第48話
「何か、不安があるの、月夜」
真昼は質問した。
月夜はこくりと一度頷く。
「話してよ、その、不安を」
「原因は、不明。でも、たしかに、そんな不安が、私の中にある」月夜は下を向いたまま言った。「君が、いなくなっても、私は、大丈夫かな、という不安が、ある、ような、気がする、と思う」
「曖昧だね」
「だから、余計に不安になる」
沈黙。
「その不安の、原因は、何?」
「何、とは、何?」
「どうして、そんな不安を感じるのかな?」
「分からない」
「分からないのは、どうしてだろう?」
「どういう意味?」
「君は、不安が、好き?」
「好き、ではない」
「じゃあ、嫌い?」
「嫌い、でもない」
「どうして?」
「不安を感じなければ、死ぬかもしれないから」
「なるほど。つまり、動物として、不安を抱くのは、合理的だ、ということだね」
「そう」
「じゃあ、それでいいじゃないか」
「うん……」月夜は呟く。「でも、それで、大丈夫かな?」
「さあね。僕には分からない」
「誰なら、分かる?」
「君なら」
「私には、分からない」
「君とは、誰のこと?」
広場の入り口から、大きな犬を連れた老人が入ってきた。散歩をしているようだ。散歩をしている、の主語は、犬か、それとも老人か、と月夜は考える。またしても、今の会話とは関係のないことを考えているな、と彼女は思った。そう……。どれだけ、真昼のことばかり考えたくても、実際にはそれはできない。だから、きっと、彼が傍にいない日が続けば、自分は彼のことを忘れてしまうに違いない、だから怖いのだ、だから不安なのだ、と月夜は思索した。それは、たしかに、その通りかもしれない。やはり、人間には、物理的な距離が大きな障害となる。なぜなら、人間が物理的な存在だからだ。思考は自由でも、その思考を現実に反映するには、身体を動かすしかない。思考だけで充分なら良いが、月夜は、そう言えるほど、合理的な思考力を持っていなかった。
それが、自分の限界か……。
やはり、真昼が、物理的に近くにいてくれないと、駄目なのだ、と月夜は思う。
試験を受けずに、彼の家に向かった。
その行動が、距離を脅威だと感じている証拠だ。
「私も、君と一緒に、そちらに行きたい」
犬の動向を観察していた真昼が、その様子を見たまま薄く笑った。
「それは、無理だよ。無理ではないけど、やっぱり、無理だ」
「どっち?」
「無理」
「どうして?」
「君と、僕だけの問題じゃないから」
「じゃあ、誰の問題なの?」
「全体の問題」
「どの全体?」
「人間という社会」
「うん……」
「僕についていきたいから、ついていく、というのは、理由としては正しいけど、それは、きっと、合理的な答えではないよ」真昼は言った。「君なら、そのくらい分かるだろう? 僕も、そう言ってもらえて嬉しいけど、でも、それだけ。嬉しいよ、どうもありがとう、とだけ伝えておくよ」
月夜は答えない。
そう言われるのは当然だった。
今回は、自分と彼の関係が、いつもと逆転しているようだ、と彼女は思う。
たまには、そういうのも悪くなかった。
むしろ新鮮で面白い。
「今日は、何時に行くの?」
自分の中で、話が完結したと思ったから、月夜は話題を変えた。
「お昼には、出ると思う。一時くらいじゃないかな」
「それまで、一緒にいても、いい?」
「それは、君の自由だよ。人間に許された、身体の自由、というやつだ」
「なるほど」
「何が、なるほどなの?」真昼は月夜を見る。「なんか、変だなあ」
「何が、変なの?」
「返事の仕方が」
「よく、分からない」
「一時まで、何をする?」
「何もしないで、このまま、ずっと、座っている」
「ずっと座り続けるのって、ずっと立ち続けるよりも、疲れるよね」
「そうなの?」
「あれ、そう思わない?」
「思わない」
「電車に乗って、席が空いていたら、まずそこに座るだろう?」真昼は話した。「でも、一時間くらいすると、だんだん、立ち上がりたくなってくる。もしかしたら、立っている方が楽なんじゃないか、と思ってね。そして、ついに立ち上がる。吊り革に掴まって、窓の外を見ながら、物思いに耽るんだ。電車って、そういうふうに、立って外の景色を眺めるためにあるんじゃないかな、と思うこともあるよ」
「それで、立ち上がって暫くすると、今度は、また、座りたくなるの?」
「そうなんだ。だから、再び椅子に座る」
「その繰り返し?」
「いや、だんだんとその繰り返しにも飽きてくる」
「飽きたら、どうするの?」
「飽きた頃に、ちょうど駅に着くんだ」真昼は言った。「ああ、でも、車内で、端から端まで歩く、みたいなことはしたことがあるよ。あれは、なかなか面白い。バランスをとるのが大変だけどね。面白そうだろう?」
「ごめん、分からない」
「まあ、そうだろうね」
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