第2話 忘れられない記憶

 俺が失恋してから、数か月ほど過ぎた頃。

中川とは、相変わらずサークルと英会話教室では一緒になってしまうのだけど、あえて余計な話はしなかった。

 英会話教室では、中川と立花さんはいつも仲良さそうにしていたから、きっと上手く行っているのだろうとは思っていた。

もちろん、俺的にはそんな二人の姿を見るのはかなり辛い時間だった。

この居たたまれない状況を続けるのは、やっぱり無理で、英会話教室もサークルも近い内に辞めようと考えていた。


 そんなある日、大学の門を出たあたりで中川と会った。

「あ、中川、ちょうどよかった。ちょっと話があるんだけど」

「んーなに?」

 中川はあんまり俺の話には興味ないという雰囲気だったが、かまわず続ける。

「俺、サークルも英会話教室も辞めようと思ってるんだけど」

「……ふーん」

「色々あったし、今のままでは気持ちがすっきりしないし、少し環境変えてみようかと思って」

 失恋の痛手が大きすぎて、耐えられないということは、中川も察しているようだった。

「……そっか」

 でも、あえてはそのことには触れてこなかった。


その時──

歩道の向こうから、立花さんがつかつかと歩いてくるのが見えた。

でも、なんだか様子が変だ。

大好きな彼氏に会いに来たはずなのに、顔が笑っていない。


「あれ? どうしたの今日は? ……。なんかあった?」

 中川がとぼけた顔して、笑いながら言った。

「ねぇ。聞きたいことがあるんだけど」

 立花さんの声は、あきらかにいつもとは違う。

何かを探るような……とても不安に満ちてる気持ちが伝わってくる。

そんな様子を察した俺は、そっと数歩下がって横を向いた。

「私の友達にちょっと変なこと言われたの」

「なに? 変なことって?」

「その……中川さんにはもう一人彼女がいるよって、二股かけられてるよって」

「えっ?」

「そんなのウソだよね?」

 気づかれないように、立花さんの方をチラッと見てみると、今にも泣きだしそうな顔をしていた。

「あー……」

 そう言いながら、中川は片手で自分の頭を抱えた。

「……ウソだよね?」

 立花さんは確かめるように、何度もそう繰り返す。


「……もうバレちゃったの?」

「え……どういうこと?」

「あーごめん。実はね、付き合ってる子いるよ、同じ大学の子」

「……ウソ……」

「……悪い。このことは言わない方が沙也のためだと思って言わないでいた」

「で、でも……その人とは遊びなんでしょ? ならすぐに別れて」

「いや、もうそいつとはだいぶん前から付き合ってるし、どちらかというとそいつとの方が……だから、別れろと言われても……」

 立花さんは、そのままほろほろと泣き出してしまった。


(……!)

 ショックを受けたのは、立花さんだけでなくもちろん俺もだった。

由紀奈さんとは別れると言う約束だったはずだ。


「でも、沙也のことも好きだよ」

(なんだよ、そのついでに好きみたいな言い方!?)

 まったく悪びれた様子がない中川に、余計に腹が立った。


「沙也。そんなに泣かないでさ」

 何も言えず、泣き続ける立花さんの肩に中川が触れた瞬間……

立花さんはその手を大きく振り払い、走り去ってしまった。


「あちゃー」

 中川が困ったなぁと言う顔をしている。


「どういうことだよ!それに、なんで、あんなにひどいこと言った?」

 思わず俺は声を荒げた。腸が煮えくり返り、頭から噴火しそうなくらい怒りがこみ上げてきた。


「別れるって言っただろ!?」

「あぁ、そのつもりだったんだけどね」

「お前が、由紀奈さんとちゃんと別れて、立花さんと付き合うって言ったから……」

 ……そう言ったから中川を信じた。

「んー、由紀奈もいい女だし捨てがたいんだよね。沙也もかわいいと思ったし。俺のこと好きって言ってくれたから……いいじゃん。本命は由紀奈だけど、沙也のことも大事にしてたつもりだけど」

「はぁ?」

「オレ的には問題ないんだけどな~。それが嫌って言われるなら……それはもう仕方ないなぁ」

「俺はお前を信じて、立花さんのこと諦めたんだ」

「えっ、何? じゃぁさあの時、早く沙也に告ればよかったじゃん。沙也が俺のこと好きになる前にさ」

「そっ……それは……」

 そう言われてしまうと、言い返す言葉がない。

「ていうか、お前が沙也に告ってても付き合えたかどうかはさ……?」

「……」

「沙也は俺のことが好きになっちゃったから仕方ないよね。それを”諦めた”とか言われても」

中川の言葉がグサグサと胸に突き刺さる。


立花さんは俺じゃなくて中川のことが好きで、俺のことは全く眼中になかった。


──そんなことは全部わかってる……。

  でも今俺が怒っているのは、そういうことではない。

  立花さんを傷つけたことが許せない──


「沙也もさー自分から好きだって言ってきたのに、なんだよアレ」

「なんだよって、お前……?!」

 胸の奥から、さらに怒りがメラメラとこみ上げてきて……


──俺は人生で初めて……人を殴った。


気がついた時には、目の前に中川が倒れ込んでいて、頬を押さえながら俺を見上げていた。

「……ふざけたこと言うのもいい加減にしろ」

それだけ言って、その場をスタスタと急ぎ足で立ち去ると、後ろで中川の「ちっ」という舌打ちが聞こえて来た。


その後のことは、正直あまりよく覚えていない。


 気がつくと俺は、家のベッドに倒れこむように突っ伏していた。

情けないくらい、涙があふれ出てくる。

あいつを殴った右手の指が、ズキズキと痛む。

でも、それ以上に心が強く締め付けられ、言いようのない痛みを覚えた。


 あいつに立花さんのこと相談しなければよかった。

立花さんと中川が付き合うきっかけをつくってしまった……俺のせいだ。

学祭になんて、誘おうなんて思わなければ……。

立花さんのあの悲しそうな顔が、脳裏に蘇る。

「……くそっ……」


──俺の恋が叶わなかった……それだけで終わりだった方がどれだけよかったか。

俺は、自分を責めることしか出来なかった。

誰かを傷つけてしまうということが、こんなにも辛く苦しいことだと思い知らされた。


始まりも、終わりもなかったのに、深く傷つけ自分も傷ついてしまった俺の初恋だった。

人を傷つけてしまうと、自分にも深い傷がつくことを、この時に知った。


今でも、時々思い出す度に、胸の奥がぎゅっと苦しくなるせつない思い出だ。



──それから数年後。


社会人になった俺は、毎日、仕事が忙しく慌ただしい日々を過ごしていた。

忙しいというより、充実した日々とも言えるのかもしれない。


 中川とはあの時以来、口もきいていなくって、卒業した後の所在は何もわからない。

あの英会話教室も、すぐに辞めてしまって他の英会話教室に移った。

……立花さんのことも、わからないままだ。

もうほとんど思い出すことはなくなっていたけれど、それでもふとした時に、あの記憶が蘇ってくることがあって、胸がズキズキと痛み、息をするのさえ苦しくなってしまう。

だから、あの時のことは、できるだけ心のずっと奥にしまい込んで忘れようとした。

月日が流れれば、きっと忘れられる……そう自分に言い聞かせて。


「おい、三山。部長が探してるぞ。」

 会社の廊下で、すれ違いざまに同僚がそう声をかけてきた。

「部長が? なんだろう? 俺、なんかやらかしたかな?」

「あーいや、たぶんさ有給のことじゃない? 今、その辺の調整やってるみたいで、他の奴も順番に呼ばれてた。お前も有給一日も使ってないだろ?」

「ああ、そうだっけ? でも休めと言われてもねー。休む理由もなくって」

「部長も、人事部の方から言われてるみたいだよ、ちゃんと休ませろって。」

 俺は何かをやらかしたのかと思って少し焦ったが、そういう話ならちょっと安心した。

「そっか。わかったありがとう。」

 そのまま自分のデスクのある部屋に向かおうとしたが、もう一度同僚に呼び止められた。

「そうだ。三山、三山、なぁ、あれどうなった?」

 同僚は、少しにやけながら俺に近付いて来て、声を小さくして聞いてきた。

「あれって?」

「あれって言えば、あれだよ。お前、総務課の菊池さんに告白されたんだろ?」

「え? なんで知ってるの?」

「そりゃ、そうだろ。菊池さん社内でも一位二位を争う綺麗どころだぜ。その菊池さんが誰かに告白したなんて、そりゃ一大事だろ?」

 同僚が、どこからその情報を得てきたのか知らないけれど、確かに俺は少し前に菊池さんという同じ会社の女性に告白をされた。

けれど……

「その話なら、もう断ったよ」

「えーウソだろ? なんでなんで?」

「いや、中途半端な気持ちで誰かと付き合いたくなかったから……」

「ずいぶん、かっこいいコト言ってるように聞こえるけど、なんか納得いかねぇなぁ」

 同僚は顔を斜めに傾け少し目を細め、俺を睨む。

「それに……」

「それに?」

「あ、いや……何でもない。悪い、仕事詰まってるから行くね」

 そう言って、さっさとその話を終わらせた。

「なんという、もったいない話……」

 同僚のつぶやきを背中で聞きながら、俺は逃げるようにデスクへ戻った。

確かに菊池さんは、容姿端麗で素敵な女性ではある。


──でも、どんなに素敵な女性ひとだってみんなが言っても、必ず好きになるかどうかはわからない。相性だってあるし。正直、今は好きじゃないし……そんな気持ちの状態で、お付き合いをするとか、考えられなかった。



 手に持っていた書類をデスクの上に置くと、とりあえず部長の元へ行った。

同僚の言うように、あと三ヶ月の間に使ってない有給を消化するようにという話だった。

休めるのは嬉しいけれど、自分が担当している仕事が滞ってしまうのが怖い。

同じ部署の人間に、その分の仕事をお願いしていかなくてはいけなくなる。

お互い様と言えばお互い様で、全てを自分でやろうと思わなければ、問題のないことなのだけど、なんとなく人に委ねきれない部分もあった。


でも、きっと俺が有給をちゃんと取らないと、他の人たちが取りにくくなるのかもしれないと思った。上司にも後輩にも違う形で迷惑をかけてしまう。

俺は出来るだけ、仕事を片付けて有給を取る方向で考えることにした。


 でも、この無理やり消化した有給のおかげで、奇跡の再会に導かれるなんてこの時は、夢にも思っていなかった……。

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