えていることに気が付かない。
それが怒りから来るものか、焦りから来るものかもわかっていない。
「どうだろうか? 君が望むならチャンスをやろう。もちろん主役だ」
男は懐から小さな紙を取り出して、いまだ雑誌から顔をあげられない康介に見せた。
「私はロバート・グレイス。映画監督だ。明日の10時、撮影を開始する」
ロバートは康介のポケットに無理やり紙をねじこむと、その場を去ってしまった。
彼が去ると康介の震えも収まる。
「……俺、スカウトされたのか?」
紙にはロバートの名前と、撮影場所らしき住所が書かれていた。
「……ってそろそろ戻らなくちゃ!」
またおじさんに叱られてはたまらない。
康介は乱雑に雑誌を棚に戻し、スシ屋へ戻る。
その最中、足が自然と早まっていたのは、何も伯父に怒られたくないというだけではなかった。
「なんだよ、これ……思ってたのと、違うぞ」
翌日、やや曇り空だが康介の心は晴れていた。前日から待ちきれず、30分も前に現場となる大きなストリート街へ訪れた。
しかしそこには200人ほどの群衆がすでに待機していた。
どういうことか訳が分からず戸惑っている間にもその数は増えていき、10分を過ぎたころには300人ほどに膨れ上がっていたのだ。
ここに集まったのは様々な人。白人、黒人、康介と同じくアジア圏の人間も見える。男女も年齢もバラバラ。
「それに、なんでお前らまで……マリナ、ボブ」
「なんでって……誘われたからよ」
「おなじく」
なんとその群衆には康介の友もいたのだ。
群れの中に一際美人がいるなぁと近づいた康介だが、よく見るといつもの見慣れた顔だった、というわけだ。
「誘われたなら言ってくれよ……」
「だってコースケいなかったし。もし私たちだけが誘われたってなったら絶対嫉妬するかなって……」
「あぁ。だから黙ってた」
「お前ら……まぁいい。俺は主役だからな」
「主役? 私たちと同じ待遇なのに?」
康介は小さく呻いた。
もし自分が主役なら、マリナたちと待遇が違ってもおかしくないはず。
なのに何の説明もない、しかもよく考えれば唐突に主役なんておかしな話だ。
「それ、だまされてない? 数集めたかったからわざと主役にするって嘘ついたのかも」
「そんなことない! と思いたい……」
さも自分が特別だという口ぶりで誘っておいて、結局大勢のうちの一人だった。
康介は自分を誘ったロバートを恨む。
「とにかく、俺は監督に文句言ってくる」
「なんで? 主役の待遇にしろって?」
「おいおい、そんなことしたら出してもらえなくなるかもだぜ?」
「とにかく俺が主役だって言った真意を聞き出さなくちゃ収まらないって」
というわけで康介は大股で歩き、スタッフたちのもとへ向かった。
やめとけばいいのに、背後の声も彼の耳には届かない。
「なぁ、ロバート・グレイス監督はいるか?」
彼はスタッフの一人を捕まえてそう尋ねた。
すると奥からサングラスをかけた男が近寄ってくる。
肌がきれいな白人の若い男だ。
「ロバート・グレイス? 誰だそれは? あと監督は俺だ」
「は? 俺はロバートさんからスカウトされたんだ。主演のな」
「ちっ……誰か監督名乗ってスカウトした奴いるだろ……面倒な奴連れてきやがって。しかも主演って」
男はサングラス越しでもわかるくらい嫌な目つきを康介に投げる。
一歩後ずさる康介だが、ここで諦めることはなかった。
「とにかく、ロバートさんを出してくれ」
「誰かロバート・グレイスって奴、知ってるか? 少なくとも俺はそんな男聞いたことがない」
周りのスタッフも首を横に振るだけ。
彼は今度、嘲りと疑いを込めた瞳で康介を見た。
「お前、本当にスカウトされてきたのか? 画面に映りたいだけなんじゃないか?」
「いいや、俺は本当に」
そう言って先日貰った紙を出そうとしたところで、監督は言葉を遮った。
「ま、いいや。エキストラは多ければ多い方がいい。特別に出演を許可してやるよ。ほら、撮影はじまるから配置につけ」
監督は顎でスタッフを呼びつけて、康介を群集の一人へと押し込めた。
「今から撮影するのはゾンビ映画だ。向こうからゾンビがやってくるから思い切り逃げてくれ。ただし、捕まったりするなよ? 捕まる役は決まってるからな」
「……分かったよ」
本当にただのエキストラ。逃げるだけ。捕まることすら許されない。
もしかすると画面に一瞬しか映らないのかもしれない。
そう考えただけで康介のやる気ゲージはマイナスへと突き抜け、地のマグマまでたどり着く。
ここに来るまではやる気ゲージは月を貫くほどもあったというのに。
「どうだったの?」
「……」
マリナの言葉にも答える気力はなかった。康介は虚ろな瞳でストリートの先を見た。
本物そっくりの虚像の街。そこがハリウッド。
虚像を実像にするのが俳優の務め。
だが自分はハリウッドの虚像に飲まれた有象無象の一人。俳優によって、実像に変えられる一人にすぎないのだ。
康介の瞳には、いつの間にか涙の雫が浮かんでいた。
「こ、コースケ!? なにも泣くことないじゃない」
「……分かってるよ」
「悔しい? じゃあその悔しさをバネにして次頑張ろうよ」
「頑張るって、何をだよ……」
「それは」
マリナの次の言葉を、監督の怒声が遮った。
「撮影を始める! 今からお前たちはゾンビに襲われる一般人だ! とにかく逃げろ! 死ぬ気で逃げろ! いいな? 撮影、開始だ!」
カメラが回ると同時に、群衆の背後からゾンビに扮した俳優が10人ほど走ってやってきた。
「おい、コースケ! ゾンビが走ってるぜ! 『28日後……』リスペクトかな?」
「いや、走るゾンビなんて今のご時世いっぱいあるだろ……それにしても、安っぽい造形だな」
ボブははしゃいでいたが、安いゾンビのメイクを見て康介は唾を吐く。
どこかで見たような肌が腐り落ちたゾンビの顔、ボロボロの服。それはゾンビっぽいのだが腕や足といった末端部分のメイクは甘い。作り物感満載だ。
こんな安いメイクなのだ、どんなB級映画になるのだろうか。
B級映画が好きな康介だが、こんな安っぽい映画を作ろうとしている監督にあのような目で見られたのかと思うと、無性に腹が立った。
「コースケ! 走らないと!」
「お、おう……」
マリナに背を押されて康介も走る。
ふと周りを見ると、奇声を上げながら逃げる人やわざとこけてみる人がいる中、大半の人間が完全にマラソン大会のように無心で走っているだけ。
「カットカット! 君らやる気あるの!?」
「ま、そりゃカットするわな」
康介ははぁ、とため息を吐いた。
「カメラに映りたいのって、俺だけじゃないだろ……」
「コースケ? さっきからどうしたのよ?」
「別に……監督に腹立ってるとか、そんなことないから」
「これ終わったらタイショーにおスシ握ってもらお? 私がおごるから」
「俺も俺も。コースケが機嫌悪いと居心地悪いしな」
「それ、どういう意味だ?」
「ボブは一言余計なのよ」
ボブの頭にチョップを食らわせるマリナ。
「お前チョップ痛いんだよ……」
「ま、カンフーやってるからね」
いつものような空気で、康介の気は少し楽になる。
「ただ逃げるだけじゃない! 命を懸けて逃げるんだよ! お前らゾンビ映画見てないだろ! ……あ? 遅刻した俳優だぁ? 早くセッティングさせろ!」
監督の怒声にさらされながら、遅れてやってきたゾンビ俳優はスタッフにもたれかけながら、ふらふらとした足取りでゾンビゾーンへ向かう。
ねっとりと引きずるような足取り。服の隙間から覗く零れ落ちるぬらぬらとした臓物。目は虚ろで生気がないが、口元だけは獲物を見定める獣のように歯茎むき出しだ。
安メイクのゾンビ俳優と比べると圧倒的なクオリティ。
それが本物のゾンビのように康介の目には映った。
「あれ、大丈夫かな? 体調悪いのかな?」
「二日酔いじゃないか?」
だが二人にはただの体調が悪そうな俳優にしか見えていないようだった。
スタッフが離れた後、ゾンビ俳優は色のない瞳で虚空を眺めていた。
「う~ん……まぁ二日酔いに見えなくは、ないな……」
俳優のことを気にしても仕方ない。康介は話題を断ち切るように前を向き、ぐっと伸びをして筋肉をほぐす。
「やる気、出た?」
「スシのためならな」
「食いしん坊だね」
そう言ってにこりと笑うマリナに、康介はドキリ、と胸が一つ高鳴るのを感じた。
「……ま、まぁな」
だからそれをごまかすためにそっぽを向く。
だがまた監督の声が響き、現実に引き戻される。
「さぁ撮影開始だ! 今度こそ死ぬ気でやれよ! 死ぬ気でやってない奴はつまみ出す! アクション!」
カメラが回りまたゾンビ俳優が走る。周りと一足遅れ、体調の悪そうなゾンビ俳優もスタートした。
今度は周りの人間は本気を出して逃げているようだ。
康介も今まで見たゾンビ映画を思い出しながら、それっぽく逃げる。
「ぎゃぁぁぁぁぁ!!! 痛い! 痛い!」
(迫真だなぁ……)
例の本物そっくりなゾンビに食われる俳優の迫真の演技を背に聞きつつ康介は走った。
「痛っ……!」
と、康介の隣を走っていた30代くらいの女が転んだ。誰かと足が引っ掛かったのだろう。
もしこれを助けた瞬間がカメラに映ればポイントが高いかもしれない。
康介は下心丸出しで女に手を差し伸べた。
「あ、ありがとうございます……」
女の手が康介に伸びる。
もうすぐその指が触れ合う、その刹那だった。
「うがぁぁぁぁぁ!!!」
「きゃぁぁぁぁぁぁ!!!!!!!」
あの体調の悪そうなゾンビ俳優が、彼女の健康的で肉付きのよい腕にかじりついた。
歯が肉に食い込み、血がぼたり、ぼたり、と地面に零れ落ちた。
「あんた食われ役だったのかよ! ビビるわ!」
突然のことだったので、思わず康介はちびりそうなほど驚いたのだ。
その腹いせに怒り交じりの言葉を吐いたが、女性は瞳に涙を浮かべてふるふると首を横に振った。
「あ? 違うのか?」
「私はただのエキスト……がはっ!」
びしゃっ! と康介の顔めがけて生暖かい液体が飛び散った。
思わず目を閉じる康介。
だが彼が目を閉じる寸前、俳優ゾンビの腕が彼女の喉を噛み千切ったように見えた。
「……見間違いだろう」
自分にそう言い聞かせ、彼は顔にかかった液体を拭いて目を開けた。
「……嘘、だろ」
だが、それは見間違いでも何でもなかった。
彼女の女性特有の細い首に深々と突き刺さった、俳優ゾンビの腕。
その腕を滴り落ちる赤い雫は、康介の顔に降りかかったそれと同じだった。
「そう、撮影に、違いない……俺たちに演技させるための、演出だ……」
「た……す……ケ……がぼぅ……」
女の口から血が零れ落ちた。びしゃびしゃと音を立てそれは地面へ落ち、それが落ちるように彼女の顔も、ぐったりと地を向き二度と上がることがなかった。
「ぎゃああぁぁぁぁぁ!!!」
「たすけてくれぇぇぇぇ!!!!」
「死にたくない! 死にたくないぃぃぃ!!!」
周りの異常なほどの騒音。演技にしては真に迫りすぎたその声につられるように、康介はあたりを見回した。
「……は?」
そこは、先ほどまでとは打って変わり阿鼻叫喚の地獄だった。
先ほど康介の前で行われたことが、ほかの場所でも起きている。
しかも一般人同士が、だ。
エキストラで参加したものが、エキストラに噛みついたりしている。
ゾンビ役の俳優がエキストラから逃げ惑っている。
だが逃げ切れずにエキストラにつかまり、殺されている。
「……これ、撮影、だよな……?」
自分に言い聞かせるように康介はつぶやいたが、地獄の叫びの中から響いた監督の声が、わずかな希望をぶち壊した。
「こんなこと台本にないぞ!? 誰だこれをセッティングしたものは!? 俺の作品が! めちゃくちゃになって……うわぁ! 来るな! 来るなぁぁぁぁぁ!!!!」
監督も食われてしまったのだろうか。康介は怖くなり足が無意識に震えていたのを、ようやく自覚した。
「み、みんな……死んだ……?」
康介は身近に転がる死を感じ、背筋が凍り付いた。
今この場で多くの命が散っている。
早く逃げなければ自分も死んでしまう。
必死にそう言い聞かせて足を一歩踏み出そうとして、足首に何かが絡みついているのが分かった。
「はぁ……大丈夫……なにもない……なにもない……」
そう言い聞かせて下を向いた康介だが、もちろん現実は残酷だ。
彼の足に絡みついたのは、先ほど目の前で殺された女性の手だ。
だが、女性は康介に手を伸ばしたまま死んだ。
ならこの腕は何か、その答えは単純だった。
「う、うわぁぁぁぁぁ!!!」
死んだはずの女性が、顔を上げて康介を見たのだ。
ぎょろりとした、真っ白で生気のこもっていない瞳で。
そして、康介に噛みつこうとした。
彼はとっさに足を何度も振り降ろし、女性の頭を潰した。
「はぁはぁ……はぁはぁ……」
彼は走った。
全力疾走で。
目の前に迫る死の恐怖、あたりを包む死の空気。
その恐怖の中、彼はついに壊れ、口元に歪な三日月を浮かべた。
「はぁはぁ……ゾンビだ……」
その三日月は、やがて彼をどうしようもない高揚の渦へと突き落とした。
「あはは! ゾンビ! 本当のゾンビだ! ははは! 映画が! 現実に! なったんだ!」
彼は笑いながら走る。
ゾンビによる惨殺の横を通り過ぎ、血を被りながらも、彼は笑い、両手を上げて走った。
「ゾンビの時代が! いいや! 俺の時代が! 来たんだ!!!」
康介は目の前に横たわっていた別のゾンビの頭を、思い切り踏みつぶした。
この世界なら主人公になれる。ゾンビ映画好きの自分なら、確実に。
「ゾンビ映画に詳しい俺が! パニックを収める! まさに主人公!」
今までの屈辱だらけの負け犬人生から、主役に一転だ。
康介の心はそんな高揚で満たされていたのだ。
「あはは! ゾンビ! ゾンビ! アイラブゾンビ! ……わっ!」
走っていた康介を横から引きずる二人の影。
「ちょっとコースケ! 何やってるのよ!?」
「そうだぜ!? 殺してくださいって言ってるようなものだろ!?」
「……マリナにボブか」
友の顔を見た康介は一気に高揚が覚め、現実に戻るのを感じた。
「とにかくここは危ないから、建物の中に隠れるよ」
康介たちは近くの空き家のセットへと入り、身を隠した。
建物の外はもうゾンビだらけ。
役者も、スタッフも、見学に来ていた一般人も、すべてがゾンビとなり果てた。
ゾンビの群れはこの通りから抜け出して広がっていくのだろう、ハリウッド中、いや、アメリカ中に。
下手をすれば、全世界に拡散するだろう。
この日、映画の聖地はゾンビの聖地へと変わった――。
「あぁもう! 何がどうなってるのよ!」
ヒステリック気味にマリナが叫んだ。彼女の言葉はキン、と空虚な部屋に残響を生む。
「どうしたもこうしたも、あの俳優が実はゾンビだったってオチだろ」
「ゾンビなんてありえないわよ! こんなこと、あっちゃいけないわ!」
そう叫んだマリナの声に負けないような音が、外から響いた。
康介たちはそっと窓から外をのぞくと、車が街灯にぶつかっていた。
中から転げ落ちるように出てきたのは、もうすでに人ではなくなっていたのだが。
「実際、ゾンビがいたんだからありえるだろ」
一方康介はあっけらかんとしている。
その気楽さにマリナは背筋に冷たいものを感じていた。
「ゾンビなんて映画の中のお話でしょ!? なんで現実にいるのよ!」
「それはわかんねぇよ。おじさんがワカンダ王国はあるって言ってたし、案外現実って映画と同じだったりな」
「そんな無茶苦茶な……」
マリナは頭を抱えてうずくまる。どうやら現実を受け入れられず、パンクしてしまったようだ。
「なぁボブ。お前も嬉しいだろ、ゾンビだらけの世界になって」
「そんなわけないだろ!」
言葉の勢いは強いものの、ボブは部屋の片隅で頭を抱えてがたがた震えている。
ボブも康介と同じでゾンビ映画好き。だが二人の反応はまるで反対だ。
「お、おい、ボブ……」
「殺されるんだ……俺は黒人だからゾンビパニックじゃ生き残れない……」
「は?」
「黒人はスリルのためにすぐ死ぬんだって……」
「それって映画の話よね?」
「それを言うならゾンビもだろ? ゾンビが現実に出てきた以上ゾンビ映画のルールも現実になるって考えてるんだろ?」
「じゃあやっぱり俺は死ぬんだ……」
「それならお前、面白黒人枠になれよ、山寺宏一に吹き替えられるくらい。それなら生き残れるだろ?」
「黒人が全員陽気だと思うなよ! 俺はウィル・スミスだけど『メン・イン・ブラック』でも『バッドボーイズ』の陽気な感じじゃないって! 俺は『アイ・アム・レジェンド』のクールなウィル・スミスなんだって! 最後は結局死ぬんだって!」
「円盤じゃ別エンディング収録されてたろ……」
康介はボブとの話を切り上げ、窓の外を見た。
外では少数の生き残った人間がゾンビと戦っているが、冷静さを失っている彼らではやはり敵うわけもなく、次々と殺されていた。
「ね、ねぇ……これ、見てよ……」
震える手でマリナがスマホを見せた。
スマホではツイッターが立ち上がり、ハリウッドの惨劇がリアルタイムで更新されていた。
「もうゾンビが広がって……各地で事故……」
ツイッターにはゾンビがハリウッドに徘徊する動画や混乱による事故の動画、死にたくないというつぶやきが広がっていた。
スマホを見るマリナの顔色は青白く染まり、手も震えていたが、まだ瞳の奥はあきらめてはいないようだ。
「……このゾンビツイート、ハリウッドしかなくないか?」
康介は自分のツイッターを開きタイムラインに軽く目を通す。
「やっぱり思った通りだ。このゾンビパニック、ハリウッドしか起こってない。日本の俳優は普段通りツイートしてるし、ゾンビってエゴサしてもハリウッドでのパニックの映像しか見つからない」
「……つまり外は無事ってこと?」
「少なくとも今はね」
「それじゃあもしかしたら外から助けが来るかもしれない!?」
「……可能性はなくはないな」
ただ康介の頭にはゾンビ映画のお決まりのパターンが浮かんでいた。
助けが来た軍隊は大抵の場合全滅するのだ。
「ただここでずっと隠れてるわけにはいかないだろ。あくまでここは映画の舞台用の空き家だし。もし救助が来るとしてもいつになるかわからないしさ」
康介はあたりを見回す。
新品のように綺麗な壁や床、所狭しに置かれた家具。
だがまるで生活感がない。その理由はここが映画のセットの一部だからだ。
何もない虚像の部屋で過ごすほど、彼らもバカではない。
「でも隠れてるわけにはいかないってどうするんだよぉ……」
いつも以上に頼りない声音のボブの言葉に、マリナは答える。
「まずはここで奴らを観察して生体を学ぶわよ。行動パターンが分かれば打開策も見つかるかもしれないわ」
助けが来るかもしれない、マリナは淡い期待により幾分か落ち着いたようだ。
「いや、まずは武器と食糧だろう。感染はまだ初期段階だ。様子を見ている間もゾンビの数は増える。多勢になった奴らに丸腰で向き合うのは危険すぎる。それに他の奴らが食料を独占する場合だってある」
「な、なぁ……ショッピングモールなんてどうだ? 食料もあるし着替えもある」
「ボブ、それはダメだ」
「ショッピングモールは穴場だって……」
康介は震えるボブの肩を撫で、口を開く。
「ボブ、思い出せ。ロメロの『ゾンビ』を。『ドーン・オブ・ザ・デッド』を。あと見てるかわかんねぇけど日本の『アイアムアヒーロー』を」
「確かにどれもショッピングモールが出て大変なことになってるけど、モール舞台の映画ってそれだけだろ? ゾンビ映画なんて世に腐るほどある」
「ゾンビだけにか?」
「ぷっ……」
ようやくボブが笑顔を見せたところで康介はまた話し始めた。
「確かにモールを舞台にした映画は数少ない。だが日本のマンガは違う。何かあればショッピングモールに行ってはろくでもないことに巻き込まれてる。『ハイスクール・オブ・ザ・デッド』やら『がっこうぐらし!』やら……あとゲームじゃ『デッド・ライジング』だな。ショッピングモールで武器作ってゾンビと戦うゲーム。とにかく日本じゃショッピングモールは危険地帯なんだよ」
「コースケ、もしかしたら軍が助けに来てくれるかもしれないしそれまで待つのは」
「却下だ。『28日後……』見てないのか?」
「残念ながらゾンビ映画は専門外よ」
「『28日後……』では軍の士気を上げるために救出した女性に乱暴してもいいというルールがあった。それに『ワールド・ウォーZ』だと救出した後も数減らしの恐怖に怯えなくちゃならなかった」
「でも映画でしょ?」
「映画がフィクションだとわかっていても面白いのはなんでだ? 設定やキャラの行動が真に迫ってるからだろ? 映画で起こったことは現実でも起こるかもと思えるからだろ?」
「……確かに」
マリナはうぅむ、と唸り部屋の中を行ったり来たり。
考え事をしているのだろうがまとまり切れず、頭を抱えてしまった。
「とにかく武器と食糧だ。おじさんのところに行けばそろってる。缶詰もあるし、もしもの時のために銃も隠し持ってたし」
「用意周到ね……」
「アメリカで店を出すならこのくらいの用意がいるって言ってたからな。それにおじさんの安否も心配だし。まぁ死んでるってことはないだろうけど、やっぱり心配だ」
そういうわけで彼らの向かうべき先は決まった。
彼らは変わり果てたこの町で、第一歩を踏み出したのだ。
「何よ、これ……」
だが、彼らの一歩は、絶望にも似た絶句で彩られた。
「たった10分くらいいただけなのに……ゾンビだらけじゃない」
ツイッターの動画よりもさらに現実は悲惨なものだった。
道路を我が物顔で歩くゾンビたち。まるで買い物するかのようにコンビニにたかるゾンビの群れ。
道路は血に塗れ、臓物や肉片がちりばめられものすごい死臭が広がっている。
車は乗り捨てられ、生者が生きていた痕跡は完全に掻き消えていた。
まさに死の街。
彼らはただただ、命を失った街を歩くしかなかった。
「ここから歩いていくとどのくらいかかるのかな?」
「来たときはバスで1時間ちょいだったから、倍以上はかかるかもな」
10分ほど歩いたが、あたりはゾンビだらけ。
ゾンビに会わぬよう迂回していればもっと時間がかかるだろう、とは康介は言えなかった。
「なかなかの旅になりそうね……」
あたりを見回しながら慎重に歩くマリナ。ヒステリックは鳴りを潜めていたが、まだ顔色が悪い。その後ろに隠れるように震えるボブが続き、康介は最後尾で背後に意識を集中させていた。
「それにしても、酷いわね……どこもかしこもめちゃくちゃ」
ゾンビパニックの発生から約30分が経過している。
たった30分だが、すでにハリウッドは見る影もない。
乗り捨てられた車が群れを成していたり、建物の壁に血がべったりと張り付いていたり、地面には踏みつけられたカバンや人形が転がっている。
生存者の影は見えず、あたりをうろつくのは生きた死者だけだ。
「だがそのおかげで隠れながら進めるだろ?」
康介たちは車の影から陰に移動しながら進んでいく。
「奴ら、動くモノや音に反応してくるみたいだからな。こうして隠れながらが一番いい」
ゾンビの生態を探りながら進む道。
だが見つかればその時点で死が待ち構えている。
彼らは一歩一歩、生を確かめるように踏みしめていく。
「な、なぁ……何か、変な声、聞こえないか?」
びくびくと震えるボブがそう言い、二人とも耳を澄ます。
だが聞こえるのは幽かな風の音だけ。ボブの言う声など聞こえない。
「聞き間違いじゃないか?」
「いや、確かに聞こえたんだ……でも、今は聞こえないんだよ」
「は? ゾンビが息をひそめて襲い掛かってくるとでも言いたいのか? ありえないさ、あいつらに知能はないはずだ。だって死んでるんだからな。映画でも知能を持ったゾンビなんて聞いたことない」
「でも……」
ボブは姿勢をかがめ、ゆっくりとあたりを見渡した。
何者も見逃さぬよう瞳を凝らし、耳に全神経を集中させる。
と、その瞬間だった。
彼の耳が小さな足音をとらえる。
それと同時に大きな黒い影が康介たちの前を横切り、ボブに襲い掛かった。
「うわぁ!」
咄嗟にボブは大きく後ろへのけぞる。
彼のいた場所には、ゾンビの鋭い爪が食い込んでいた。
「ふしゅぅぅぅぅ……」
ゾンビは悔しそうに息を吐くと、さっと車の影へ姿を隠した。
「ほ、ほら見ろ……隠れてたゾンビだ……しかも、真っ先に黒人の俺を狙ってきた……」
「お前を攻撃したのはさておき、確かに隠れてるな……」
「コースケ! 危ない!」
マリナの言葉で康介は咄嗟に身をかわした。
またもゾンビが奇襲攻撃を仕掛けてき、すぐに車の陰に隠れる。
「おいおい……こりゃ、やばいな……」
康介たちは武器がない。戦う手段がなければ逃げるしかない。
しかし隠れながら襲い来る相手から逃げるには、相当の努力が必要となる。
「……ここで、迎え撃つ……」
康介は地面に目を走らせる。
彼の目がとらえたのは、30メートルほど先に転がる鉄パイプ。
表面がボコリとへこみ血が付いていることから、以前誰か使っていたものだとわかる。
「あれ、見えるか? 鉄パイプ、誰でもいいからあれを拾って応戦するぞ」
「そうね……こっちは三人、相手は一体。誰かが囮になれば」
「マリナ! 上から来てる!」
ボブの声に咄嗟にマリナは地面を転がった。
またも奇襲をかけてきたゾンビに康介は舌打ちを一つ。
キッと鋭い瞳でゾンビを睨んだ。
だが、その瞳がすぐに疑問にくすむ。
「なぁ、あのゾンビ、どこかで見たことないか?」
「え……?」
言われてマリナもボブもゾンビを見た。
「中途半端なM字剥げね……あと眉間にしわ寄せてちょっと顔歪ませてる」
「なんかあの顔、というか頭か。見たことあるんだけどなぁ……」
と、考え事をしている間にも襲い掛かってくるゾンビ。
「散れ! とにかく武器になりそうなものを拾うんだ!」
康介は叫んで皆に指示を通す。だが、それが裏目に出てしまったのだ。
ゾンビのくすんだ瞳は康介をとらえ、勢いよく彼に向かって駆け出したのだ。
「俺がハズレかよ!? チクショウ!」
康介は悪態とともに走り出した。
ゾンビもこれはチャンスといわんばかりの全力疾走で追いかけてくる。
「走るゾンビってうぜぇ! めちゃくちゃ早いし!」
康介は振り向かずに叫んだ。
ゾンビはすでに死んでいるせいで、人間のようにリミッターをかけた運動をしなくてよいのだ。
常に全力疾走。自壊しても構わない、といわんばかりだ。
だが康介だって負けてはいない。
役者になるためにある程度の運動能力は身につけていたからだ。
それに日本では剣道も少しだが習っていた。長物の扱いにもそれなりの知識がある。
「間に合えーっ!」
足をフル回転させて鉄パイプまで走った康介は、最後の最後、頭から滑り込んだ。
思い切り伸ばした手が鉄パイプを握り、康介はぐるりと回転して着地。
すぐに振り向くと同時に、鉄パイプに全身の力を込めて薙いだ。
「もう一回死ね!」
だが鉄パイプは「ぶんっ!」と大きな音を立てて空を裂くのみ。
「い、いないっ!?」
康介は周囲をぐるりと見まわす。
だがゾンビの影を見つけることができなかった。
あたりは康介を囲むように車が群れを成している。そこに隠れたのだろう。
「隠れたのか……」
鉄パイプを竹刀のように構え殺気を探る。
目だけを動かし、耳に神経を集中させ相手の動きを読む。
だが動かない。
ただ時間だけが過ぎていき、鉄パイプを握る彼の手はジワリと汗ばんでいく。
呼吸音がやたら大きく耳に響き、静寂が鼓膜をひりつかせる。
だがその静寂を貫く一瞬の足音。
「そこだ!」
右前方の車の陰からの音。
それに反応して康介はとびかかった。
車のボンネットを蹴り、大きく跳躍して鉄パイプを振り下ろした。
「またいない!?」
だが、音のした場所に影はない。
力強く地面を叩きつけた鉄パイプから、彼の手に痺れにも似た痛みを生み出した。
思わず手を離しそうになり、咄嗟にもう一度握りなおす。
だがそれが隙となった。
「ぐあぁぁぁぁ!!!」
康介がとびかかるより一瞬早く、ゾンビは隣の車の陰に移動していたのだ。
ゾンビの罠にまんまとはまってしまった康介は、襲い来る鋭く尖った歯から鉄パイプを盾にして防ぐしかできない。
「なんなんだよこいつは!」
隠れながら攻撃してくるゾンビなど、康介の見たゾンビ映画には一つもなかった。
それゆえどう対処していいかわからない。
今はただ噛まれないように防ぐだけだ。
「くそっ……! こいつっ!」
康介は力を込めてゾンビを蹴り上げた。
よろよろとよろめくゾンビ。その隙に距離を取る。
だが向こうも同じで、さっと車の陰に身を潜め、距離を取られる。
「ほんと、どうすりゃいいんだよ……」
逃げようと思ったが、相手はものすごい勢いで走ってくる。
どうにか隠れてもその先で他のゾンビと出くわすかもしれない。
これは自分の知っているゾンビパニックではない、と感じている康介は、今ここでこのゾンビを倒すしか方法はなかった。
「もしこれがゾンビ映画なら、どうするかだな……」
思考を巡らせるがうまい考えが浮かばない。
そもそもゾンビ映画の主人公のピンチの切り抜け方は、大抵仲間が助けに来る、というパターンが多い。
『バイオハザード』も『ワールド・ウォーZ』も『ウォーキング・デッド』でさえピンチを切り抜けるのは仲間の力だ。
康介はちらり、とマリナたちのほうを見るが彼女らはまだ武器探しに必死のようだ。
「あとは仲間じゃない誰かが助けに来てくれるってパターンだけど……そううまくは」
うまくはいかない、そう言おうとした彼の言葉は、突如響いた銃声によってかき消された。
バスンっ! と乾いた音が鼓膜を震わせ、じくり、と小さな頭痛が走る。
その一瞬の後、ぼたり、と何かが崩れ落ちる音。
車の下から、赤い液体が広がっていく。
「……うまくいっちゃったよ」
あっけにとられていた数秒、はっと意識を取り戻してあたりを見渡す。
ゾンビの隠れた車の後ろ、そこに建つアパートの屋上にいる人影を康介は捉えた。
大きなライフル銃を背負っていることから、その人影が仕留めたことに間違いはないだろう。
「コースケ! 大丈夫だった!?」
「あ、あぁ……あの人に助けてもらった」
康介は顎で屋上の人影を指した。
マリナたちも人影を見つけ、ほっと胸をなでおろした。
何せこのパニックで初めての生者、しかも武器を持っているとなるとなお心強い。
「なぁ、コースケ! 早く会いに行こうぜ!」
「いや、その前に確かめたいことがある」
康介は車の後ろに回り込み、そこで倒れこむゾンビの顔を確認した。
「なんかこの顔、見たことあるんだけどなぁ……特にこの中途半端な禿げ頭……」
ゾンビの眉間には大きな風穴があいているにしても、その顔は判別できる。
M字に禿げた頭、死んでさえも眉間に寄せたしわ、豆のような顔の輪郭。
康介はどこかで見たはずなのに、その顔を思い出せない。
「ねぇ、『ブルース・ウィリス』じゃない?」
「いやいや、ブルースはつるっぱげ……じゃない! この中途半端な禿げ方は『ダイ・ハード3』のブルース・ウィリスだ!」
ダイ・ハードは言わずと知れたアクション映画の名作シリーズだ。
その主演はブルース・ウィリス。
ちなみに1のころから禿げの兆しはあった。
「最近禿げたブルースしか見たことがなかったけど、そういやまだ髪があったころに似てるんだ」
「似てるっていうより、そっくりだ。画像検索してみた」
ボブがスマホで画像を見せる。
全員、確かに、とうなずいた。
「え? じゃあブルース・ウィリスって、ゾンビになっちゃったってこと? しかも殺しちゃったよ?」
「いや、何度も言うけど今のブルースは禿げてるし、ゾンビになったからって急に髪が生えるわけないだろ?」
「そっくりさんってこと?」
そう尋ねたマリナにボブはうなずいた。
「ハリウッドには偽者が多いからな」
自称ウィル・スミスで観光客から金を巻き上げているボブの言葉には、なぜか説得力があった。
「ま、とりあえず今はそんなことよりもだ。早くあの男に会いに行かなくちゃな」
康介の一言で皆アパートの屋上を見た。
そいつは待ちくたびれたかのように、退屈気に葉巻の煙をくゆらせている。
彼らはアパートに足を動かした。
「あの、さっきは助けてくれてありがとうございます」
屋上で階下を覗きながら葉巻をふかす何者かに、康介は頭を下げた。
彼に倣い二人も頭を下げる。
そいつは葉巻を吸い込み、ひときわ大きな煙を吐き出した。
そしてぴんっ、と指ではじいてそれを階下に捨てると康介たちのほうを向いた。
「え……?」
康介はその顔を見て、驚いた。
「お、女の子……?」
そう、背にごついライフルを構え、葉巻をたしなんでいるのは、康介らと同い年くらいの女の子だったのだ。
彼女は『ハリー・ポッター』の4のころの『エマ・ワトソン』に似て勝気で、少し子供っぽさが残る顔つきをしている。
身長はアメリカ人にしては小さく160センチほど。
なぜかゴスロリを着ている彼女。その服から覗く華奢な腕からは、ライフルを自在に操る姿が想像できない。
「……」
「……えっと」
無言の少女に康介らは戸惑う。
そんな康介らに少女は近づいて、品定めするようにじろりと鋭い視線を送る。
ゴスロリ服を着た小柄な少女に睨まれるというアブノーマルな事態に、康介は少しだけだが興奮を覚えてしまっていた。
「……感染は、していないですわね」
少女は鋭い視線を和らげて、ポケットから葉巻を取り出し、慣れた手つきで火をつけた。
「で、あなた。どうしてわたくしが女だからと驚いたんですの?」
「え、いや……その……やっぱりライフル背負って葉巻って女の子のイメージからかけ離れてるっていうか……」
「それ、男女差別ですわよ。わたくしだって敬愛する殿方の真似ぐらいしますの」
険悪になりつつある二人の間にマリナが割って入る。
「あ、そういえば名前、聞いてなかったね。私はマリナ」
「アーモンド・シュワルツェネッガー」
「……え?」
「わたくしの名前ですわ。アーモンド・シュワルツェネッガー」
「あ、俺は榛名康介……ってシュワルツェネッガー!?」
康介は思わずアーモンドの顔を見た。
幼く愛らしい顔だが、鋭い瞳がどこか『アーノルド・シュワルツェネッガー』に似ているような気がした。
「え!? シュワちゃんの娘!? いや、アーモンドなんて名前の娘はいなかったし……また別の隠し子!?」
『違うよ。こいつは大のシュワルツェネッガー好きなだけ。本名はイルダ・メアリー』
と、アーモンドの胸につけた無線機からノイズに乗って、若くてやんちゃそうな声が聞こえる。
「シュワルツェネッガー好きではありませんわ! わたくしはシュワルツェネッガーを敬愛していますの! シュワルツェネッガー様になりたいんですの!」
『と、そんなこと言ってるのは放っといて、ボクはジェイソン・ジェニー。訳あって君たちの会話は全部聞かせてもらってる。ちなみにだけど『13日の金曜日』とか一切関係ないから』
ジェイソンと名乗った男は一方的にしゃべった後黙る。
「……えっと、イルダって呼んだ方が」
「アーモンド・シュワルツェネッガー、ですわ」
「……こだわりがあるんだな、アーモンド」
一通り全員自己紹介をしたのち襲い来る沈黙。
お互い話すことはたくさんあるが、何から話せばいいか、そもそも話したところで事態を把握できていないので無意味ではないか、など考え、結局口を開けずにいた。
康介は会話の糸口を探るべく、まずは一番気になっていたことを口に出す。
「で、ジェイソンはどうして俺たちの会話を聞いてるんだ?」
『あ~……まぁいいか。君たちは大事な生存者だし』
ジェイソンは少し考えた後、話し始める。
『まずはボクたちの素性を話したほうが早いか。ボクは軍人で、こいつは元軍人の妹』
「元軍人の妹?」
「ザックお兄さまの頼れる右腕ですわ」
『そう、こいつの兄貴、ザックって言うんだけど、今俳優たちを避難用シェルターに誘導してるところだ。で、こいつは僕のアシスタント。話を戻すと先日匿名で脅迫状が届いてね。ハリウッドで大惨劇を起こすって内容だ。でも上は匿名でいたずらだと思っていた。だからこっちで役者の卵として活動してたアーモンドとザックに頼んだわけだよ、大惨劇を止めてくれってね』
「……止めてないけどな」
「ゾンビは想定外ですわ」
アーモンドがぼそり言った。
『痛いところを突かれたのは置いておいて……ボクたちは武器を用意してハリウッドで待機していた。小型ドローンも配備したんだ。まぁそのおかげで君たちを助けられたし、この会話も聞けているんだけどね』
康介はあたりを見渡して、空中に浮いているドローンを見つけた。
『とにかくだ。ボクたちは生存者を探すよ。君たちはここで待機していてくれ。今救助のヘリが向かっている』
「やったね、コースケ! これでこんな危険なところからおさらばできるよ」
「あぁ! これで死なずに済むな、コースケ!」
「……あ、あぁ」
手放しに喜ぶマリナたちとは違い、康介は素直に喜ぶことができなかった。
もちろん脱出できることはマリナたちと同じで嬉しく思っている。
しかし自分が活躍できる舞台を降りるのも悔しい。
ここでなら主人公になれる、康介の思いは無残に打ち壊されることとなったわけだ。
「あ、そう言えば」
どうせ戻るならと康介は疑問に思っていたことを口にした。
「さっきブルース・ウィリスに似たゾンビがいたんだけど、これってどういうことだと思う?」
『ブルース・ウィリス? ……それ、ただ似てるだけだろう? さっきも言ったけどハリウッドにいた俳優の大半は地下のシェルターに隠れてもらっている』
「お兄さまが頑張ってくれてますわ」
『万が一を考えていろいろ用意してたおかげだよ。だから俳優はみんな無事。もちろんブルース・ウィリスもね』
「……そうか」
康介はほっとした。
好きな俳優たちは無事、それが嬉しく思えたのだ。
『とにかく、もうすぐヘリが付くから待っていてくれ。アーモンド、護衛を頼めるかな』
「どうしてわたくしがこの失礼な男の護衛なんて」
「目の前で失礼とか言うなよ……」
『そこを何とか……少しの間護衛頼むよ』
「……了解ですわ」
結局、仕方なく康介は黙ってヘリを待つしかできなかった。
だが、その10分ほど後、彼の期待を上回るほどの情報が舞い込んでくることとなる。
『すまない。状況が変わった。迎えにはいけない。ヘリが墜落した。それともう一つ最悪のニュースだ。ハリウッドに隕石が迫っている。アーモンド、その元凶を叩いてほしい』
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