第49話
散歩をしている老人が近くまで来た。犬が彼らに興味を示したから、二人は彼の身体に触れる。温かくて、生きているのが分かった。とても生命力に溢れている。それに比べて、自分はどれだけ衰弱しているだろう、と月夜は思った。それは彼女に限った話ではない。きっと、真昼も同じことを思っている。だからこそ、二人の気は合ったのかもしれない。しかし、ここまで似通った人間がパートナーになって、いったいどのような利点があるのだろう、と月夜は考える。通常、相手が自分と異なる性質を持っていなければ、自分に齎される情報量が少なくなるから、一緒にいる価値は低くなる(価値、という言葉に嫌悪感を示す人間がいるが、そのほかに、このような概念を端的に表す言葉は存在しない)。だから、その考え方に従えば、彼らは、自分たちも知らないところで、相手に何らかの価値を見出していた、ということになる。
それは、いったい、どんなものだろう?
けれど、そう考えた瞬間に、月夜は、それを、どうでも良いことだ、と思った。
その思考が、最も価値がない。
月夜も、真昼も、結局何もしなかった。何もしなかった、というのは、目立ったことは何もしなかった、という意味で、呼吸や拍動さえ停止させて、噴水の前で仏像になっていた、という意味ではない。月夜は本を持ってきていたから、それを開いて読み始めたし、真昼は、ときどき口笛を吹きながら、冬の冷たい風に当たっていた。きっと、彼も引っ越しの準備で疲れたのだろう。
月夜は、真昼と過ごす時間が好きだった。とてものんびりしていて、これ以上ないくらい幸せな気持ちになれる。しかし、それが、暫くの間失われる。だから、彼とは別に、心の拠り所を見つけなくてはならない。心の拠り所なんて、自分には必要ないだろう、と彼女は思ったが、それはただの強がりでしかない。彼と過ごしていた時間を、別のことをして過ごすとなると、何をしたら良いのか分からなくなる。彼女は、試験の有無に関わらず毎日勉強するが、だからといって、勉強を趣味にするつもりはなかった。そんな趣味に没頭するくらいなら、布団で眠っていた方が良い、とさえ感じる。
家にあるウッドデッキに出て、風に当たりながら読書をするのも、なかなか良いかもしれない。けれど、今は冬だから、外はかなり寒い。やはり、室内でできることを探すしかない。
真昼がいなくても、自分は夜まで学校に残るだろうか、と月夜は考える。
彼女がそうするようになったのは、真昼に出会う前からだった。なんとなく、夜の学校、というシチュエーションに憧れて、適当に始めたことだったが、今では、もはや生活の一部になっている、といっても過言ではない。夜の学校は、静寂に包まれていて、とても落ち着く。彼女は、もともと、心に波風が立たない方だが、それでも、夜の教室で読書をする行為が、自分にはなくてはならないと感じていた。
真昼が、いなくなっても、自分は、夜まで、学校に、残るだろうか、と月夜はもう一度自分に問いかける。
しかし、答えはすでに出ていた。
時間が経過して、あっという間に午後一時になった。
「さて、じゃあ、僕は、そろそろ行くよ」そう言って、真昼はゆっくりと立ち上がる。「とても楽しかったよ、月夜。また、いつでも会えるから、気が向いたら、僕の新しい家においで」
月夜は顔を上げて、彼を見つめる。
「うん」
「少しは、不安は解消された?」
「たぶん、少しは、解消された」
「よかった。僕のおかげだね。感謝するといいよ」
「何がいいの?」
「いや、深い意味はない」
真昼は、その場で膝立ちになって、月夜と目を合わせる。
「あのさ、月夜」
「ん? 何?」月夜は首を少し傾げる。
「いや、やめておこう」
「何が?」
「次に会うときまで、保留しておくよ」
「何を?」
「言わなくても、分かるだろう?」
「うん……」
「じゃあ、そういうことで」
「分かった」
真昼は、いつも通りの歩調で、広場から出ていく。
月夜は彼の背中を見つめていた。
不思議と、寂しい気持ちにはならなかった。それどころか、とても清々しく感じる。今日は空も晴れていて、空気はいつも以上に澄んでいた。
涙は出ない。
再会したとき、彼は自分に何をするつもりだろう、と月夜は考える。
答えは分かっていたが、それでも、彼女には、まだいくつか候補があった。
そう……。
自分は、彼を全然理解できていない。
次会うときまでに、予習を済ませておこう。
冷たい風が吹いてきて、葉のない木々を静かに揺らす。
誰もいない広場にただ一人。
吐き出す息が、白く染まって、一瞬の内に消えていった。
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