転機

 暑い、夏も終わりに近づいているのにまだまだ暑い日の出来事だ。一人の男性と出会った。三十代の男性。お客さん。いつものようにこなす。いつものように腕の傷について問われる。いつもと違ったのはそこから先だった。

「よく見せてくれるかな。」

変わったお客さんだと思った。傷に対してこだわりがあるのだろうか。加虐趣味のあるような風貌には見えないが、そうなら今後は注意しなければいけない。いつもと違った反応を示され、あらゆる考えが脳内を交叉する。


 しばらくして先に口を開いたのは僕の方だった。

「あの…どうかされましたか。」

彼はあれから長い時間じっと傷を見つめていた。思わずこちらから、本来は触れられたくなく、いつもそれとなく流すようなものなのに、こちらから声をかけてしまったのだ。それほど長い時間、彼は僕の傷を見つめていた。

「次は家で会おう。必ずまた指名するから。」

彼はそう言った。それと同時にセットしてあったアラームが鳴り出す。

「シャワー浴びましょっか。」

僕は戸惑いをなんとか隠すため、いつもと同じように動くことだけに集中した。ホテルの広い風呂場にもかかわらず密着して体を洗う。スポンジは使わず手で泡立て彼の全身をくまなく洗った。お金を受け取り、ホテルの前で軽く挨拶をすると事務所のある雑居ビルへと向かう。


 イノウエ…彼が予約する際に使っていた名前。もちろん偽名だとは思うがそれからの日々はこの名前から予約が来る事を待ち続けることになった。不安感、期待感、混ざり合い複雑な感情になっていく。しかし、良い方悪い方どちらに転んでも自身のこの日々から抜け出せる気がした。そんな結局のところ根拠なんて何もない少しだけ期待が上回ったような曖昧な気持ちがだんだんと膨れていったまま夏は終わった。


 ただ繰り返されるだけの日々の歯車が、少しだけ軋むような、そんな気がした。

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