第26話 テオバルト吼える
突如として戦場に現れた存在に、テオバルトは呻き声を漏らした。
生き物ではあるのだろう。
テオバルトは帝都に留まって指示だけ出すような将軍ではなく、積極的に各地を回る行動的な将軍だった。
そんなテオバルトでも、あのような生物は見たこともなかった。
帝国内で最大の生き物を引き合いに出しても、あの半分にも満たないだろう。
当てはまるとするなら、もはや伝承や伝説の中にしか生きていない怪物ぐらいしか思いつかない。
ずしん、ずしん、と地響きを立ててそれは動き出した。
鱗を持った爬虫類のように見えるが、四本の脚を持っているところからすればトカゲに近い生き物なのか。
「ギャアアアアアァァァァァァァァァァァァッ!」
九つ首の化物が、天に向かって凄まじい咆吼を挙げた。
それだけで兵達が震え上がる。
帝国兵だけではなく、同盟軍の兵達もまた剣を取り落とさんばかりに動揺していた。
「怯むな! 我らには皇帝陛下より賜った加護があるではないか!」
テオバルトの隣に位置していた部隊から、指揮官であるらしい高らかな声が響き渡る。
確かにその通りだった。
だがテオバルトは、まずいと感じる。
隣の部隊は現れた巨大生物に向かって猛然と襲いかかった。ハルトから与えられた《ソーマ》がもたらす効果が彼らに自信を与えているのだろう。
《ソーマ》の効果は凄まじい。
それでもテオバルトの直感は現実のものとなった。
怪物に斬りかかった第一陣の攻撃は、その鱗に覆われた肌に傷一つつけることはできなかったのだ。
そして怪物は、複数の頭で一斉に帝国軍を睨みつけた。
視界から外れた同盟軍はこれ幸いと前線から退きはじめる。
(やはりか!)
迂闊に手を出したことで、帝国軍だけが怪物から敵として認定されてしまったのだ。
怪物の、首の一つが大きく息を吸い込む。
「いかん!」
テオバルトが撤退を進言する暇もなく、怪物は突出していた隣の部隊に何かを吐きかける。
それは燃えさかる、紅蓮の炎だった。
「うわぁぁぁぁぁぁっ!」
地面を嘗めるようにして、真紅の炎が襲いかかる。
それが消え失せた後には、酷い火傷を負った兵達が無数に倒れ伏す。
地面もブスブスと音を立て、焼け焦げる嫌な匂いが広がっていた。
全滅していても不思議ではなかったが、逆にこの程度の被害で済んだのはハルトがもたらしてくれた《ソーマ》で全員の守りが堅くなっていたからだ。
ただ本当に深刻な被害は、兵達の中に強烈な恐怖感を植え付けたことだろう。
誰もの表情から覇気が消え、及び腰になっている。
これでは勝てるものも勝てない。
だがテオバルトにも、この場面をどう切り抜ければいいか名案はなかった。
しかし戦場は待ってくれはしない。
テオバルトの部隊が停止している間にも、他の部隊が自棄になったように巨大生物に特攻をしかけた。
功名心からか、それとも単に恐怖からの暴走か。
いずれにしても目の前の脅威が取り除かれるならよかったのだが、どのような部隊、どのような武器種・兵種の攻撃に晒されても化け物は傷一つつかなかった。
あれだけ《ソーマ》によって強化された帝国軍が、何一つ成果を挙げられないのだ。
化け物の強さよりも、むしろ自分達の無力を思い知らされたことに浮き足立っていく。
複数の首は、それぞれ別の意思を持っているかのように自由自在に動き、炎を、氷を、雷撃を、様々な攻撃をまき散らし帝国兵を一方的に蹂躙していった。
戦場に悲鳴が飛び交い、味方達が次々と倒れていく。
「こんなの、こんなの勝てるわけがないっ!」
誰のものまでかはわからないが、その絶叫が場の空気をより悪い方へと傾かせていく。
だがテオバルトだけが微動だにせずその場で立ち止まり、腹の底から声を張り上げた。
「狼狽えるな、青二才共がっ!」
空気を振るわせるほどの、怒声にも近い大喝で完全に浮き足立っていた兵達の意識が恐怖から逸れる。
だが一瞬だけだ。
このわずかな猶予で、彼らがほんのわずかでも希望を見つけられなければ再び部隊は大混乱に陥り、今度こそ踏みとどまることはできなくなるだろう。
理想は、テオバルトの指揮で目の前の怪物を打ち倒す術を提示すること。
テオバルトは生粋の武人で、戦の専門家だ。
物心がつくより早くから真剣を握り、酒の味を覚えるより先に戦場を駆け巡ってきた人生だった。
だがそんな人生で積み重ねてきた経験をすべて費やしても、方策など何一つ思いつかないのだ。
それでも、このまま恐怖に飲み込まれて敗れ去るなど、許せる結末ではなかった。
「聞けぃっ! 同盟の先兵共は、卑劣にも戦う術を持たぬ民草をなぶり殺しにしたっ! それは貴様らも知るところであろうっ! 悔しくはないのかっ!? 我らは武人。民草の前に立ち、自らの背で無力な民草を守るべき存在だ!」
その報告を聞いたとき、テオバルトは自分の血管が怒りで破裂するのではないかと思ったほど激怒した。
「それが己の矛と盾のはるか外側で、守るべき民草が蹂躙され放題になっていた!」
ハルトが帰還し、その報告を受けると同時に部下を伴い前線に駆けつけた。
同盟軍が帝都に侵攻する速度を落とすことはできただろう。
しかしそれだけだった。
同盟軍の勢力圏内に取り残された無数の罪もない人々が、ただ無為に殺され続けるのを自陣でじっと見殺しにしなければならなかったのだ。
「今一度問うっ! 貴様らはっ! 帝国軍の軍服に身を包む貴様らはっ! 悔しくはないのかっ!」
戦場は動き続ける。
味方軍の動揺は広がっている。
それでもテオバルトの声が届く範囲は、テオバルトが指揮する部隊かどうかの区別なく、その場に釘付けになっていた。
「残酷であることは承知している。それでもあえて貴様らに命じるっ! ワシと一緒に死ねっ! 死を覚悟で時を稼ぐっ! 命を懸けたとて、あの化け物にかかればわずかな猶予しか稼げぬやもしれぬ! だがっ! 我らが主は何者だっ!? 偉大なるオーガ皇帝! かのお方であれば、そのわずかな猶予で必ずや起死回生の策を捻りだして下さるに違いないっ!」
テオバルトの言葉で、初めて兵達の顔に希望の光が差した。
「民の悔しさを思え! 陛下の偉大さを思い出せっ! その二つがあれば我らは死ねる! 違うか、貴様らっ!」
応えろ、と祈りながらテオバルトは声を張り上げた。
彼らの心に突き刺さるかどうかは賭けだった。
そもそも、今、投げかけた言葉のどこにもテオバルトは関与していない。
つまりは完全な他人頼み。
情けないことこの上ない。
だからこそ、真っ先に死地に赴く覚悟を決めていた。
そして――。
「そうだ! そうだ! 俺のダチが向こうに住んでいた! 子どもが生まれたばかりだって、便りをもらったばかりだった! それを、あのクソ野郎共が踏みにじった!」
「妹が嫁いだんだ! どうなったかわからないんだ! あいつら、化け物の影に隠れて笑ってやがるんだ! 許せねぇっ!」
「あんだけオーガに似た陛下なんだ。将軍の言う通りだぜ! こっちにだって、並の人間じゃない守り神がついてるんだ!」
「そうだ! そうだぞ!」
「やるぞ!」
「怖い! とんでもない! でもやろう!」
「死ぬぞ!」
「おぉ、死んでやる! 助けられなかった人達の分、ここで踏ん張るんだ!」
「あとは陛下が何とかして下さるっ! 時間さえ稼げば、何とかしてくださるっ!」
「くっそぉっ! やってやる! やってやるぞぉぉぉっ!」
口々に、雄叫びが湧き起こる。
勇気などではない。
やけくそだ。
「いくぞっ! ワシの背に続けぇっ!」
そうしてテオバルト率いる帝国兵は、なりふり構わぬ決死隊となって巨大生物への特攻を開始した。
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