夜明け

 朝、目が覚めた。誰よりも遅い就寝。誰よりも早い起床。すっかり明るくなった街は夜の喧騒とは打って変わって道ゆくスーツ姿の男たちは皆俯き、静かだった。ベランダから街を見下ろしタバコに火をつけると腕の傷が増えていることに気がつく。寝付けない時、不安に襲われた時、いつもこうして自傷してしまう。一瞬の安心感を求めて一生の傷を得る。


 じめじめとした嫌な梅雨時だった。その日初めて僕は自傷した。漠然とした不安感からしてしまった。タバコや酒に溺れたのはそれよりもっと前、少しずつ人生が悪化していると感じる。初めて自傷した日から三月みつきほどしか経っていないが、それでも両腕には無数の切り傷があった。あの日、僕を襲った不安感。その正体こそが今もこうして夜の仕事を続ける事由であり、僕の精神を蝕む悪い虫の一つなのだ。


 家庭内暴力。逃げ場がなかった。まだ幼かった頃からだった。兄弟もなく家族は父親しかいなかった僕は公営の集合住宅で育った。毎晩ギャンブルに明け暮れ家に帰ってきては僕に殴りかかった。知らない人が何人も家に来たこともあった。当時小学生だったが必死にもてなした。できるすべてを尽くした。殴られるのが怖かった。しかし、それよりも唯一の肉親を失いたくなかった。まともな食事すら与えられず発育の悪かった僕は中性的で幼く、その容姿故に不幸な目に遭うこともあった。父親に逆らえない、つまり父親の友人にも逆らえない。彼らの言いなりになるしかなかった。その頃から僕の日常は終わらなかった。毎晩のように求められ彼らの色欲の渦の中へと貶められた。辛くて苦しくて怖くて痛くて、それでも父親は助けてくれなかった。それどころか泣こうものなら容赦無く暴力を振るわれた、その時から悲しくても涙が出なくなってしまった。必死で笑顔を振りまいた。少しでも明るく、弱いところは誰にも見せないよう努めた。


 しばらくすると、事務室で寝ていたキャストや事務員たちが徐々に起き出した。僕は急いで部屋に戻るとシャワーを浴びて支度をする。開店まであと少し時間があるが腕の傷を仲間に見られたくなかった。心配をかけたくないのか、それともまだ心のどこかでそういった姿を見せることに恐怖しているのかは分からない。ただ、今は見られたくない。手短にシャワーを済ますと暑い夏の日にもかかわらず長袖を着込んだ。今日も忙しくなる。そのほうがいい、何も考えなくて済むから。少しでも長い時間、現実から離れたいから。


 そうして、僕の夜は明けた。そうして、日々がまた始まった。

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